34日目

 朝日が部屋に差し込むと共に、妖精は目を覚ました。ぐーっと腕を伸ばしてあくびをする仕草は、姿形がちいさなだけでひとと全く同じものである。ぱたりと羽根を動かして浮かびあがりながら、妖精はねぼけまなこで室内の様子を点検した。

 ソキが泊まるのは、どの国、どの都市でも変わらず、その場所にある最高級の個室である。滅多なことはあろう筈もないが、荷物に動かされた様子がなく、室内にどこも嫌な気配がこびりついていないのを確認して、妖精は満足げに頷いた。

 一泊あたりいくらかかるとかそういう金銭にまつわることは、一番最初に訪れた白雪の国の銀行で、ソキの預金残高を覗いてから考えることを放棄している。

 それだけ稼げたらもう嫁ぐとかしなくていいんじゃないだろうか、という素朴な疑問はすでに口に出されていたが、これはソキが国から『出る』ともう自由にならないものなんですよ、と言われて納得した。

 『花嫁』をくれたらこれ以上のものをお約束しますよ、というアピールのひとつなのだという。それを元に嫁ぎ先の候補を絞り込んだりもするとのことで、えげつない上に心底気持ち悪い、と妖精は言ったものだ。

 ソキもそう思いますとごく冷静に告げた少女は、だからこれまで一切、己にもたらされるそれに手をつけたことがなかったのだという。

 ソキの家でそうして育てられる者の中には、咎められない範囲でその預金を自由に使い、様々なものを買いあさっては心を慰める者もいたらしい。本当に国を『出る』時は、なにひとつとして手元に残すことを許されないのが普通だというのに。

 ソキも、妖精が迎えに行った時は、自分のものはなにひとつ持っていなかった。服も靴も下着も与えられたもので、持って来た物はなにもかも、従者と共に砂漠の国へ戻されたのだという。

 少女が抵抗して、抵抗して、ようやっと残すことができたのは、今もソキの髪に結ばれた赤いリボンだけだった。そのリボンを、ソキは殊更大事にしている。

 お屋敷に戻っても飛び出して来た為、ソキが学園に持って行く慣れ親しんだ私物も、結局はそのリボンと、それだけをこっそりと取りに返った、お気に入りのぬいぐるみひとつきりだった。

 学園に入ってもある程度は自由に買い物ができる。学園校舎の中には購買部が設置されているし、生徒の為に管理運営されている商店街が中間区には存在しているからだ。

 なないろ小路と名前をつけられたその商店街には、生活に必要な品々と、就職先が持て余したエキセントリックな卒業生たちが、存在意義すらよく分からないものを売る店がごちゃごちゃに立ち並んでいる。そういえばそこには、銀行の支店もあった筈だ。

 あんまり浪費しないように躾けてから学園へ到着させるべきかしら、それとも手遅れなのかしら、と保護者のような悩みを抱えつつ、妖精は羽根をゆるく動かして空を飛び、窓辺に置かれた小皿の元へ降り立った。

 そこには、白い皿に角砂糖が置かれている。ソキが体調を崩して動くこともできなかった場合の妖精の食事は、いつからか習慣づけられて必ず用意されているものだった。

 夜、寝る前に角砂糖をひとつ取り出して、朝まで食べちゃだめなんですよ、と言うソキに、アンタはアタシが我慢できないとでも思ってんのか、と怒るのもすでに恒例行事だ。昨夜も、妖精は怒った。いい加減にソキは学習能力というものを身につけるべきである。

 それとも記憶力の無い馬鹿か、馬鹿なのか、と思いつつ角砂糖を持ち上げてかじり、ふと感じた違和感に、妖精は首を傾げてソキを見た。

 相変わらず、ぎゅうぎゅうに体を丸めて眠る少女である。まんまるくなって眠る猫を連想させるが、ゆったりと円を描く猫とは違い、こちらは体中に力が入っている。そんなに緊張して眠っては疲れが取れないと思うし、もしかしてこのせいで体力が貧弱なままなのではないかとも思うが、妖精にはどうにも対処しにくい事柄だ。

 そういえば昨日、一人で寝るのが苦手だとか言っていた気がするので、誰かが添い寝でもしてやれば安心するのだろうか。考えて、妖精は己には無理なことだ、と角砂糖をまたかじる。

 ソキは十三歳という年齢にしてみても小柄な少女だが、妖精との体格差がありすぎる。人と同じ大きさになったら一緒に寝てやらないこともないんだけど、と思い、妖精は眠る少女の観察を続けた。

 どうも、一度起きてからまた眠ったようだ。眠すぎてそのままばったり倒れたのか、タオルケットが体の下敷きになっている。だからなんでコイツはそう自分の体調を保とうという努力をしないのか、と角砂糖をがりがりかじりながら眉をしかめ、妖精はソキが起きたらまずそこを怒ろう、と心に決めた。

 夜に起きるくらいはかまわないが、タオルケットは体にかけてからもう一回寝なさい。保護者そのものの決意を深め、頷いた所で、妖精はようやく違和感の理由に辿りついた。

 お気に入りのあひるのぬいぐるみを抱きしめていた筈の腕が、そのまま投げ出されている上に、てのひらが重なって閉じている。そして、その重なったてのひらの隙間から、見慣れた妖精の羽根が見えていた。

 ぱたり、己の羽根を動かし、振り返ってそこにちゃんと生えているのを確認してから、妖精は角砂糖を口の中に詰め込んで立ち上がった。ごくん、と飲みこんでから浮かび上がり、ソキの耳元へと行く。

 深呼吸をして、なるべく冷静であろう、と思いかけて。思ったけど無理、と妖精はわきあがる怒りのまま、腹に力を込めて全力で叫んだ。

『起きろこのねぼすけええええっ!』

「ぴっ……っ!」

 驚き過ぎて、目が覚めても凍りついて動けなくなってしまったソキの目の前に移動し、妖精は腰に手をあてて少女を睨みつける。

『アンタ、その手の中の、なあに?』

「お……おはようございますです、リボンちゃん。……て? の? なか?」

 驚き過ぎて単語が理解できなくなっているのだろう。未知との遭遇をした表情でたどたどしく繰り返されるのに、妖精は舌打ちをして、ソキにも分かりやすく、ゆっくりと視線を動かしてやった。

 ぱちぱち、瞬きをしながらソキが妖精の目の動きを追いかけて、己の手を見る。たっぷり十秒、沈黙が広がった。きゃああっ、と声をあげて飛び起きたソキが、ぱっと手をひろげる。

 ぼたっ、と力ない音をたて、挟まれていた妖精が寝台の上へ落下した。

「や、やああああああっ! リボンちゃんっ、リボンちゃんが増えちゃったですよリボンちゃんがしんじゃったですよおおおおっ!」

『落ち着けこの低能っ! 馬鹿ボケ考えなしっ! これはアタシじゃないでしょうがどこをどう見てどう考えたらそうなったーっ!』

「あああれ、あれ、あれっ? リボンちゃんはこっちです? じゃあこっちはリボンちゃんじゃないです? ……あ。リボンちゃんじゃないです!」

 まじまじと見て、確認して、ようやく別の妖精だと認識したのだろう。だから最初からアタシじゃないって言ってんでしょうがっ、と叫んで怒りながら、妖精は未だ意識を取り戻さない同族をちらりと見つつ、ソキの目の前で腕組みをした。

『で、アンタに聞くことがあるんだけど?』

「はい?」

『なんでアンタの手の中で妖精がつぶれてたりするのかしら?』

 聞いておきながらも、妖精は答えが分かっているらしい。えっと、えっと、と怯えながらソキが両手を持ち上げて、こうやって、えいって、と再現する途中で、ぶつんっ、と妖精の頭の中で音がする。

 怒りのあまり、なにかが引きちぎれた音だった。だからっ、と妖精はソキに指を突き付けて叫ぶ。

『妖精を、羽虫みたいに潰そうとするなーっ! なんなの! なんでアンタはそうなの!』

「ソキ、つい、うっかりやってしまっただけなのですよ……」

『なおさら悪いわああああっ! いいことっ? 二度と! ええもう二度と! 妖精を手でつぶして捕まえようなんてしないでちょうだい、いいわね分かったわね? 分かったら返事! 返事しなきゃ呪うわよっ?』

 妖精の目は至極本気であり、ソキからでも怒りにうねる魔力が感じられた。ソキは即座に両手をあげてはいはい分かりましたですっ、とぷるぷる震えながら叫ぶ。

 はいは一回で十分よ二回も三回も言うんじゃないわーっ、と天まで貫きそうな声で怒る妖精に、ソキは無言で頷いた。もうなにを言ってもそれを理由に妖精は怒るからである。

 なにを言わないでいても、返事はどうしたっ、とやっぱり怒られるのだが。妖精のお叱りが三分を経過した所で、ソキはいじいじと視線を落とし、ぷーっと頬を膨らませる。

「リボンちゃん、おこりんぼさんです……」

『誰がアタシを怒らせてるのよ! だ・れ・がっ!』

「あ、リボンちゃん。このこ、起きましたですよ!」

 そういえばコイツひとのはなしを聞かない、ということに怒りのあまり眩暈を感じながら思い至り、妖精は両手で頭を抱えたまま、うめく同族の傍に着地した。あああああもう本当にもう、と嘆きながら首をふり、妖精は同族の顔を覗きこむ。そして、知った顔だということに気がつき、眉を寄せた。

『……ニーア?』

「リボンちゃん、お知り合いです?」

『ええ、そうよ。住んでるトコが近いの。ニーア……ちょっと、ニーアったら、目を開きなさい。どこか痛いの?』

 うぅ、と呻いて目を閉じて揺すられるままになっている妖精は、うすいピンク色の髪をしていた。淡い花色の髪は短めに整えられていて、ソキの案内妖精とは違う、膝まで隠れるバルーン状のワンピースを着ている。

 透き通る二枚羽根はソキの案内妖精とよく似ていたが、服装の愛らしさと短い髪の似合う可愛らしい面差しが、印象を全く異なるものにしていた。ソキの案内妖精はやや長めのまっすぐな金色の髪をしていて、火のように赤い瞳を常に好戦的に輝かせている。

 服装は簡素なAラインのワンピースで、胸元を瞳と同じ色のリボンで結び、背で蝶々結びにしている可愛らしさが、鋭い印象をやや和らげていた。それぞれの違いをじっくりと見つめて、ソキはうん、と頷いた。

「違う妖精さんでした」

『だから! そう言ってんでしょうがああああっ!』

 またも叫ぶ妖精に、ソキは耳を手で塞ぎ、眉を寄せながら身をよじった。

「もー、リボンちゃん、そうやってすぐ怒るです。……でも、なんでリボンちゃんのお知り合いがここに居るですか? お知り合いじゃなかったら、野良妖精ちゃんかなぁ、って思うですが。そうすると迷子さんです。迷子妖精さんならかわいそうです……!」

『妖精は野良にも、迷子なんてものにもならないわよ! 猫か! 一緒にすんじゃないわよ! ……誰かと契約結んだ様子もないし……ああ、もう、ニーア? ニーア、いいこね。アタシの声は聞こえてるでしょう? ニーア、ニーア……そんなに勢いよく潰されたの?』

「ソキ、そんなにばちーんってしなかったですよ。ぱちんてしちゃったくらいですよ。たぶん。……ごめんなさいですよ。……えっと」

 恐る恐る、もの言いたげに向けられたソキの視線を、妖精は強い意思のある瞳で跳ね付けた。何度も同じことを言わせるんじゃない、と怒りが言葉の響きを鋭くする。

『駄目よ。予知魔術も、回復魔術も、使わせない。アタシは、許可しないわ』

「……でも」

『いい加減に自覚なさい。アンタは、未熟な魔術師って言うのもおこがましい、半人前にも満たない魔術師の『卵』なの。いい? 分かる? 卵なのよ、たまご。ひよこですらないの。孵化してないの。黙って暖められてなさい。それに……怪我してる風でもないから、安心なさい。アンタのせいで起きられないんじゃないみたい』

 そう、妖精が言い終わるのを待っていたように、うぅ、とちいさな呻き声が空気を揺らす。ニーア、と妖精が声の主を呼んだ。ゆるゆると開かれた瞼の奥、隠れていた瞳は髪と同じ、花弁の色をしていた。

 風に揺れる、可憐な花の色だった。

『……先輩?』

『ニーア!』

『先輩、先輩……? わた、し……』

 かぼそく囁かれる声は、ソキに光に透けるはちみつのきらめきを思わせた。どうしよう、とソキは真剣に思った。ソキの案内妖精と比べて、ニーア、という妖精はとても可愛くてとてもか弱くてとてもきらきらふわふわしているようだ。

 こんなに愛らしいものを手でぱちんと挟んだのかと思うと、ソキの胸に罪悪感がよぎった。ソキの案内妖精が聞いたら、今度こそ呪うくらいに激怒しただろう。お前はアタシの時にも悪いと思ったんだろうな、と胸倉を掴まれて顔を近くに寄せられそうである。

 リボンちゃんはぱちんしてもつぶれそうになかったですが、このこはぱちんしたらつぶれちゃったですよ、としょんぼりしつつ見守るソキの前で、ニーアの手がふるふると震えながら妖精の衣を掴む。

『わたし……ああ、先輩、わたし、もうだめ……』

『ニーア、どうしたの……なにが』

『お……』

 かぼそく、ニーアは息を吸い込んだ。きゅるるるる、と音が鳴る。

『おなか、すいた……!』




 聞けば、ずっとご飯を食べていなかったらしい。主食となる角砂糖も、オヤツ扱いになる花の蜜も、チョコレートや飴の欠片も、なにひとつ。いつから食べていなかったのか、という妖精の問いに、ニーアは思い出せませんと言ったきり、角砂糖に集中している。

 必死にもぐもぐと食べる、その数はすでに四つ目であるが、勢いは衰えない。案内妖精の為に用意してあった一週間分のストックは、あとひとつで底をつく。リボンちゃんのなくなっちゃいましたねえ、とのんびり呟くソキの肩に座りこみつつ、妖精は呆れかえった様子で首を傾げた。

『ニーア、あとひとつしかないけど……足りる?』

『ふええええんっ、おいしいです! 先輩、ごはん、おいしい……!』

 感涙にむせび泣くニーアをしみじみと見つめ、妖精は首を横に振った。

『駄目ね。ソキ、買いに行くわよ。ついでにアタシのも』

「分かりましたです。……えっと、ニーアちゃん? 置いて行って大丈夫でしょうか」

『たぶん。……ニーア、聞こえてるわね? ニーア! 十分……いえ、十五分……ううん、二十分で戻るから! 動かないでそこに居るのよ?』

 ソキは十分くらいで戻ってこれると思うですよ、と不思議そうに言いながら、お財布を入れた鞄を肩から下げ、ソキはてちてちてち、と扉へ向かう。前を見て足元を見て注意しながら歩きなさい、と肩の上に座りこみながら告げ、妖精は断言してもいいけど、と目を細めた。

『十分で戻ろうとしたら、アンタ、買ったものをぶちまけてすっ転ぶと思う』

「……うん。二十分にしましょう。ソキ、なるべく急いで、慎重に歩きます」

『急がなくて良いからゆーっくり歩きなさい。ゆーっくり』

 そう遠い所に店がなくて本当によかった、と同じことを思いながら、妖精と少女が部屋を出て行く。再び扉が開くのは、それから二十五分後のこと。奇跡的に一回も転ばなかったですっ、と喜ぶ少女と、アンタやればできるじゃないのっ、と感激する妖精の声が、騒がしく空気を震わせるのと同じ頃だった。




 ソキの旅日記 三十四日目

 お部屋に入って転びました。

 あとちょっとだったです……。


 妖精ちゃんは、ニーアちゃん、というそうです。

 お話を聞いたら、リボンちゃんと同じ、案内妖精さんだそうですよ!

 詳しく聞くまえに、ニーアちゃん、寝ちゃいました。疲れてるみたいです。


 それにしても、ソキはびっくりしました。

 ニーアちゃん、怒らないです。

 ぱちんしてごめんなさいですって言ったら、ううん、気にしないでわたし大丈夫、それより角砂糖本当にありがとう、って。


 ……もしかして。

 妖精さんは、おこりんぼさんというわけでは、ないです……? あれ……?


 ……リボンちゃん、やっぱりおこりんぼさ(ペンが突き刺さったように、穴があいている)

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