灯篭に鎖す、星の別称 19

 ふ、と気が付いた時、ソキは床に座り込んでいた。つい先程まで、ロゼアの腕の中に抱きあげられていた筈なのに。メーシャとも一緒に『扉』をくぐった筈なのに、二人の姿は見える範囲のどこにも見つけることはなかった。

 記憶が切れて、飛んでしまったのだろうか。覚えのある事にぞっと体を震わせたソキは、しかしはくりと動かした唇から胸いっぱいに息を吸い込み、直観的に違うと判断した。魔力で操作された、鈍い体と頭の痛みがない。

 目を開くことの叶わない眩暈も感じないから、これはきっと、記憶が消えてしまったのとは違うのだ。恐れに似た感情ではやく拍を刻む心臓を持て余しながら、ソキは床に手をつき、よろりとふらつきながら立った。

 ひとりで立つのは、昨夜の入学式を終えて以来、はじめてのことだった。立つ、という感覚を思い出すのにやや時間がかかり、ソキは転び、立ち上がり、もう一度転んで、ようやく立ち上がった。

 何度か咳き込みながら息を吸い込み、呼吸を落ち着いた状態に戻すことだけに専念する。しばらくして、生理的な涙が浮かんだ瞳を指で擦って顔をあげると、ようやく、薄暗い部屋の全貌が明らかになる。

 そこは、小規模な図書室に見えた。あるいは、広めにつくられた個人の書斎を思わせる。窓は閉められていて外の景色を見ることは叶わないが、昼間に本を読む為だろう。窓辺にはちいさな机が置かれ、椅子が押し込められていた。

 机の上には筆記具が何本かと、蓋が汚れたインクが数瓶、糸で閉じられた書籍が数点置かれている。写本師の書斎か、仕事部屋なのかも知れない、とソキは思った。そして、間違えた気がして眉を寄せる。

 それともこれは、間違えられた、なのだろうか。寮長は、世界の欠片がソキを選び、そこへ引き寄せる、と言った。そこで眠る武器が、待っているのだと。呼びよせるのだと、そう言ったのに。

 見た所、部屋に武器と呼べそうなものは置いていなかった。剣も、槍も、弓もない。壁に飾られているのは美しい樹木を描いた絵画だけで、ラティが振り回していたような、長い杖のようなものもない。

 部屋にあるのは三列に置かれた背の高い本棚と、本。机と椅子と筆記用具。それくらいのものである。それとも、こことは別の部屋になにかあるというのだろうか。首を傾げながら部屋の中を歩きまわり、ソキは隣室、あるいは廊下へと続くであろう扉を探しまわった。

 異変に気が付いたのは、すぐである。窓辺に置かれた机と椅子から、本棚は三列。一列目を通り過ぎ、二列目、三列目を過ぎた所で、くら、と目の前が一瞬だけ暗くなる。意識が途切れる、ということもない、ほんの一瞬の立ちくらみ。

 とん、と足を下ろした時、視界の端には本棚がある。一列目の本棚。二回、注意しながらソキは歩き、三回目に立ち止まって息を吐きだした。

 どうもこの部屋は、ソキをここから出したくないらしい。ねじれた空間に引っかかるすこしだけ手前、三列目の本棚に手をつきながら首を伸ばして見てみた所、扉があるのは確認ができた。試しに、ソキは窓にも歩み寄ってみた。

 ぺたりとてのひらを触れさせて硝子をたたき、鍵をあけて開いてみようとする。しかし、その鍵がどうしても開けられない。そういう形をした精巧な作りものか、あるいは錆で動かなくなってしまったかのように、ソキの力では鍵はびくともしなかった。

 しばらく奮闘したのち、諦め、ソキはてをふらふらと振って痛みを逃がしながら本棚を睨む。これはもしかして、もしかすると本当に、この中に武器があるということなのだろうか。本棚と本があるようにしか、ソキには見えないのだが。

 本だって立派な武器になるんですよソキちゃんぶ厚い辞書の角とかをこうごすりと相手の後頭部とか延髄とか首筋とか肋骨とか背骨とか狙って振りおろせば十分に、あと小指の骨とか鼻の骨とかわりと弱いので余裕があるのならそういう細部もオススメです、ときらめくとびっきりの笑顔で顔見知りの砂漠の国の王宮魔術師が脳内で解説してくれたので、ソキは和やかな笑みを浮かべて頷いた。

 ソキの腕力では、ちょっぴり無理である。筆記具を投げつけるとか、そういう方が現実的なくらいだった。溜息をつきながら写本の準備が成されている机の上を眺め、ソキはなんとなく、筆記具を手に取った。

 散らばっていた紙の一枚を引き寄せ、インクの満ちた瓶のふたをあけると、ペン先をそっと浸してから持ち上げる。

 書いたのは日付け。そして、朝食として口にしたもの。久しぶりにロゼアちゃんとずっと一緒で嬉しいですよ、と書き、けれども今は離ればなれであることに気が付いて気持ちが落ち込んだ。

 そういえば、日記を新調しなければいけないことを思い出す。旅の間に使っていたものは、いつの間にかページが破れ、何日分か紛失してしまっている。

 どこでなくなったのかも定かではないし、旅の途中であるから回収できることもないだろうが、その消えた数日分の記憶があいまいでちっとも思い出せない事実に、ソキの内心が落ち着かない気分でざわめいてしまう。

 ロゼアには、どうしてだか、相談することができなかった。旅の途中のことを、どう言えばいいのかも、分からない。平穏で、楽しいだけの道筋ではなかった。案内妖精のことはたくさん話したいのだが、そうすると、どう歩いてきたのかも自然と口にしなければいけないだろうから。

 昨夜も、朝食の席でも、何故かロゼアはソキの旅路を尋ねなかったし、己のものも口にはしなかった。まだ目の前のことでいっぱいで、思い出す余裕がないのかも知れないが、ずっとそうであるとも限らないだろう。

 聞かれる前に、思い出すことが出来ればいいのだが。

 忘れていること。失われていること。白く塗りつぶされ、暗闇に鎖された、夜のできごと。壊され、崩され、囚われた。夜の。闇の。あの一夜の。悪夢の。あの。悪夢のような。終わった筈の。七日間の。あの男。あの男が。

「っ……!」

 混乱し、囚われてしまいそうになるソキの意識を救ったのは、ひかりだった。清らかなひかり。それでいて、鋭く薄暗闇を引き裂いた。光源があるのは、ソキの左手の小指だった。

 そこに通されている、誰の目にも映ることが叶わなかったアクアマリンの指輪が、台座に飾られたそのちいさな意志が、ソキを救いたがるよう、あたたかなひかりを発している。それを見つめているだけで、荒れて途切れそうだったこころが落ち着いて行く。

 なにを、考えて、思い出そうとしていたのだろうか。今は考えないでいいんだよ、と誰かに囁かれたような気がして、ソキはこくりと頷いた。また、あとで、ゆっくり考えればいいことだ。すくなくとも、この写本室から出たあとに。

 もし、本当にこの部屋にソキを選ぶ武器があるとしたら。それは、本棚に収まっている筈だった。誰かに耳元でささやかれ、導きを得たかのようにソキはそう思い、脚に力を入れて立ちなおす。

 指輪は、まだうっすらとしたひかりを放っていた。薄暗がりの、灯りになってくれるようだった。暖かな火の踊る、灯篭のようだ。足元を照らし、障害物がないことを確認しながら、ソキはそっと本棚の間に体を滑り込ませる。

 見上げて、手を伸ばして、せいいっぱい背伸びしても指がかすりもしない場所まで、高く本棚がつくられている。見回せば奥に、脚立が立てかけられているのが見えたが、ソキはわずかばかり思案したのち、それを動かして登るのを止めにした。

 まず、たぶん、動かせない。そして、恐らく、登れない。さらに、かなりの確率で、降りられない。ロゼアが迎えに来て回収してくれる可能性が限りなく低そうである以上、冒険はただの危険だった。

 仕方なく、目の高さにある棚と、それより下の段。それより、一段だけ上の段を重点的に眺めて行くことにする。手をかかげて指輪の光で本を照らせば、いくつかは題名を読みとることができた。

 いくつか眺めて分かったのは、随分整頓のされていない本棚だ、ということだ。歴史書、物語、旅行書、料理本、指南書、とある国の輸出品一覧などが、年代もなにもかもがごちゃごちゃに並べられている。

 それとも、これはこの部屋を使っている写本師の、仕事の順番に収められているのだろうか。部屋の主に会っていない以上、ソキには分からないことだった。それに、この部屋にはひとの命の息吹を感じない。

 亡くなった写本師の部屋を、生前のままに保管しているのかもしれなかった。寮長の言葉を思い出す。世界分割の時にできた、散らばった世界の欠片。それが、この部屋なのだとしたら。大戦争時代に生きた写本師の、部屋なのかもしれない。

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