もうすこし、同じ速度で

もうすこし、同じ速度で 01

 学園に入学して、一週間とすこし。その日数分だけページの埋まった日記帳をぱらりとめくり、ソキはちいさく息を吐きだした。視線の先にあるのは、入学四日目の日記。

 へろへろした文字で『熱出たですよ』とだけ書かれているその日、ソキはとうとう寝台から起き上がることが出来なかった。

 翌日になれば熱も体のだるさも消え、また動けるようになったのだが、丸一日を潰してしまった事実はどうすることもできないままだ。幸い、一日分の授業の遅れはすぐ取り戻すことが出来た。

 数日の間は体調がふらふら悪化して、回復して、を繰り返し安定しなかったが、今はなんとか元通りになっている。

 ソキとしては、妖精の告げた恒常的な回復魔術が動いているのにどうして体調が悪化したのかと思うのだが、砂漠の国の爆笑白魔法使いがもし場に居たのなら、こう答えてくれたことだろう。

 旅の間に酷使しすぎた分が、四日目の気の緩みで回復量を凌駕して表面に出てきたんだと思うよ、と。つまりは日頃の疲労、その積み重ねの結果である。

 本来なら数日間起き上がれもしない筈のその状態から、たった一日眠っただけで回復させた術こそ、呪いに近い発動の仕方をしているソキの回復魔術だった。一応、発動はするのである。

 旅の間を緊急事態と判断したソキの無意識が、常に発動させっぱなしだった状態を解除しただけで、それは失われたものではないのだった。

 ロゼアはしきりとソキの回復の早さを不思議がり、首をひねっていたが、ちょこちょこ元気に動きまわる姿を見てよしとしたのだろう。

 過剰に大丈夫かと心配してくることもなく、気分が悪くなったらすぐ言うんだぞ、と告げるに留めてくれた。

 ただ翌日と、その次の日くらいは、あまりソキが己の足で歩いて行くのに良い顔をしてくれなかったのだが、それは屋敷に居た時からのことである。寝台から起き上がって授業に向かうことを、強くは止められなかっただけ、ロゼアはだいぶ譲歩してくれていた。

 勉強したいんですよ、とソキがお願いしてあったことも強いだろう。たくさん勉強して、いろんなことを知って、はやく一人前になりたいんですよ。だからね、ロゼアちゃん。応援してくださいね。

 ソキはとっても頑張りますからね、と。言ったのは確かにソキではあるのだが。

 ソキはぷぅ、と不満に頬をふくらませながら日記帳をぱらぱらめくり、新しいページにちまちま日付けを書いていく。日付けの隣に今日の天気を書きこんだ所で、ソキはますます頬をぷーっと膨らませた。

 窓の外は快晴。浮かぶ雲の白が光に眩い晴れである。空気はすこし乾燥しているが、だからこそ洗濯日和だ、とロゼアは朝から機嫌が良かった。そこまではいい。そこまではいいのだ。問題はそこからである。

 今日は水曜日。日曜日と同じく、学園の授業が休みの日である。だからソキは、とても楽しみにしていたのだ。あれをしよう、これがしたい、と考えていた訳ではない。

 ロゼアが同じ空間にいれば、基本的にはそれだけでいい。それだけでいいのに。

 掃除と洗濯といろんな整理整頓を終わらせてくるから、と言って、ロゼアはソキを置いて行ってしまったのだ。置いて行ったといっても場所は談話室などではなく、ソキの部屋である。

 ソキがあまりにも使っていないせいで生活感のない、きちんとした印象があるばかりの部屋は、それでも清潔に整えられていた。朝に夕にロゼアが窓を開けて風を遠し、ごく簡単な掃除をしてくれているからである。

 また、ソキの家から送られてきた様々なもので空間を整え直した為、すでに部屋は平均的な寮の一室とはかけ離れた空間と化していた。

 最も印象を異ならせるのが、床一面にしかれた毛足の長いじゅうたんと、窓や寝台の周囲にたらされた長い布だろう。

 直射日光を徹底的に遮断したがる布の使い方だが、それでも、砂漠の国であればもうすこし室内が明るい。

 掃除終わったらちょっと調整するから、と難しそうな考え込む顔つきで告げたロゼアは、代わりに、と机の上に火を宿す灯篭を置いて行った。ゆらゆら揺れる灯りを猫のように細まった目で睨み、ソキは椅子の上でふらふら足を泳がせた。

 ソキも、別に文句を言わずロゼアに部屋に戻された訳ではない。お掃除の邪魔しないですから一緒に居たいです、ひとり嫌です、と一生懸命訴えたのだが、ロゼアはやんわりと笑みを浮かべてソキの頭を撫で、ごめんな、と言った。

 乾燥しているから喉が心配だし、そうでなくとも埃がたつし、すこし前に熱を出したばかりだから安静にしていて欲しいんだ、と言われてしまえば、ソキにはそれ以上の訴えをすることができなかった。

 喉がへんに乾いて、朝から時々咳が出てしまうのが自分で分かっていたからである。風邪ではないが、だからこそ、無理をすると喉を痛めてしまうのだ。

 ソキの体のつくりはあちこち弱く、脆く、やわらかく出来ていて、ちっともいうことをきかないのである。ロゼアが淹れていった香草茶を飲みながら、ソキは日記にロゼアちゃんお掃除に行っちゃいました、と書いた。

 ソキはおるすばんです。ロゼアちゃん戻ってくるまでお勉強します、と書いて、ソキはそれを忠実に実行すべく、机の端においてあった教本に手を伸ばした。新入生に対して『学園』が支給する教本は二冊。

 あとは段階を踏んで与えられていくとのことで、ソキの手元にあるのは、その二冊きりだった。

 一冊は、魔術師の歴史についての教本。もう一冊が、魔術そのものに対する教本、の入門書である。魔術そのものの教本は、入門書を終えたのち、通常は己の魔術属性と魔術師適性に沿ったものが与えられることになっている。

 しかしソキは、教本を配布される時点であらかじめ予告があった。予知魔術師には全ての教本が配布されるから、そのつもりでいるように、と。

 ありとあらゆる魔術を発動させ、その組み合わせによって世界の理を己が意志のままに改変する魔術師。それが予知魔術師だ。

 時として己の意志を超えた所で世界を書きかえるその力は、だからこそ、存在するありとあらゆる魔術、魔法を知らなければ扱って良いものではないのだという。他の魔術師がそれを知らないで居て良い、というわけではない。

 彼らにももちろん、ひと通りの学びは与えられる。けれども予知魔術師のように、全てへの理解と制御を求められる訳ではない。

 勉強というものが好きでよかった、とソキは心から思っていた。どんなことであれ、学ぶ、ということに関して、ソキが苦を覚えたことはない。屋敷の『花嫁』の中でも、ソキは素直で覚えの良い生徒であった筈だ。

 だからこそ価値もあり、十五になるその時まで国と家の所有物であれと、兄が頑なにソキを手放そうとはしなかったのだが。そういえば個人口座についてどうするか聞いていなかったことを思い出し、ソキはごく僅かに眉を寄せた。

 それは本来、ソキのものでありながら、ソキが所有し続ける筈ではないものだった。嫁げば家に、ひいては砂漠の国へ譲渡されるものであり、ソキがもって行けるものではないからである。

 ロゼアちゃんが帰ってきたら聞いてみることにするです、と思いつつ、ソキの手が教本を開く。そのまま、数行読み進めた、その時だった。コツン、と扉が叩かれ、華やかな女性の声が響く。

「ソキちゃんはいますかー?」

「……どなたです?」

 聞き覚えのない声である。

 間違いなく先輩のひとりであることは確かなのだが、人付き合いに長けた性格をしていないソキは、未だに顔と名前が一致する相手がロゼアとナリアンとメーシャ、寮長と副寮長くらいのもので、あとは全員『その他』くらいの認識しかできていないのだった。

 だからこその問いかけに、扉の向こうから返事が響く。

「学園で一番美人なお姉さんです!」

「ちょっと……なにを言っているのか……分からないです……」

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