第4話
「……しかもね、帰りにクラスの女の子達に囲まれて『遠野さん、橘に気に入られちゃったみたいだけど、あいつとはあんまり関わらない方がいいよ』とか言われちゃったんだよ!」
優人は、仕事から帰宅した自分に今日の出来事を一気呵成に話し終えたりくに、にっこり笑って言った。
「だけど、イチノジョウ、っていい響きの名前だね。古風で男の子らしい」
「……そういう問題じゃないと思う」
りくが口を尖らせる。
夕食を作るのはりくと優人の交代制で、今夜はりくの当番だ。りくの作ったハヤシライスとマカロニサラダを食べながら、優人は、りくの表情が母親に瓜二つになってきた事にくすりと笑みをこぼした。
「それで、イチノジョウ君はりくのお眼鏡に敵う人物なのかな?」
「へっ」
悪戯っぽく笑ってりくを見ると、りくはぽかんと瞠目した後ほんの少しだけ頬を紅潮させた。
「あはは、冗談だよ」
「……あたし、お風呂入ってくる」
「はいはい」
わざとらしく優人を睨んで立ち上がったりくの背中を見送って、優人は静かに緑茶を啜った。
浴室の窓は、今までのどの住まいより大きく開放的に設えられており、ブラインドを動かせば夜の波打ち際がよく見渡せた。りくは湯舟に浸かりながら、ぼんやりと波の行き来に視線を寄越した。
電気を消した浴室に潮騒が満ちる。ブラインドの隙間から射し込む月光は、天井に不可思議な影模様を作り出した。
このまま眠ってしまったらどうなるんだろう? お湯が冷えて体温を奪って……風邪を引くだろうか、それとも足が鱗に包まれて、人魚姫にでもなれるだろうか。
「……パパのせいだ」
昔から、ママは人魚で海に還ったのだ、と繰り返し聞かされていたおかげで、りくもふとした瞬間ついその気になってしまう。だが、そんなふうに母親の死という残酷な現実から自分を遠ざけてくれた父親に、りくは今でも深く感謝している。
月を仰いだ。
青く、柔らかな光を放つ月が、りくを静かに見下ろしていた。
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月光を浴びる銀の砂が、寄せ来る波に攫われてゆく。波打ち際を歩いていた壱之丞は、顔を上げてふと月を仰いだ。
青い、いい月夜だ。
時折、無性に海を近くに感じたくなる時がある。此処一帯、街全体が海に寄り添っているような土地だが、そうではなく、もっと物理的に近くに在りたいと思ってしまうのだ。
潮の薫りと途切れる事のない波音。波打ち際に佇むとそれらに包み込まれているような気がして、壱之丞は胸騒ぎが落ち着いていくのを感じるのだった。
こうして波音に身を委ねていると、古い記憶が壱之丞の脳裏に甦る。決して幸せなだけの記憶とは言えない複雑なそれを噛みしめるように、壱之丞は砂の上に腰を落として瞼を伏せた。
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