17日目(夜)

 太陽が沈む一瞬、オアシスは金と紫に染まる。透明な、じわじわと黒に浸食されていく紫に染まる石造りの都市を、ソキは息を切らして早足に行く。もうすぐ、もうすぐ、もうすこし。

 はやる気持ちをそのままに、都市の奥へ奥へと進んで行くソキの足元を、妖精はハラハラと見守った。作りの荒い石畳の道は、でこぼことしていて足先をひっかけやすい。

 常なら二秒に一回は転ぶであろう場所なのに、ソキの歩みは止まることがなかった。石から石へ、てちっ、と飛び移るようにして、ふらふらとよろめきながらも先へ、先へと進んで行く。

 可憐な舞いのような足音と共に広がった髪が、夜の湿った風に煽られて空へ散らされて行く。道には篝火が灯されていた。赤く、橙に、鉄を艶めかせて金にも輝く火のひかりが、冷たい石の道を照らしていた。

 ソキの住むオアシスは、砂漠の国の首都である。だからこそ、壮麗な静けさが息を殺すようにそこにあり、ソキの帰りを迎えているようだった。少女の瞳は、ひたすらに、住まう屋敷を見つめている。ぞっとするほど輝いた碧の瞳は、妖精と出会った瞬間のような、おびただしい歓喜に溢れていた。

 そういえば、ソキが泣いたのは、あの一回きりだった。薄暗い部屋で入学許可証を胸に抱き、結婚しなくていいですよ、と呟いて、ソキはころころと涙を頬に転がした。一回きり。その一回しか流れていない涙が、じわじわと、ソキの瞳に浮かび上がっている。

 弾む息が、嬉しいと告げていた。ゆるく笑みを浮かべた口元が、幸福にいまにも笑いだしそうだった。鞄の肩ひもを胸元でぎゅぅと掴むてのひらは、ひたすらに、誰かに向かって伸ばされるのを待っている。もうすこし、もうすこし。あとちょっと、あともうちょっと。

 喜びを歌うように、幸福を奏でるように、吸い込まれた息が吐き出されて行く。肩を大きく上下させながら立ち止まっても、ソキはひとつの場所から視線を外さなかった。王宮を囲むように建てられたいくつもの大きな屋敷のうち、ひときわ白く浮かび上がる建物が、ソキの生家であるらしい。

 息を整えてまた足を踏み出したソキは、オアシスに辿りついてから、ずっとこうして先を急いでいた。体力がつきる前に立ち止まり、休んで、またててちてちっと急いでは、立ち止まる。結果的に歩くのとそう変わらない移動速度だが、妖精も止めなかった。

 夕方。太陽が沈み始めてからすこし暗くなるまでの、移動が困難なほんの僅かな時間。オアシスまでもうほんの十分程度の所でくやしく座り込みながら、ソキはずっと都市を見つめていたのだ。

 そこに、大切なものが全てあるのだと。この世界の美しいものを、清らかなものを、幸せのみなもとを、全てそこに置いてきたのだというように。恋をするように、愛を語るように。

 ずっとずっと、見つめて、薄闇が訪れたと同時に立ち上がった。それから一度も、ソキは転んでいない。ちょっとした奇跡である、と妖精は思った。

 過ぎ去った時を、夜になろうとする世界の去って行く裾を追いかける幼子のように、ソキはひたむきにかけていく。やがて、ひとつの屋敷に入る門に手をついた時、ソキは言葉を発せる状態ではなくなっていた。

 数日の砂漠の旅のみならず、白雪の国からの道筋で、すでに少女の体力や肉体は、いくたびかの限界を迎えている。いままた、それが近いのだった。けれどもソキはぜい、と息をしながらも晴れ晴れとした表情で顔をあげ、古い木で出来た簡素な扉を、どんどんと拳で叩いた。

 あけて、とソキが言うより早く、ガタリと物音がしてかんぬきが外される。内側に勢いよく扉が開き、少女の体は隙間から吹き込む風のように、空間へ飛び込んで行く。妖精はソキの手元を照らすように胸元まで降りてやりながら、門の中の空間を見回した。

 広々とした、緑の空間が広がっていた。木には柔らかな色の花が咲き、壁にはう蔦にも、目を見張るような鮮やかな花が揺れている。空気はしっとりと冷えていて、どこかで水の流れる音が聞こえた。箱庭のような家だった。美しく、整えられ、閉ざされている。

 細い道が、庭の奥にある屋敷へ続いていた。ソキさま、と声をかけられながらも少女はそちらへちらりと視線を流しただけで、なにかを振り切るように、屋敷へ向かって歩いて行く。白雪の国境を越えて砂漠の国へ足を踏み入れた日に、ソキは諸々の事情を手紙にしたため、送っている。

 それはソキの到着よりはやく、この屋敷へ届いている筈だった。あたりはすっかり夜である。歩んで行くソキの助けになるように、妖精は少女の足元まで降り、歩みに合わせて行く先を照らした。

 ふと妖精が見上げれば、ソキは柔らかな笑みを浮かべて、唇の動きだけでその存在を呼んで来る。リボンちゃん。うん、と頷き返してやると、ソキの視線は空を泳ぐようにして離れ、灯りの灯された屋敷の出入り口へと向けられた。

 誰か先触れをしたのだろう。扉は半ば開かれた状態で、人々のざわめきで溢れていた。くっと唇に力を込め、ソキは一度だけ、立ち止まった。視線が訝しげに集ったものたちを見つめ、歩みはすぐに再開される。おかえりなさいませ、と告げられるソキの目に、浮かぶ感情が薄い。

 不自然に思った妖精が足元から浮かび上がり、ソキの肩の上に腰かける。落ちないように手をやって支えながら、ソキは一人の青年の前で立ち止まった。

 おおよそ、浮かぶ感情というものを失ってしまったような冷たい顔で、ソキは青年を見上げている。もう一度だけ、ソキの視線が人々の間を彷徨い、切り離される。

「病気と、怪我の、どちらですか? ……お兄さま」

「なんの話だ」

「ロゼアちゃんです。病気ですか? 怪我ですか?」

 ここにいません、と不愉快そうに呟いて、ソキは兄と呼んだ青年に感情のない視線を向ける。妖精も、同じように青年に観察の視線を向けた。ソキに、よく似ている青年だ。

 瞳の色はソキよりも幾分か濃いようだが、髪の質と色が同じである。長身の、それなりに鍛え上げられた体は砂漠の国では成人男性が着る、白い伝統的な衣装に包まれていた。奇妙な威圧感のある男だ。

 辺りは青年の一挙一動を固唾を飲んで見守っているが、ソキに臆した様子は見られない。

 恐らく、何人もいるという母の、同じ腹から生まれた二人なのだろう。仲が良いとはとても思えない対面であっても、互いに遠慮がないのだった。青年は部屋で話す、とだけ言い残し、身を翻して歩いて行ってしまう。

 数人が後を追い、数人がソキへ駆け寄り、ひとりの男が少女の身を抱き上げようとした。片膝をつき、腕が伸ばされる。体に触れようとする手を、しかしソキは一歩後退することで拒絶した。

 男が浮かべていたのは拒絶された驚きではなく、どことなく予想していたような苦笑である。

「歩けます」

「……分かりました。お気をつけて」

 わずかに申し訳なさそうな顔をして頷き、ソキは男の離れていく腕に触れた。おや、というように優しく向けられた眼差しに、少女は視線を彷徨わせたのち、息を吸い込んで告げる。

「ただいま、戻りましたです」

「おかえりなさいませ。若様にも、どうかそのように御挨拶を」

「ソキ、お兄さま、きらいです」

 ぷい、と視線を反らして青年の去った方へ歩き出すソキに、見守っていた者たちはやれやれと言わんばかりの苦笑で見送った。家に帰って来たことで、気が緩んだのだろう。ややふらつく足元を見て、妖精がソキの耳元で囁く。

『転ばないようにね』

「……はい」

『アタシにはよく分からないけど、話を聞いたら、今日はもう寝ましょう。……頭は痛くない?』

 やや熱っぽく、ふう、と吐きだした息は重たげだ。

「すこしだけ。……でも、お兄さまと話はしますですよ」

『うん』

「……お見舞いは明日にします」

 じつはソキ、いまちょっと寝ちゃいそうなくらい眠いです、と呟かれ、妖精は少女の顔をちらりと見やった。うん、と頷く。眠いというか、これは体調がすでにすこぶる悪いのだ。

『眩暈してるでしょ』

「ソキ、お兄さまとの会話、五秒くらいで終わらせて眠りますですよ」

 手紙にだいたい書いたから分かってる筈です、と溜息をついてふらふら歩き、ソキはつんのめってびたんっ、と倒れた。すこし離れた場所にある扉の向こうから、慌てて歩み寄る足音がした。

 やぁんと焦って立ち上がったソキと、扉を開いた青年の視線が重なり、しばし沈黙が広がる。やがて、はぁ、と溜息をつかれたソキは、頬をぷくりと膨らませて青年を睨んだ。

「こっちみないでくださいですよ」

「……早く来い」

 呆れた顔で、青年は扉を開けて待っている。ふらふらと歩み寄り、ソキは部屋の中へ足を踏み入れた。当然のように、妖精はソキのあとを追う。

 見えていないだろうに妖精が室内に入ってから部屋の扉を閉めた青年は、部屋の中央で足を止め、椅子に座りもせずに睨みつけてくる妹に、いささかうんざりとした様子で眉を寄せた。そこは執務室のように見えた。

 落ちついた木の色で統一された室内の、壁際には本棚があり、窓の近くに机と椅子が置かれている。机の上には書類や、様々な小物が置かれていた。

 青年は机の上から封筒を持ち上げると、ソキに向かって突き付けてくる。受け取れ、ということなのだろう。ごく鮮やかに、ソキはそれを無視した。きゅう、と青年の眉が寄る。しばし待つような間があり、青年が口を開いた。

「どういうことだ」

「書いたままです。文字も読めなくなったですか、嘆かわしいにも程があります」

「愚かな嘘をつくな、と言っている。……魔術師だと? お前が?」

 受け取らせることを諦めた手紙は、机に叩きつけられるように戻された。

「どうして待たなかった。俺が、お前を……あのままにしておくとでも思っていたのか」

「……なんのお話ですか」

「お前が拘束されたと知らせを受けて、すぐに迎えをやったと言っている。あのような形で、お前を嫁がせる筈がないだろう! 俺の許可も得ず、半分隠居した父上の戯言で……っ! ……先方からはすでに、お前の扱いに対する謝罪も届いている。破談の連絡を待たず、こちらに戻ってきたことも咎めるつもりはないと、御者が手荒く扱ったことに関しては誠に遺憾であり改めて謝罪をする用意もあると。当たり前だ。地に額を擦りつけて謝罪してもいいくらいだ。……いいか? もう二年、お前はどこにやるつもりもない。どこの国にも。……忘れたか。十五になるまで、お前はこの家と、国のものだ」

 息苦しいと言うように、ソキの手が己の首に押し当てられる。言葉を全て振り払うように持ち上げられた視線は、凍てつく冬の、雪原に咲く花のようだった。凛として、可憐で、愛らしい。けれども立ち向かうには、あまりに弱い。

「しばらくは部屋にいろ。どこにも行くな」

 吹く風よりも、叩きつけられる言葉に、揺れる。

「……分かったら、下がれ」

 誰か、人を呼ぼうとしたのだろう。青年の手が打ちあわされるより早く、ソキはようやく声を出した。

「ソキは」

「お前の言い訳は聞かん。……安心していい。手紙は俺の元で止めたから、父上からの咎めもない。まあ、すでに息子に家を継がせたのだから、父上には完全に隠居して頂くとしようか。……殺させろと言ったのに、ラギときたら俺の手が穢れるだのなんだのと言いおって。ちっ。屋敷で息をしているというだけでも耐えがたいというのに……ああ、そうか、いい機会だから、各国の兄上や姉上を訪ね回らせて、適度に嫌な顔をされる旅に出て頂くとしよう。わくわくしてきた」

 訪問の順番を考えてうっすらと微笑む青年は、すでにソキの言葉を聞く気がないらしい。疲労で青年の言葉を半分ほど聞き取れなかったソキは、きゅぅと眉を寄せて首を傾げたが、言い直してもらえることはなかった。

 青年は椅子に座り、今夜にでも捨てたい所だがまあ手配があるから明日の朝だな、と不穏な計画を練り上げている。もう、と眉を寄せ、ソキは青年に呼びかける。

「……お兄さま!」

「叫ぶのはよさぬか。喉を痛める」

 パン、と手を打って青年がひとを呼ぶ。廊下に控えていたのか、先程、ソキを抱き上げようとした男が、すぐ部屋の中に入ってきた。雰囲気で、兄妹の会話が上手く成り立たなかったのをすぐに察したのだろう。

 ゆるく苦笑を浮かべながら、男は青年に頭を垂れ、ソキを部屋まで送り届けるようにと命令を受けていた。さあ、と促して差し出される男の手を、ソキは音高く振り払った。

「ソキの話を聞いてください! ソキは、魔術師の卵です! 学園に行きます!」

 嘘をつくんじゃない、と厳しい声は、ソキが取り出した紙片によって中途半端に途切れる。暗い部屋の中、紙は蛍火のように淡く輝いていた。入学許可証だ。

 首から下げていた紐ごと、むしり取るように外して、ソキは青年との距離をつめ、ぐいとそれを突き付ける。

「見てください。ソキは……ソキは、もう結婚しません。誰のものにもなりません。誰のものでも……『花嫁』じゃなくなったです! ソキは、学園に行きます! 魔術師に」

「許さん。……ちょっと見せろ」

 興奮して言い募るソキの手からひょいとばかり入学許可証を取りあげ、青年はそれを指の先で嫌そうに持ち、じろじろと文面を眺め倒した。若様、と男から心配そうな声が向けられるが、青年はそちらにちらりとも視線を向けない。

 何度も文面を確認した青年は、そこにソキの名と星降の国王の署名が綴られているのを見て、舌打ちした。

「仕方ない」

 呟きと共に、青年は返して欲しがるソキの手を無視して、部屋の窓に歩み寄った。

「捨てるか」

 一瞬のことだった。素早く窓を開け放った青年の手が、夜の闇めがけ、紙片を思い切り振りかぶって捨てる。よし、と満足げに頷いてから室内を振り返った青年は、けれども捨てた筈の紙がソキの手の中にあるのを見て、忌々しそうに眉を寄せた。

「おい。今捨てたのは偽物か?」

「恐れながら若様。紛失防止の魔術がかけられているものと」

「……魔術師はこれだから、ろくなことをしない。ソキ、貸せ」

 即座に逃げようとするソキを手慣れた様子で取り押さえ、青年はもがく少女の手から、ふたたび入学許可証を奪い取った。悲鳴が上がるのを聞こえないふりで、青年はそれを蝋燭の炎にかざしてしまう。

 燃え上がるのは一瞬で、そして、光がソキの手の中に収束していくのも、瞬き一つで事足りた。殺気すら滲ませて入学許可証を見てくる青年に、ソキはぜいぜいと肩を大きく上下させながら言い放った。

「魔術師になります。……もう、この国にも、この家にも、ソキは戻りません」

 興奮しているのに、ソキの顔色は悪い。今は立っているのがやっとの状態なのだろう。時折、ぐらりと目線が揺れている。その様子をつぶさに観察しながら、青年はそっと息を吐いた。

「……妥協してやろう。国はいい、家には戻れ」

「絶対に! 嫌です!」

「我が儘もたいがいにしろ。父上が嫌なら消してやる。……心配せずとも、この家でお前に狼藉を働かさせるつもりはない。だから、休みには顔を見せに戻れと言っているんだ」

 はい、会話終了、とばかりにひらひらと手を振って、青年は椅子を片手で引き寄せると、どかりと腰を下ろして足を組む。顔つきは不機嫌なそれだったが、傍らに控える男が浮かべているのは苦笑いだった。

「若様。お父上を弑逆されると聞こえたのですが」

「安心しろ。お前が止めるから自力で殺すのはやめてやった。褒めろ。……父上には明日から各国の兄上、姉上を訪ねて回る旅に出て頂く。なるべく早朝にだ。俺が寝ている間にでも手配を終わらせて叩き出せ。行く先々で丁寧に嫌がられた後は、この国に戻る前に、どこかで丁重にあの世へ送って差し上げろ。苦しませないでいい。俺からの慈悲だ。……できるな?」

「御意に」

 恭しく一礼した男は、やや申し訳なさそうにソキのことを見た。

「さて、若様。話は終わられましたか?」

「終わった」

「終わってないですよ! お兄さまはいつもそうです! ソキの話を聞いてくださいっ!」

 声を荒げたソキは、そのままふらぁ、と倒れかけた。男が走り寄って支えるより早く、前に踏み出された足が、なんとか少女の体を支えて立つ。ぜい、と嫌な息を繰り返しながら、ソキは兄を睨みつける。意に介した様子もなく、青年がひらりと手を振った。

「いいから、お前はもう寝ろ。明日になったらもうすこし話を聞いてやらんでもない」

「明日はソキ、ロゼアちゃんのお見舞いに行きます。それで、その後はもう出発しますですよ」

「……ん?」

 青年は訝しげな呟きを落とし、傍らの青年をちょいちょい、と指先で手招いた。

「お前、言ってないのか?」

「恐れながら若様。若様に問われたことでしたので、私どもが答える訳には参りません。それに、若様も部屋で話すと仰っておりましたので、すでに伝えられたのかと」

「忘れてた。ソキ、ロゼアだが、暇を出した。もうこの国にはいない」

 あまりにあっさりとした言葉だった。ついでのように付け加えられたものだから、ソキは意味が分からず、首を傾げてしまう。息を吸い込んだ。じわじわ、虫食いのように、心が不安を抱き始める。

「……ロゼアちゃんは?」

「だから、暇を出したと言っただろう。もう、この国には、いない」

 指先でとんとん、と膝を叩きながら、言い聞かせる響きで青年は繰り返した。

「十日ほど前だったか、もうすこし前か……とにかく、それくらい前に、ロゼアには暇を出した。お前の婚約の知らせが来たのは、それからもうしばらくしてだな。次いで向こうの家から謝罪の手紙が来たと思ったら、数日後にはお前からも手紙が来た。俺はもしかしたら、ロゼアは、お前を迎えに行ったのかと思ったんだが……一人で帰って来たところを見ると、どうも違うらしいな。……まあ、そうか。お前の婚約の知らせより早く、暇を出したからな。知る訳もない」

「……うそ」

「事実だ。……ああ、そんな所に座るんじゃない」

 青年が溜息混じりに咎める声を、ソキはどこか遠くに聞いていた。いない、という事実が上手く掴めない。むずがるように首をふり、うそ、と繰り返す。

「うそ、嘘です。ロゼアちゃんが、いなくなるわけ……」

「……言っておくが。退職の希望を言いだしたのはロゼアだ」

「若様」

 強く咎める男の声に、青年はややふてくされたように言う。

「事実だろう? ……ロゼアは、国境を越えたと報告があった。どちらの、とは聞かなかったが、白雪でないならば楽音の国境しかない。ソキが居た方角とは逆だ。まあ、今回の『旅行』の行き先を知っていた筈もないが……」

「……どこですか。ロゼアちゃんは……どこ?」

「だから」

 座りこんだまま、ソキは立ち上がることができない。か細く問われた言葉に青年は息を吐き、椅子から立ち上がった。数歩の距離を瞬く間に詰め、青年はソキの前にしゃがみこむ。

「いない。暇を出した」

「……やです」

「嫌じゃない。事実だ。ロゼアはもう、この国にいない。どこへ行ったかも、俺は知らない。……いいか、聞き分けろ、ソキ。あいつは、お前をおいてどこかへ居なくなった。もう戻らない。そう思え」

 若様、と咎める声が響くのと同時に、ソキの目から涙が零れ落ちた。ぎくん、と体を強張らせる青年を見つめ返しながら、ソキはいやいや、と首を振る。

「やです、いやです……嫌です! お兄さまなんてきらい!」

「……よし、ソキ。落ち着け」

「ロゼアちゃん、ソキをおいてどこかへ行ったりしないですもん! うそつき!」

 ぼろぼろと涙をあふれさせるソキから、青年は微妙に距離を取りながら言った。

「嘘はついていない。……泣くな」

「ロゼアちゃん! ロゼアちゃん! どこいるですかっ……? ソキ、帰ってきましたよ!」

 泣きながら立ち上がり、部屋をかけだして行こうとするソキの腕を、青年が掴んで引き寄せる。発熱した体はその動きだけで、背中から倒れこむように青年にもたれかかった。怖々とソキを覗きこみながら、青年は言う。

「だから、いないと言っただろう。話を聞かないか」

「……うそです、うそ」

「嘘じゃない。いないんだ。……いない、出て行った。本当だ。聞き分けろ」

 ぎゅぅと目をつぶって、ソキは嘘です、と繰り返した。弱々しい声だった。青年は溜息をついてソキの腕を離し、座り込んでしまった妹を見下ろした。

「第一、嘘ならばロゼアが今ここにいないのはおかしいだろう。お前が帰ってきて、呼んで、なお姿を現さない。……意味が分かるな?」

「……う」

「ロゼアには、暇を出した。もう、いない」

 はっきりと繰り返されて、ソキの意識がぐにゃりと歪む。吸い込んだ息すら耐えられず、ソキはその場に腹を抱えてうずくまった。咳き込み、嘔吐して、なお首を振って否定したがるソキに、青年は舌打ちをする。

「ロゼアは、いない。いないのだ。……退職した。あれはもう、傍付きを辞めたのだ」

「……若様。それくらいに」

「分かったら、もう部屋に戻って休め」

 すぐに世話役たちを呼ぶ、と言いながら差し出された手を、ソキは全力で叩きはらった。心外そうに眉をしかめる青年を睨んで立ち上がり、ソキはふらつきながら息を吸い込んだ。

「ソキは、ロゼアちゃんに会いたいです!」

「無い物ねだりをするのではない。聞き分けろ」

「やぁあっ……! ロゼアちゃん、ろぜあちゃ……どこ、なんで、なんでいないですかぁっ、なんでっ……!」

 しゃくりあげると同時に、ぼろりと涙が零れて行く。うわ、と引きつった表情でそろそろと距離を取る青年に、ソキはいやいやと首を振ってむずがった。

「ソキ、ロゼアちゃんに会いたい……! 会いたいんですよ、ソキ、だからいっしょうけんめい帰ってきた……! ロゼアちゃんっ、ろぜあちゃんろぜあちゃんやあぁあソキここにいるです! いるですよ……!」

「わ、わかった。分かったから、おい、泣くな」

「ろぜあちゃん、ろぜあちゃっ……やぁ、やぁあっ、やーっ」

 声をあげて泣きだしてしまったソキからぎこちなく視線を外し、青年は物言いたげな顔つきで沈黙する男を、おい、と呼んだ。

「部屋に連れて行って、泣きやませろ」

「若様。そこで人任せにするから、いつまで経っても懐いてくださらないのですよ……?」

「……あれが勝手に懐かないだけだ」

 拗ねた声で不機嫌に言い放つ青年にやれやれと首を振り、男は動けないソキを立ち上がらせる。部屋を出て行かせようとする男に抵抗しながら、ソキは泣きながら青年に言う。

「もおぉおおっ! お兄さまはいつもいつもそうですっ! お兄さまなんてだいっきらいですっ! もう、顔もみたくありませんですよ! ソキはもう出発します。それで、もう家になんて帰ってきませんですっ」

「待て、どうしてそうなる」

「だいたい、去年、お兄さまがロゼアちゃんを誰かと結婚させるか、とか言いだした時から、ソキはお兄さまと口を聞きたくないですよっ!」

 涙を拭いながら怒る妹に、青年はそれはお前、と呆れた顔つきで首を傾げた。

「年頃になったからな。心配しなくても、本当に結婚させるつもりではなくて、まあ、婚約くらいで……お前が結婚したら、改めていい相手を見つけてやろうと思っていたのだが」

「お兄さまの気遣いは、いつもいつもアルティメット斜め上なんですよ! ソキは一回も喜んだことないですよ! だいたい、三年前だってそうです! ロゼアちゃんを勝手に解雇したじゃないですか!」

「二ヶ月で戻してやっただろう。それにあれは、ほら……その、ロゼアが悪い」

 泣くのが終わったと思ったら完全に本気で怒っているソキに、青年は上手い対処ができないらしい。困った様子で視線を彷徨わせると、うん、と無意味に一度頷いた。

「お前の抱き上げ方が如何わしかったんだ。仕方がないだろう」

「完全に主観で言いがかりですよっ!」

「お前がそう言って怒るから、二ヶ月で戻してやっただろう。……まあ、今は暇を出したから、もう関係ないんだが」

 若様は絶望的に一言が多くてフォローできかねます、という微笑みを男が浮かべると同時、ソキは鞄に手を突っ込んで水筒を取り出した。それを止める間もなく青年の顔めがけて投げつけたソキは、床に倒れる兄を忌々しげに見ると、とにかく、と言って部屋の扉に手をかけた。

「ソキは行きます。さようならもう二度と顔を見たくないのでどこかで会っても声をかけたりしないでください」

「待て、休みには戻ると約束」

「しませんっ!」

 両手で力いっぱい閉められた扉の向こうで、びたんっ、と転んだ音がする。しかし、すぐ起き上がったのだろう。てててっ、と本人としては走っているつもりなのであろう、早歩きじみた不安定な音が響き、また遠くで、びたんっ、と音がした。

 その繰り返しで、だんだんと音は遠ざかっていく。耳を澄ませてもなんの音も聞こえなくなった頃、青年は溜息をつきながらふと気がついて、そこらに転がっているであろう水筒を目で探した。しかし、どこにも落ちていない。

 回収していった様子はなかったので、あれにも魔法がかかっているらしい。深く息を吐いて、青年は、なにも言わず傍らに控えていた男に、ぼそりと呟いた。

「ソキは、休みには帰ってくるだろうか……」

「……保証しかねます」

「ロゼアで釣るしかないな……。ところで、ロゼアはなんで急に暇を申し出たんだったか」

 星降の国に行く予定があるとかなんとか言っていた気がするが、と首を傾げて考えて、青年はまあいいか、と息を吐く。また落ちついたら、行方について調べればいいことだ。

「それよりも、ソキは本当に出て行ったのか? 庭で、いや、屋敷で行き倒れているのではないか? ……だから、部屋に戻って寝ろと言ったのに、あんなに体調を崩して、いつまでもぐずぐずとしているから……おい、ちょっと探して来い」

「……若様は探されませんか?」

「よく考えてからものを言わぬか。……顔を見て逃げられたら、さすがにショックだろうが」

 さっさと行け、ほら、と急かす青年に追いやられて、男は部屋から出て息を吐く。青年の言葉通り、ソキがどこかで動けなくなっているもの、と思ったからだ。はやく見つけて安静にさせなければ、数日は起き上がれもしないだろう。

 しかし、ソキを見つけることはできなかった。屋敷の者から、ソキは一度自分の部屋に立ち寄り、そのまま夜の街へ姿を消した、という報告があり、男はしばし思い悩んだ。

 これを若様に報告してもいいが、なんとなく、よしじゃあ捕まえて来い、と言いだす姿が目に浮かんだ為である。悩んで、男はとりあえず誤魔化しつつ、青年を寝かせてしまうことにした。もう夜も遅い。明日になれば互いにすこし冷静になるかも知れない、と思ったのである。

 けれども翌朝、人を使って探しても、オアシスにソキの姿はなく。少女は、完全に行方を消してしまった。




 ソキの旅日記 十七日(夜)

 (空白)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る