暁闇に星ひとつ 03

 学園へ続く『扉』をくぐって戻ってきたウィッシュを出迎えたのは、おかえりなさい、と告げるきよらかな声の響きだった。水の流れのように清く、風の音のようにどこまでも響いて行くような、綺麗な、声。

 思わず即座に姿勢を正して視線を向けた先、立っていたのはやはり、白雪の女王、そのひとだった。冷えた月光をそのまま宿したような青銀の髪は長く、腰辺りで一直線に切り揃えられていて、今日も結いあげられる気配は見られない。

 はそろそろ三十に差し掛かるが、どことなく少女めいた、あどけなく無垢な印象の消えない女性だった。長い睫毛がしっとりとした影を落とす瞳は紫水晶のそれで、その肌は雪のように白い。

 ソキやウィッシュが持つのが整えられた人形めいたうつくしさであるなら、女性から感じるのは自然の中に存在するそれであった。真夜中の雪原に落ちる、一筋の月明かり。その印象を宿す、白雪の女王。

 膝をついて一礼しようとするウィッシュを手を払う仕草でとめて、白雪の女王は、なぜか楽しそうに笑った。

「学園に行っていたのでしょう? ウィッシュ」

「はい、陛下。ソキの熱が下がったって聞いて……あとは、明日の、天体観測の説明を。担当教員なので」

 早口でしどろもどろ告げて行くウィッシュに、白雪の女王はふふふ、と笑みを深くする。

「私は別に、あなたが何処へ行ってなにをしようと、咎める気はないわ。自由になさい、私の魔術師。ただ、その……問題を起こしたりしなければの、話では、あるのだけれど。ええ、そう、たとえば、スカートめくったりとか、お相手の同意なく胸をもむだとか、そういう、そういう……!」

 半分くらい泣いている声で告げられた言葉に、ウィッシュはなぜ、なにもない廊下に己の主君がそわそわと立っていたのか、その理由を理解した。ちらりと『扉』を振り返り、確認する。

「エノーラは、学園に?」

「……うん。本当の用事は楽音に、頼まれもののお届けだそうなんだけれど、先日、学園から砂漠へ繋がる『扉』が不調だったでしょう? 先にそっちへ行って調査してくるって言って……あの、あのね、ウィッシュ。今日は、もしかして、チェチェリアさん、学園に……?」

「いると、おもうよ。ロゼアの担当教員だもん……」

 声にならない声をあげて、白雪の女王はその場にしゃがみこんだ。ぷるぷる震えながら涙ぐむその姿は、寒さに震える小鳥を思わせる。

「ど、どうしよう……! エノーラが痴漢行為に及んでいたらどうしよう……! どうしようっていうか! 絶対! しているに! ちがいないよね! 私知ってる……! ふあああぁんっ、入学式の時は事前に食い止めたのにっ! やだもうやだやだなんで今日に限って忘れちゃうの……! ご、ごめんなさいチェチェリアさん、ほんと、ほんとにごめんなさいっ! 先輩今日のブラの色は何色ですかふえへへへっ、とか言っちゃう私の魔術師が痴漢行為を働いて本当すみません申し訳ないのでわたしエノーラが帰ってきたらうごかなくなるまで踏むことにするね……?」

「陛下、それ、エノーラの業界ではただのご褒美だからお仕置きでもなんでもないと思うよ……? ただのご褒美だよ……」

「……うええぇん」

 本気で涙ぐむ白雪の女王の肩にそっと手を置いて、エノーラは本当に完成されきった変態ですよね、と溜息をついた。心から同意する表情で幾度となく頷き、白雪の女王はすっくと立ち上がる。

「決めた。無視する。エノーラが痴漢行為に及んでたら、なにを話しかけて来ても、無視!」

 これで行こう、と拳を握る女王陛下に、ウィッシュはいやでもそれはそれで無視される快感に目覚めちゃうだけだと思うよエノーラ難易度の高い変態だから、という言葉を飲みこみ、従順な態度で頷いた。

 ここで駄目だと分かったら、白雪の女王は多分、本気で落ち込む。そしてウィッシュは女王陛下を心から愛する側近に、裏庭とかに呼び出されるに違いないのだった。

 顔かせ、ときらめく笑顔で恫喝してくる女王の側近たちを思い起こし、身震いしながら、ウィッシュはふと気になって、それを問いかける。

「陛下。エノーラ、なにを届けに楽音まで?」

「えっと……つけると声が出なくなる、チョーカー、だったかな……? ちょうど首回りにぴったりくらいのデザインでね、レースで編まれて、藤の花飾りが中央から下がっていて、とても可愛い魔術具だったわ。……『どうしようそういう意図は全くなかったんですが! これつけるとチョーカーっていうより、そういう特殊プレイ中に見えてやたらドキドキするから私これストルにバレたらヤバいっていうかツフィアにバレたら抹殺コース確定なので陛下骨は拾ってくださいねあっ踏みにじってくださったりしてもそれはそれで! では行ってきます』って言ってでかけて行かなければ、ものすごく可愛いただのチョーカー、に見える魔術具だったわ……」

「だ……誰の為の魔術具なのか、俺、分かっちゃった……えっ、なにそれエノーラ死にたいの……?」

 戦慄しきった表情で青ざめるウィッシュに、白雪の女王はくすん、と泣きそうに鼻をすすりあげて。他国に迷惑かけないで帰ってくるといいなぁ、と言った。言っておきながら、その希望が叶えられるとは思っていない響きだった。



 こわい、と訴えることがどうしてもできなかった。目を反らすことも、できなかった。ひそめた息をゆっくりと繰り返し、ひかりが満ちて行くさまを、ソキはただ耐えるように見つめていた。

 誰に言えただろう。誰に訴えることができただろう。

 祭りの準備が推し進められていく軽やかなざわめき、弾んだ人々の笑い声、飾りつけられていく森の木々や寮に施されて行く星のひかりの形をした灯篭。

 灯されて行く明り。火が熱する空気の匂い。歓迎の気配が満ち満ちる空気。楽しげな笑い声。それらを、こわいと、告げることなんて。どうしてできただろう。

『ほら、ソキちゃん。よくみてごらん……』

 熱砂を撫で抱いた風が吹く。笑い声をどこか遠くに。暮れてゆく町のひかり。血のような紅が闇に沈み、飾られた灯篭に火が入れられていく。

『アレはね』

 ひとつ、ひとつ、灯っていく。暗闇に明りが。それはまるで星のように。

『――キミの嫁ぐ、祝いだよ』

「お姫ちゃん? どしたの。体調悪い?」

 ひょい、とソキの顔を覗き込んで問いかけたのは、通りがかったユーニャだった。儀式準備部に所属しているというユーニャは、昨夜からずっと寮の中をかけずり回り、様々な飾りつけを施している。

 壁には星座の物語を描いたタペストリー、窓にはきらめく銀の硝子を張り付けて散りばめ、天井からは星型の灯篭や宝石飾りを吊り下げて行く。寮内を丸ごと夜の星空に抱かせるような装飾には、時間も手間も、魔力もかかるのだろう。

 額に汗するユーニャは疲労した顔つきで時間に追われる者特有の、そわそわとした気配をまとわりつかせていたが、さりとてソキを無視して立ち去ってしまうこともできないようだった。

 油で汚れた指先を伸ばしかけ、顔をしかめて服で拭いながら、ユーニャは返事を返さないソキの顔をもう一度覗き込む。

「どしたの、お姫ちゃん。……こんなトコにひとりで、どうしたの」

 ソキが座り込んでいたのは、談話室にある一人掛けのソファの上だった。

 窓の傍に置かれたそこからは、寮の前に設営されていく天幕や、森の木々にくくりつけられて行く灯篭、笑いながら行きかう寮生や手伝いに来た王宮魔術師たちの姿がよく見えた。

 普段であれば人のざわめきと気配に満ちた談話室は、今日に限ってほぼ無人である。ぽつん、と座りこむソキと、最終点検に来たユーニャ以外の人影は、ない。部屋へ向かってくる気配もなかった。

 皆、それどころではなく祭りの準備に走り回り、また、浮足立ってその時を待っている。時間が巡り、陽が陰ってくれば降り積もる神聖さが厳かな空気を降ろしてくるが、いまはまだ、その時ではなかった。

 新入生たちが、とある儀式の為に星降りの国へ呼ばれるまでも、いましばらくの時間があった。お姫ちゃん、と呼びかけるユーニャに、ソキは唇を開こうとしなかった。

 無視をしている訳ではない。視線だけが向いている。瞬きをして、呼吸をして、告げられる言葉を聞いている。その姿は、ひたすらに人形めいていた。哀れな程にうつくしく、くるしいほどに、儚かった。

 凍りついた森の、宝石のような碧がユーニャを見つめている。

「……けがれなき、砂漠の花嫁さん」

 からかうような普段の響きをひっこめて、ユーニャは恭しく、ソキの座るソファの前に片膝をついた。

「傍付きはどこへ?」

「……しらないですよ」

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