第3話
家を出たのが早すぎたのか、学校に向かう防波堤沿いの道には誰も見当たらない。潮の薫りのする朝風が、りくの髪に頬に膝にと当たっては遠ざかる。
りくは気になっていた帽子を取ると、歩きながら頭の中で転校初日の挨拶文を唱えた。目立たず控えめに、それなりの存在感で生徒達に紛れて過ごせればそれでいい。
またいつ父が転居を言い出すか解らない。必要以上に慣れ親しんだり馴染んだりしては、離れるのが辛くなる(そして、そのぶん新たな土地へ行くのが怖くなる)だけだとりくは知っている。だが、今朝の父の言葉は……。
思索に耽っているうちに、りくは校門前に辿り着いていた。疎らながら、同じ制服に身を包んだ生徒達の姿も見え始めている。校門をくぐった後は、校舎まで長く緩やかな坂道が続いている。
坂の途中、りくがふと振り返って見ると、今は早緑の葉を繁らせた桜並木の向こう側、くっきりと青い水平線が見えた。風が強いせいか、水面で白い波が翻って花びらが揺らめいているように見える。丘の上に自分が居るからか、潮騒が此処まで追いかけて来なかった事にりくはほっと安堵の息を漏らした。
担任教師の後について教室に入り、儀礼的事務的に転入の挨拶を済ませたりくは、教室じゅうから注がれる好奇の視線から逃れるように早足で指定された座席に着いた。教室の入口とは対角線上の一番後ろの席だ。隣は空席で、りくは手持ち無沙汰に(普通は隣の席の生徒が色々話しかけてくるものなのだ)窓から見える海と校庭をぼんやりと眺めた。
お昼の休み時間になり、りくは優人の持たせてくれた弁当を机の上に出した。りくに声をかけようかと遠巻きに眺める女子との距離感をもどかしく思いつつ、自分から突き進む事も出来ないままりくは黙々と箸を進めた。
経験上、こういう時やたら親切をお仕着せようとしてくる女子には要注意だ、とりくは思っている。そんな相手が、意外と後になって態度を翻し悪態を突いてきたりする。そんなものだ。
とにかく、教室の凪いだ波を荒立てる事なく静かに過ごしたい、とりくは祈るように思った。
昼休憩も済み、次の授業開始5分前の予鈴が鳴った時、自分の横の窓がガラリと開いた。
「……あれ、誰だっけ?」
窓から教室に侵入した男子に、ぼそりと低い声で尋ねられた。
「あ、あたしは」
特に誰かが答えてくれそうな様子もなかったので、りくは戸惑いつつも口を開いた。
「遠野りく……です」
途端、彼は弾かれたようにりくの顔を凝視した。初対面の相手に無遠慮に見つめられ困惑するりくを余所に、彼は窓の桟を乗り越えて席に着いた。りくの隣の空席が彼の席だったらしい。
「次、数学だっけ。教科書見せて。持って来るの忘れた」
突然、隣の席から声をかけられた。りくの心臓がびくりと跳ね上がる。
「転入生だろ?」
「……はい」
真新しい教科書を出しながら、顔も上げずに答えるりくに、さっきの無愛想さが嘘のように男子は笑う。
「同い年なのに、なんで敬語?」
「や、だって」
「壱之丞」
「は?」
「いちのじょう、って言うの。俺」
変な名前でしょ、と、隣の席で笑い声を落として言った。ちらりとりくが見やると、壱之丞の柔らかな視線とぶつかった。端正な面立ち。午後になって窓から登校するような雑な神経の持ち主には見えない。もっと粗野で半端な顔をしてるかと思ったのに、と、りくは思わず彼を凝視してしまう。
「机」
「え?」
「くっつけないと教科書見えない」
言うと、壱之丞はガタガタと音を立てて自分の机をりくの机に寄せた。教室じゅうの視線が自分と壱之丞に集まるのを感じて、りくは参った、とため息をついた。
始業のベルが鳴り、りくは教科書を壱之丞の方へ押しやると窓の向こうへ顔を逸らした。
見えるのはくっきりと青い水平線、白く舞い踊る波濤。その海の底から陸の上見たさにやって来た人魚は、ローレライを歌い、美しい声で船人を惑わし沈めてしまうのだ。
数式が呪文のように黒板に拡がってゆくのを、写すでもなく見ていたりくがふと隣を見ると、教科書を見せろと申し出たのが嘘のように壱之丞が机に突っ伏して眠っていた。下卑た鼾は聞こえない。ただ、柔らかな寝息が規則正しく聞こえてくる。伏せた睫毛は思いの外長く、色素の薄さは髪と同じようだった。
「おーい、遠野さん。そいつね、橘壱之丞ってんだけど。頭ハタいていいから起こしてくんないかな? 教科書も忘れてきたみたいだし、転入初日から橘の世話させちゃって申し訳ないね」
教卓からこちらを指差して数学教師が言う。堂々と熟睡する壱之丞に生徒達が笑い、眠たげに澱んでいた教室じゅうの空気がぱちんと弾けた。
「……ちょ、起きて、」
「ん」
さすがに頭をはたく訳にいかず、りくは壱之丞の肩を揺さぶった。ほんのり太陽の匂いがする詰襟。
「おい壱、起きろって。本気で困ってんだろ」
りくとは逆側の隣に座った男子生徒が壱之丞の肩を揺する。
ようやく起き上がった壱之丞の顔は、机に押し付けられていた部分だけが赤くなっていた。数学教師の半ば諦めたようなため息に、本人は無頓着なまま授業時間は過ぎていった。
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