第6話


 あたたかな毛布にくるまれて、それでも淋しくて悲しくて、幼いりくは夜中、何度も目を醒ました。


「パパ、ママはどこ?」


 手元の明かりだけで仕事をしていたらしい優人が、りくのかぼそい声にゆっくりと振り返る。そして、毛布を引きずって部屋から出てきたりくを優しく抱き上げた。


「おや、りくは眠れないのかい?」

「うん。だってママがお歌うたってくれないから。ご本よんでくれないから」


 優人の表情が翳りを帯び、りくはますます悲しくなる。そんなりくに、優人は言い聞かせるように穏やかな口調で話した。


「りく、おまえのママは人魚姫なんだよ。パパのために可愛い可愛い娘を生んで、今は海の底の宮殿に還って眠っているんだ」

「……にんぎょひめ?」

「そう。海の底からずうっとりくを見守ってる。だから、りくが淋しがる事なんて何もない。……ね?」


 そう言って優人がりくの耳にあてがったのは、潮騒を閉じ込めた白い貝殻だった。ざあ、ざざ、ざあ、と波音でりくの世界が満たされる。繰り返される穏やかなリズムに、いつしかりくの瞼はくっつき、睡魔がりくを夢の中へと連れ去っていった。



 懐かしい夢だった。


 りくは起き上がると、薄青いセロハンにくるまれたような夜の砂浜へと足を運んだ。海を見たい、と、焦がれるように思った。


 雨は上がってはいたが、浜辺の砂は水気を含んで重く湿っていた。それでも尚、海の満ち干きは変わらない。ひたひたと足元に寄せては返す波が、月明かりを静かに反射させていた。

 とぷん、と水面に石でも投げ入れられたような音が響いた。音の在処を、薄闇に目を凝らして探ったりくは夢から醒めたようにまばたきを繰り返した。


「–––壱之丞、」


 青白い月光に頬を晒された壱之丞が、驚いた様子でりくを見つめ返している。


「ああ、りくか。いきなり人の気配がしたから誰かと思った。……何してんの」

「あ、あたしは……夜中に目が醒めて海が見たいなって……。ほら、あたしんち此処から近いし」

「しどろもどろ。寝ぼけてる?」

「寝ぼけてなんか」


 躍起になって言い返しかけたりくは、そこでぱたりと口を噤んだ。


「ねえ、壱之丞、泣いてたの……?」


 ざあ、と、波が遠退いた。


「……格好悪いな」


 息を吐き出すように、壱之丞が笑った。悲しい笑い声。りくは壱之丞の元へ歩み寄ると、涙の伝っていた頬にそっと指を触れた。


「何かあった?」


 りくの言葉に、壱之丞はゆるゆると首を振った。何かあった、訳じゃないけど。ちいさな声が、波間に融けた。

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