4日目(夜)

 広く、ふかふかした綿と布で作られたベッドに横になりながら、ソキはじっと後片付けをする青年の、後ろ姿を見つめていた。青年のよく動くしなやかで細い指先は、今は白くざらざらとした壁に書かれた、文字列を消すことに尽力している。

 けれど、指でこする程度では上手く消せないらしい。水と布だな、と呟いたのを聞きとめて、ソキはよいしょ、とベッドの上に座りこんだ。目を閉じていなければいけないくらいの眩暈と、指も動かせないような痛みを伴う疲労は、もうとうに消えている。

「ソキ、お手伝いしますです」

「ん? んー、いいよ、大丈夫。寝てな」

 安静にね、と振り返って穏やかに笑む青年の顔を見てしまうと、不思議に大丈夫です、という言葉が言えなくなる。ね、と重ねて言い聞かせられて、ソキはもふりと青年が普段使っているであろう寝台に体を横たわらせた。

 そっと目を閉じても、眠気は遠い。カタカタと細かい道具を片付けている心地良い物音が、響いていた。ソキはそっと唇を開き、青年の名を呼ぶ。うん、と柔らかな響きが、愛おしげにソキの声を拾い上げた。

「なに?」

 ちらりと視線が向けられただけで、歩み寄りもしないのは、まだ片付けが残っているせいだろう。ソキの属性を判定する為に使用された道具類は、大小ざっと数えるだけでも五十はあった。

 地水火風、光と闇。炎や氷、自然。太陽に月に星。現在確認できているだけでも、それだけの数の属性がある。その、どれがソキに当てはまるのか。それを調べるのは本来、学園で行われる属性の適性検査の役目であるという。

 それをあえて調べたのは、ソキの魔術師適正が極めて稀で危険なものだからだ。

 ごく簡単に語り聞かされたそれを思い出しながら、ソキは優しい問いかけに応える。

「ソキの属性は」

 タン、と音を立てて、ちいさな木の引き出しが閉まる音がした。

「風なんですね」

「うん。……やっぱり、自分でも分かった?」

「はい。一番疲れませんでした。……いちばん、ちゃんと、出来た気が……しました」

 目を閉じると、体の奥に疲れと痛みがこびりついているのが感じ取れる。それがどうしても嫌で目を開くと、ちょうど苦笑いを浮かべてソキを見ていた青年と、まっすぐに視線が重なる。

 不思議に思って見つめ返せば、青年はなんでもないよ、と首を振った。

「本当は、そんなに疲れるもんじゃないからさ。……慣れてないにしても」

「……そうなんですか?」

 青年の告げる正しい詠唱をおうむ返しに繰り返して告げるたび、ソキは重たい疲労に上から押しつぶされるような気すらしたのだ。体の中の、今まで全く意識していなかった所に、なにか別の知らないものがあって、そこからなにかが強制的に引き出されて行く。

 青年はそれを、一つのたとえとして水桶と、コップにして語った。体の中には魔力がある。その量は人によって全然違うもので、それは大体、なんとなく、己の両腕で抱きかかえられるくらいの大きさとして知覚できるものだ。

 その、抱えられるものを水桶の中に入れたとして。コップ一杯分の水としてすくいあげて、体の外側に出してはじめて魔術が発動する。詠唱は、そのコップですくい上げた一杯分の水という魔力を、どんな形にするか決める為のもの。

 コップ一杯分が正しい消費量だとして、それを意識することで、発動に過不足がないかを確かめ、制御を高めることができる。水桶の大きさは、人によって違う。すくうコップの大きさも、全く別々で同じものではない。

 その作業は本来、痛みを伴うものでも、眩暈を呼びこむものではない。詠唱も方向性を正しく与える為のもので、本来、その属性に適性がなければ魔力は消費せず、なにも起こらないで終わるものなのだ。

 それなのに、ソキは眩暈と痛みを覚えながら、語る全ての言葉を詠唱に変え、魔力を消費し、その力を発現させた。間違いない、と青年は胸中で息を吐く。ソキ自身が語ったように、少女の属性は風であり、しかも適正があったのもその風のみである。

 それなのに、全ての魔術は発動した。

 それは、ソキが、まぎれもなく予知魔術師であるという事実に他ならない。予知魔術師は、未来を語る者ではない。それはどちらかといえば、占星術師の役割だ。

 彼らは魔力によって未来の可能性を見つめ、その中から災厄と幸福を選び取り、導きだす。予知魔術師は、語る言葉によって未来を引き寄せる者だ。魔力を乗せられた言葉は、結果として、予知となる未来をそのままに引き寄せる。未来を詠み、語り聞かせる能力が予知魔術師のそれなのではない。

 己を望む未来を引き寄せてしまい、結果としての予知となる者。学園を卒業してなお、その能力故に危険と判断される希少種の魔術師。それが、ソキだった。

「そうなんだよ。普通は、発動自体できない。ソキも本当は、適性がないから発動が出来ない……ところを、無理に発動させてるから、体に負荷がかかってる。詠唱を唱えることで、確実な結果としての予知を引き寄せて、発動してる。だから、普通に発動させるより魔力は食うし、できないことを可能にさせている分、眩暈とか、疲れとか、痛み……そういうものが体に跳ね返ってくる」

 とりあえずよし、とするところまで片付け終えたのだろう。なんの気負いもなく歩み寄ってきた青年は、ぽん、とソキの肩に手を触れさせながら言った。

「加えて、能力……魔力の制御が全くできていない今の状態だと、発する言葉全てが結果としての予知になる。……自分の魔力が、じわじわ、漏れてるのは分かる?」

「……いま、ですか?」

「うん。そう」

 真剣な顔で問われて考えてみるも、その感覚を上手く掴むことができなかった。眉を寄せて首を振れば、青年はふ、と息を吐く。

「まあ、分かったら、制御できるか……」

 どうしようかな、と悩みながら、青年の指先がトントンとソキの肩を叩く。そこからじわ、と温かいものが染み込んでくる気がして、ソキはゆるりと体の力を抜いた。

 開いていた瞼が、心地よさにまた、おりてしまう。その様子を見て、青年が穏やかに肩を震わせた。

「供給されてるのは分かる、のかな? ……まあいい、そのままでお聞き。まだ実感として分からないと思うけど、ソキの、予知魔術師っていう適性は、危険すぎるんだよ。暴走すれば、発する言葉も、思考すら現実にしてしまう。なんでも叶う力だよ。望みは全て叶う」

「……ぜんぶ?」

「うん。全部、なんでも。……ああ、まだ目を開こうとしない。俺が良いって言うまで、閉じてなさい」

 三分の一くらいあげるから、という青年の言葉を上手く理解しないまま、ソキは息を吸い込んだ。

「たとえば」

「……ん?」

「ひとの、気持ちも……?」

 すこし、考えるような間があった。

「うん」

 けれども答えはまっすぐ、落とされる。

「できるよ。洗脳も、魅了も、ソキの意のままに。それこそ、死んで欲しい相手に対して、ソキは魔力を開放して『あなたは死ぬ』とでも言えばいい。それで終わる。それで叶う。……心から、まっすぐ、強く、くもりのない気持ちで望めば望むほど、それは確実に叶えられる。相応の魔力は食うだろうけどね。一人を殺すくらいの魔術を起動させたくらい。……残念なことに、そう多い量ではない」

 なにか気になることでもあるの、と問われて、ソキは一つの記憶を蘇らせる。夕陽が落ちようとする。砂漠が広がっていた。濃い、黒と紫色の影がまっすぐに引かれていた。

 もうそろそろ夜になる世界は、とても静かで、相手の声がはっきりと聞き取れるのが印象的だった。ソキのくちびるが、びくりと、怯えるように震える。

「……すきって、言ったら?」

「その言葉の裏に、相手に好きになって欲しい、という気持ちがあった場合。それを叶える為に、魅了が発動する」

 その言葉と、感情と、意思を、確実な予知とする為に。告げて、青年の指先が、ソキのまなじりを撫でて行く。雫を拭って、青年は言った。

「相手の意思は関係ない」




『約束、ですよ』

『うん』

『……絶対、来てくださいね』

『行く。どこでも行くよ。……ソキ、だから、必ず』

『はい』

『必ず、俺を呼んで』

『……はい』




「……もうお眠り。朝になったら、また話をしよう。今日は、よく頑張ったね」

 ちいさな嗚咽と零れる涙の理由を聞かず、青年はそっと、ソキの頭を撫でてくれた。ソキのくちびるが、たどたどしく、誰かの名を綴る。声にはならなかった。声にしてはいけないと、思っているようだった。




 ふと、呼ばれた気がして、ロゼアは勢いよく来た方角を振り返った。オアシスはすでに遠く、砂漠を行く者も寝静まって久しい。声など聞こえる訳もないのに、ロゼアは訝しげに眉を寄せ、たった一つの名を口にする。

「……ソキ?」

 応える声はなく。砂漠に吹く乾いた風が、そっと、ロゼアの肩を抱くように吹き、過ぎ去って行った。

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