流星の夜編
暁闇に星ひとつ
暁闇に星ひとつ 01
病を宿す病床の匂いはなく、ソキから漂ってくるのはどこか清涼な、薬草園の花の香だった。ソキ自身も、なんとなく分かるのだろう。
強い匂いではないのだが、手首を鼻の近くに持って行ってすん、と嗅いでは、不思議そうに首を傾げて瞬きをしている。
ちょい、と服を摘んで同じようにして、また首を傾げているところを見ると、服に焚き染められたものではないらしい。
ちょうど朝食を選び、木盆に乗せて戻ってきたロゼアに、ソキはまだあまり本調子ではないと分かる、普段の三割増しでほわほわした響きの声をかけた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん」
「ん? はい、ソキのヨーグルト」
甘みのつけられていないとろとろのヨーグルトに、ちいさく刻まれた果物が数種類混ぜられたそれは、朝食に出るものの中でもソキのとっておきのお気に入りだ。
よく噛んでゆっくり食べるんだぞ、と言い聞かせるロゼアにこくこく無心に頷き、木の匙でひとくちぶん、口に入れたところでソキはそれを思い出した。
小動物的な動きで一生懸命噛んで飲みこみ、ソキはもう、と視線をヨーグルトからロゼアへ移動させた。
「あのね、ロゼアちゃん」
「うん。もうすこし食べられそうなら、他にもなにか持ってくるな。でも、無理はしなくていいから」
「んんー……」
ソキはちらりとヨーグルトの入った器を眺め、むずかしげに眉を寄せて考え込んだ。ちょうど、ロゼアの両手を器の形に合わせたのと同じくらいの大きさの木のボウルに、ヨーグルトは半分くらいよそわれている。
混ぜ込まれた角切りの果物の量は多く、全体の三割か、四割くらいにはなるだろう。ソキはまたひとくちぶん、それを口に運んでもぐもぐとあごを動かし、飲みこんでから息を吐いた。
「……のこしたら、ろぜあちゃん、おこる?」
「怒らないよ。食べられそうにないか?」
「んー、んぅー……ソキねえ、ちょっと、がんばるです」
ちまちま、ちまちま、ヨーグルトを口へ運んで行くソキを見守り、ロゼアは穏やかな表情でうん、と頷いた。
三分の一くらいを問題なく食べ進めたところで、ソキはまたそれを思い出し、はっとした様子で隣の椅子に座るロゼアを見上げた。そこで、ソキはびっくりして目を見開き、息を飲む。
「ロゼアちゃん……ごはん、たべてるです……!」
それは、ソキにとってものすごく珍しい光景のひとつだった。傍付きは基本的に、『花嫁』と食事を共にすることがない。
同じ席にはつくが、ソキが食べている間、ロゼアが口にするのはごく軽くつまめる炒った木の実や飲み物などで、食事、と表現するには至らないものばかりだ。
屋敷にいた頃、何度か、ものすごくだだをこねて一緒に食事をしてもらったことがあるのだが、学園に来てからロゼアが食事らしい食事を、ソキと同じ時間に行っているのは、記憶にある限りはじめてのことだった。
それは、ソキが食べ終わってからか、時間が無くなった為に食べている途中からに目にすることができるものだった。
へにゃん、と力の抜け切った幸せそうな笑みで喜ぶソキの隣で、ロゼアはなぜか、顔をあからめて額に手を押し当てている。ふふふ、と笑って、ソキはロゼアに笑顔を向けた。
「おいしいです? ロゼアちゃん」
「……ソキ」
珍しくも困り切った様子で名を呼んで来るロゼアに、ソキは上機嫌な、とろけるような笑みのままでちょこん、と首を傾げた。
「ロゼアちゃんが、やじゃなかったら……もう一緒にごはんたべるので、ソキはいいと思うです。ね?」
その、ね、は駄目かどうかを伺うというより、拒否権なしのおねだりに等しいものだった。ね、ね、と同意を促してくるソキにロゼアはぎこちない動きで頷き、正面に座るメーシャとナリアンに、なぜか恨めしそうな目を向けた。
うふふソキちゃん喜んじゃってかわいいなあ、とうっとりした目で見守っているナリアンに、声をかけにくかったのだろう。メーシャ、と幾分低くなった声で、悔しげにロゼアは呟く。
「メーシャが、あんまり美味しそうに食べてるから、つられただろ……!」
「ごめんな?」
ちっともそんな風に思っていないさわやかな笑顔を浮かべ、メーシャは不思議そうに目を瞬かせた。
「でも、一緒にご飯食べるくらいで。なにも恥ずかしがることないじゃないか」
「恥ずかしがってる訳じゃないんだよ……!」
上手く説明できないらしい。もどかしげな様子で言葉を探すロゼアの隣で、半分くらい食事に飽きている顔つきで、ソキがヨーグルトをあむあむしている。こくん、と飲みこんでから、ソキはあれ、と言わんばかりの顔つきで目を瞬かせた。
なにか忘れている、ということを思い出したらしい。器から手を離して考え込むソキの食事量を心配する表情で、ロゼアは潜めた声で、メーシャへ告げた。
「……俺たちは、『宝石』と一緒には、食事しないんだ」
考えながらも、とりあえず食べてしまうことにしたのだろう。あーん、とヨーグルトを口に運んでもぐもぐしているソキを眩しげに目を細めて見つめ、ロゼアはそっと息を吐く。
ソキが眉をきゅぅっとゆがめているのは食事に飽きたからではなく、忘れたことを上手く思い出せないでいるからだろうな、と思った。
『ね、ロゼア』
ソキと一緒に食事をすること、に対して難しく考え込み、落ち込みかけるロゼアの意識を揺らしたのは、やんわりと響くナリアンの意志だった。
ほんのすこし前に、照れくさそうにロゼアの名から『くん』という呼称を取り払ったナリアンが、もうそれにも慣れた様子で、ロゼアの名を奏であげる。
それは笑いを堪えているような、花が咲き綻んだのをそっと耳打ちするような、優しく穏やかな響きだった。
『俺は、ロゼアが一緒に食べてあげた方が、ソキちゃんもご飯を頑張ると思うな』
「……根拠は」
『ないよ』
にっこり笑う、その表情がでもロゼアだってそう思うでしょう、と問いかけていた。
それでもまだ納得できない様子のロゼアから視線を外し、メーシャは考え込みながらもヨーグルトを頬張っているソキを見つめ、心から安堵した様子で囁いた。
「元気になって、よかった……」
「……あ!」
周囲の会話というものをこれっぽっちも聞いていなかった態度で、ソキは慌てた様子で声をあげ、ロゼアを見る。
「ロゼアちゃん! ソキねえ、なんかいい匂いしますですよ?」
どうしても聞きたかったことはそれであるらしい。ロゼアちゃんに聞けば分かる気がするです、とばかり向けられてくる視線を重ね、微笑んで、ロゼアはごく当たり前のことを告げるように言った。
「うん、ソキはいつもいい匂いしてるよ?」
「あのですね、そういうんじゃなくてですね……?」
「ああ、これ、祝福だな」
いつの間にかソキの背後に立っていた寮長が、すん、と鼻を鳴らしてからきっぱりと言い放った。
「妖精の祝福。寝込んでる間に案内妖精がお見舞いにでも来たんだろ」
「えっ、えっ! ソキ、ソキ、リボンちゃんに会ってない……やあぁんっ、リボンちゃんはどうしてソキを起こしてくれなかったですかーっ! リボンちゃんいじわるぅ……ソキ、ぱちんってしないように気をつけますですよ……怒られたから、ぱちん、しないですよ」
「……ぱちん?」
しょげかえるソキに寮長が訝しげに問うが、ソキは同じ単語を繰り返してみせるだけで、それがなんであるか説明することはなかった。
しょんぼりしたままヨーグルト攻略へ戻って行く様を眺めたおしたのち、まあ起き上がれるようになったらいいか、と思ったのだろう。
寮長はそろそろどこかへ行ってくれないかなぁ具体的に言うと一次元くらい上か下に、という顔つきで嫌がっているナリアンに極上の笑みを浮かべ、唐突に用件を切り出した。
「明日、特別授業がある。その前に座学教員から説明があるし、今日中に担当教員からもなにかしらの説明があるだろうが、その前に俺からひとつ、お前たちに聞いておかなければいけないことがある」
黙っていれば精悍な顔立ちを珍しく凛々しく引き締め、問いが返るよりはやく、寮長は告げた。
「遊ぶ金は、あるか?」
「……はい?」
「なかったらお小遣いがあるから、今日の夜までに俺に言いにくるように。ああ、勘違いするなよ? 俺からじゃない」
星降の陛下からだ、と告げられて、新入生四人は揃って顔を見合わせた。なんだかはしゃぎたおす星降の国王の姿が頭をよぎった気がする。
ちなみに遠慮すると泣くからな、俺じゃなくて陛下が、と言い添えて、寮長は足早に立ち去って行く。なにやら今日から、明日の準備をしなければならず、色々と忙しいらしい。
食堂の出入り口付近で振り返った寮長が、今日の夜までだからなー、ともう一度叫ぶようにして告げ、手を振ってからいなくなった。
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