#05:最初のあいさつ - 3

 少女は屋敷を出て、真っ直ぐに走った。ちょうど目の前に納屋があったので、その中に飛びこむようにして潜り込むと、扉をピッタリと閉め、干し草の中に飛びこんで身を埋めた。


 どこか、懐かしい匂いだった。農業や牧畜を営んでいたから、干し草はいつだって少女の傍にあった。

 この屋敷の人間からすれば貧しい暮らしに映るかもしれない。だが、少女にとってはそれこそが日常で、とても幸せな日々だったのだ。


 少女は干し草を強く握り締め、母親を思い出しては声を殺して泣いた。


 ふと、ふさふさとした何かがすうっと顔を撫でるのを感じた。驚いた少女は青ざめ、思わず身を引いた。

 暗闇の中に何かがいる。馬や牛の感触ではない。もしかしたら、恐ろしい獣でも飼っているのか。

 少女は静かに立ち上がり、壁を背にして少しずつ入り口の方へ移動した。……と、同時に、干し草を踏む足音がゆっくりと少女に近付いてくる。


「こ、来ないで!」


 少女が叫ぶと、足音はピタリと止んだ。──驚いた。言葉が通用するなんて。

 不思議なのはそれだけではなかった。明かりなんてないのに、納屋の中が独りでにぼんやりと白く輝いていたのだ。


「……きれい」


 少女は思わず呟いた。獅子にも似た容姿のその獣は、体を覆うふさふさの白い体毛を輝かせていた。


「そうだ……お母さんから聞いたことがあるわ。稲光のように輝き、稲妻のように走れる、雷獣らいじゅうと呼ばれる獣がいるんだって」


 本来、その気性は荒く、本当に心を通わせた相手でなければ背に乗せることも許されない。下手に背に跨がろうものなら、体を食いちぎられる、とも言われるぐらいだ。

 なのに、目の前にいる雷獣は、少女を襲うどころか、まるで少女を気遣うように体を寄せてくるではないか。


「あなた、わたしを慰めてくれるの?」


 胸がいっぱいになった少女は、背伸びをして雷獣の大きな背を優しく撫でた。

 雷獣もそれに応えるようにして涙で濡れた少女の頬を舐め、長い尻尾で冷えきった心と体を暖めた。


 少女が気を緩ませた途端──


「うっ……ひぐぅっ……おかぁ……おかあさ………………うええええっ……!」


 ずっと我慢していた感情がどっと押し寄せ、溢れだしてきた。

 少女は、もはやその感情を止めることもできず、何時間も大声で泣き続け──


 やがてはいつの間にか疲れ果て、眠ってしまった。



 真夜中に様子を見にやってきたオリビアは、二人の姿を見て驚き、それから小さく笑った。


「まぁ、エフィリオったら、初めての人間にここまで心を許すなんてね」


 エフィリオは頭を伏せたまま瞼を少しだけ開き、金色の瞳でじっとオリビアを見つめた。


「ごめんなさい。からかうつもりはないのよ。良かったら一緒にいてあげてちょうだい。私達なんかより、ずっとあなたの方が気を許せるでしょうから」


 エフィリオは何も応えず、そのまま目を閉じて再び眠りについた。

 丸くなって眠るエフィリオの懐には、母に抱かれた子供のように、あの少女が穏やかな寝息を立てて眠っていた。



   §



 数日が過ぎ、少女はふかふかのベッドではなく、納屋の干し草を拠点にして動き回った。

 少なくとも、食卓を荒らすようなことだけはなくなり、大人しく食事をするようにはなった。パンをむさぼり、かじる少女の顔を見たサイラスは、それだけでも大きな進歩だと、満足そうに微笑んだ。

 ところが、いつまで経っても名前を名乗らず、サイラスの子供二人にはとげとげしい態度で接していた。

 例えば、先日の平手のことでマリアーナがいくら謝っても口を利かず、エドワードが話しかけてもやはり無視をした。

 時には、少女の方から仕掛けることもあった。エドワードに足を引っかけて転ばせたり、マリアーナの頭にとれたての卵を投げつけたり……。

 二人の子供たちはじっと堪え、少女の心が癒えるまでサイラスやオリビアの言いつけ通りに我慢しようと頑張ったのだが、更に数日が過ぎると、さすがに不服を申し立てた。


「母様! もう無理! あたしやめる!」

「ぼくも耐えられないよ!」


 物陰から様子を伺っていた余所者の少女は、いい気味だとばかりに鼻で笑った。

 けれど、少女は自分の行動について、何故こんな酷いことをしているのか、まったく気付いていなかった。

 本当は止めたい、とさえ思っていた。いや、止めるべきだと思っていた。

 なのに、自分よりもずっと幸せそうな――親のいる境遇、裕福な家庭を見ていると、どうしても我慢せずにはいられなかったのだ。


 オリビアは二人の子供の肩に手を置き、二人の目線に合わせるようにその場にしゃがみこんだ。


「あの子は母親を失ったばかりで、気持ちの整理がつく前にここへやって来たものだから、どうしていいか分からずにいるの」


 エドワードは力の籠もっていた眉を緩め、純粋な疑問に首を伸ばした。


「あの子にはご両親がいないの? どうしてウチで引き取ったの?」


 オリビアは一旦うつむき、どう話したものかと考え、こう答えた。


「あの子は、自分のお母様を助けるために生きようと、必死だったからよ。あなたたちのお父様はそれに答えただけ。大好きなお母様が亡くなって、たった一人で見知らぬ家に連れて来られたんだから、戸惑っているのも無理はないでしょう?」


 はっとしたように、エドワードとマリアーナはオリビアを見上げた。


「ぼくだったら、とても耐えられないよ!」

「あたしも!」


 二人の理解に対し、オリビアは満足そうに頷いた。


「いい、二人とも。あの子がどんな境遇であれ、同じ一人の人間であることには変わりないわ。武力を持たない子供を、放っておくわけにはいかない。騎士は人を殺すためではなく、人を守るために存在するものよ。そこに敵味方の区別はなく、等しく助けていかなければならないわ」


 この言葉を聞いた少女は、自分がしてきたことを恥じ、深く反省した。

 騎士とはなんて偉大な存在なのだろう。そんな人達の前で、自分はどれだけちっぽけなことをしてきたのか。

 少女は思った──あの子たちは、自分よりもずっと立派だった。騎士の家族にふさわしい子供たちだった。なのに、自分ときたら……。不幸だから、親がいないからといつも言い訳をし、心に偽りを無理矢理言い聞かせ、前を向いて立ち向かうことを恐れてしまっていたのだ──


 少女は心の奥でそっとひとつの決意を固めると、その場を静かに離れ去った。



 その晩、再び夕食で一同が集った時、少女は席には着かず、入り口で冷たい床に両膝をついて、頭を下げた。


「一体、どうしたというのだ!?」


 サイラスが立ち上がって驚き、子供たちも目を丸くした。

 唯一、オリビアだけは、その様子を冷静に見守った。


「これまでの数々の非礼、どうかお許しください」


 それは、宮廷で扱うような一人前の謝罪だった。本来ならとても、目の前にいるような少女が思いつきで言える言葉ではない。


「マリアーナやエドワードの幸せそうな姿を見て、ついいたずらをしたくなってしまったのです」


 オリビアはひとつ頷くと、席を立ち、つかつかと少女の傍までやってきた。


「そうね。私達も少し配慮が足りなかったわね。本当にごめんなさい」

「いいえっ!」


 少女は髪が乱れるほど首を振って強く否定した。


「皆様は本当に良くしてくれました。わたしが、わがままだったんです」


 オリビアは微笑み、少女の頭を撫でた。

 そして、オリビアに支えられ、立ち上がる。


「では、今度こそ、お名前を聞かせてくれる? 仲直りをするための、最初のあいさつよ」


 少女は頷き、スカートの裾を持ち上げて深々と礼をした。


「わたしの名前は、シュテラ。シュテラ・エスツァリカと申します。これからいい子になります! だから、どうかここに置いて下さい! お願いします!」


 サイラスとオリビアは顔を見合せ、ぷっと噴き出した。

 やがて、二人の子供たちも釣られて、笑いだした。

 少女はその理由が分からず、きょとんとした顔を見せている。


「最後だけは力任せなのね。もう少し正しいあいさつの仕方を身につけなくちゃならないわ」

「まったく、その通りだな」


 シュテラは恥ずかしくなって、もはや笑うしかなかったが、それが答えなのだと理解すると、今度は嬉しさのあまりに涙が溢れだした。


「シュテラ、だから、シューだな」


 マリアーナがシュテラの肩を叩いて言った。


「あたしのことはマリィ。弟のエドワードのことはエドって呼んでやってくれ」


 シュテラは涙を拭い、ようやく自然な笑顔で応じた。


「うん。よろしくね、マリィ、エド」


 こうして、六歳のシュテラは、正式にウッドエンド家の養女として迎えられたのだった。

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