第5話


 二、三日続けて雨模様となり、校舎にも教室にも湿り気を帯びた空気が澱んでいる。重ねて昨日から中間試験が始まった事もあり、今朝の教室は甲高い女子のお喋りやふざけあう男子の哄笑もなく静まり返っていた。


 転入してきて一ヶ月もしないうちに試験なんてツイてないな、と昨夜一夜漬けで仕上げた対策ノートを広げつつ隣の席を見る。りくの転入初日以来、当たり前のように遅刻早退欠席と授業放棄を繰り返している壱之丞も、試験期間中はさすがに始業前に登校してくるらしい。殊勝な顔つきで教科書を眺めている。かと思うと、りくの視線に気付いたのかふと面を上げた。挨拶もなしに口端を歪めて笑う。


「何?」


 その意地悪な笑い方、ちょっとパパに似てる。……そんなふうに感じた事が照れ臭くて、りくはわざとぶっきらぼうに返事した。


「別に、何も」

「試験中はちゃんと学校に来るなんて要領いい奴ー!……とか思ってる?」

「若干」

「正直だなぁ」


 だって本当の事でしょ、と言うと、壱之丞は我ながら狡いと思うよ、と笑いながら言ってまた視線を教科書に戻した。


 本日最後の三限目、試験問題を早々と終わらせたりくは、橘壱之丞にまつわる噂についての考察、と頭の中で銘打って思索を繰り広げた。


 中学時代は真面目で堅物、遅刻早退なんてもっての他、冗談のひとつも言わなければ、笑顔さえあまり見せなかったという。最近お昼を一緒に食べるようになった、壱之丞と同じ中学出身の女子が話していた。

 しかし高校に入って半年程してから祖母が亡くなり、その頃から今のような「だらしない、適当なゆるーい感じ」になったらしい。「橘ってきっと相当なお婆ちゃんっ子だったんだよ。見てくれる人がいなくなったせいであんなになっちゃったのね」と、これも例の女子談。

 また、年上女性といい仲になり結婚まで考えていたが、親に猛反対され破局したらしいとか、夜な夜な家を出て徘徊しているのは隣町で"夜の仕事"をしているからだそうだとか、とにかく胡散臭い噂には事欠かない人物だ。

 しかしりくには、どれも現実味のない作り事にしか聞こえなかった。そしてそれらが事実か否かを当人に問い詰めたところで、きっと彼は意地悪に笑ってかわしてしまうだろう、とも思う。


 頬杖をついたまま、窓の向こうの雨に打たれて滲む水平線に視線を向けた時、試験時間終了のベルが鳴り響いた。



 試験が終わると、晴れやかな表情の生徒達で教室がごった返す。朝の静寂がまるで嘘のようだ。万年帰宅部のりくは、久々に解禁となった部活動の準備にいそしむ彼らを背に教室を後にした。



「–––りく!」


 雨音に紛れてふいに呼び止められ、防波堤沿いの道を歩いていたりくは驚きつつも振り返った。呼び止められた事に驚いたのではない。その声に聞き覚えがあって驚いたのだ。


「たっ、橘、壱之丞」


 ぽつりと呟くと、壱之丞は「なんでフルネーム?」と可笑しそうに言ってりくの隣に並んだ。


「俺も帰宅部なの」


 自分の傘を畳んで勝手にりくの傘に入りながら、壱之丞は言う。



「中学時代は剣道部の主将だったって聞いたけど。高校ではもう剣道やらないの?」

「詳しいね」

「……そうでもない」


 これも件の女子が聞かせてくれた情報だ。自分がまるで壱之丞の事を嗅ぎ回っているように思えて、りくはなんとなくきまり悪くなって俯いた。顔が赤くなる。


 雨は果てなく降り続き、傘から落ちる雫が肩で跳ねる。りくが手にしていた傘は、気付けば壱之丞が持ってくれていた。そしてその右肩は雨に打たれ、制服の黒がしっとりと深くなっている。りくは何と言い出したものかしばらく逡巡した後、ようやく口を開こうと顔を上げた。瞬間。


「りく、こっち」


 壱之丞に腕を引き寄せられ、りくの言葉は制された。すぐ横を、車が勢いよく水飛沫を上げて通りすぎてゆく。壱之丞に腕を引かれずそのまま歩いていたら、危うく制服が水びたしになるところだったのだ。


「……ありがと」

「どういたしまして」


 素直になれずそっぽを向いたまま礼を述べたりくに、壱之丞は伺うような意地悪な笑みを向ける。


「お前、昔と全然変わらないんだな。なんか安心した」


 りくの心臓を揺さぶるような囁き声で、低く壱之丞が呟いた。


「昔、と……?」

「さて、遠野家到着。じゃ、また明日」


 問いただそうとしたりくの声は、わざとらしくおどけた壱之丞の声に掻き消された。

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