第7話
防波堤に並んで腰を下ろすと、壱之丞は、りくもクラスの奴から聞いた事あるかも知れないけど、と前置きして、ぽつりぽつりと話し始めた。
月と、星と、波だけが世界を包み込む。
「俺の祖母っていうのがさ、いかにも昔の人! って感じで……。俺の母親も散々苦労してきたんだよ。嫁の些細なしくじりを見つけては虐めるような婆さんで。でも初孫の俺には甘くて、やたら猫可愛がりしてくれちゃってたんだよ。……夜中ひっそり泣き咽ぶ母親と、いつでも甘やかしてくれる祖母と、狭間にいるのがいつも遣りきれなかった」
りくは膝を抱えて、ただ壱之丞の唇が動くのを眺めていた。容易に相槌を打って良い内容ではない、と思ったのだ。
「あの日までは……祖母の言う通り、折り目正しく賢く利口にしてればいいって漠然と思ってた。俺が祖母の言う事を聞いてれば、母親が叱事を言われる事もなかったし、何より俺には本当に優しかったんだ。母親への日頃の仕打ちなんて嘘みたいに」
潮騒を掻き消すように、鉄橋を通り過ぎる夜行列車の轍の音が響き渡った。
「……でもある日突然、祖母は死んだ。交通事故だった」
そしてまた戻る潮騒。星が瞬く。
「祖母の葬儀一切が済んだ後、子どもの俺にさえ卑屈に見えるくらい参列者にペコペコ頭下げて涙流して挨拶して回ってた母親が……壊れたように嗤ったんだ。大声で、勝鬨を挙げるようにして……嗤ったんだ……」
祖母の死を嗤う母親。それが壱之丞の心にどんな痛みをもたらしたのだろう? りくには解りようのない、想像するだに複雑な状況だった。
「その日から、『お利口さんな橘壱之丞君』はこの世から消えていなくなった。–––もうそんなふうに振る舞ってる意味が解らなくなったんだよ。そしてそんな壱之丞くんは、よく祖母に連れられて来ていた海を眺めると、どうしようもなく暗い沈んだ気持ちになるんだとさ。おしまい。……なんて、ごめんなりく、ダラダラこんな話聞かせて」
りくの頭をぽんぽんと撫でる壱之丞に、ううん、とりくは言葉もなくただ静かに首を振るしか出来なかった。
舞い降りる沈黙。星の囁きすら聞こえてきそうな程の静謐。
やがてりくは、軋むように痛む胸を押さえ、片側の手で壱之丞の腕を掴んで言った。
「あのね壱之丞、海の底には人魚の宮殿があるの。それで、あたしが小さい頃に死んじゃったママがね、其処から……いつも……、」
りくの目からぱたぱたと大粒の涙が溢れては零れ落ちた。真珠のように清らかなそれを、壱之丞は一瞬きょとんと見つめた後、ゆっくり腕を伸ばして指先に掬いとった。
「うん、知ってる。確かおまえの母親は、人魚姫……なんだよな?」
「なんで、それを……?」
「早く思い出してくれよ」
参ったな、と眉を下げて笑いながら壱之丞は言った。
このお伽噺のような物語を、りくがいつ壱之丞に話して聞かせたというのだろう?転校してきてから、りくと壱之丞が言葉を交わしたのはほんの数回だ。今夜の出来事でさえ、りくにとっては不思議な巡り合わせでしかないというのに。
「こうしたら、記憶が甦るかも」
混乱するりくの肩をぐいっと引き寄せると、壱之丞はその額にすばやくくちづけた。
「壱、」
「話聞いてくれて助かった。ありがとう。……じゃあ、おやすみ」
いつもの意地悪な笑みではなく、花が咲いたように微笑むと、壱之丞は敏捷に夜の中を駆け出した。防波堤に立て掛けておいたらしい自転車に跨がって漕いでゆく。
りくは、呆然と立ち尽くしたままその後ろ姿を見送った。
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