八・一八の政変

文久三年 八月 十八日


前川邸にて



 夜は未だ明けきれておらず、薄明の光が障子に淡い色を持たせる寅の刻。


 御苑の九門に兵力の配置が完了した合図として、九門内凝花洞で一発の大砲が打ち鳴らされた。



 日の出を待たずして京の町に轟き渡った大砲音は、会津藩、薩摩藩、朝廷内公武合体派である公卿が連携し、長州系尊王攘夷倒幕派を都から一掃するクーデターの始まりを意味する。


 ちなみに公武合体派というのは、朝廷(公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(武)の結び付きを強固なものにして幕藩体制の再編強化を目的とした政策論である。



 水面下で推し進められていた一大クーデターへの出動依頼を壬生浪士組が受けたのが昨日の話しで。


 初めて直々に頼まれた大仕事に多くの隊士たちは落ち着かないのか、半ば徹夜明けのような変なテンションで朝を迎えていた。


 しかしながら、その意に反して会津藩からの出動の命は一向に下される気配がない。


 お陰で、出陣準備も意気揚々に済ませた男たちが広間に集まって来たのはいいものの、どの隊士も待機することに飽き、暇を持て余している状態であった。




「大砲の音から随分、時が経つけどよぉ……未だ出動しねぇのかな?」


「鎖帷子着てから、ひぃふぅみぃよぉ…って、どんだけ待たされんだよ!お天道様が真上にいっちまうじゃねぇか」



 胡座を掻いて座っていた藤堂が茶を啜りながら首を傾げると、長い足を放り出した原田は縁側から覗く空を眺めて、大きな溜め息を落とす。



「お前らは、支度が早過ぎんだよ。焦らず弛まず怠らず……で、更紗。総司の次、俺な」


 永倉は腹ごしらえとして用意してある握り飯を頬張りながら、沖田の鎖帷子の着付けを手伝っていた更紗へ声を掛けた。



「もう少しで終わるので待ってて下さいね。この紐は結んでいいですか?」


 永倉へ返答しながらも鎖帷子に附属していた紐を指先で掴んだ更紗は、膝を付いた姿勢のまま沖田の顔を見上げる。



「うん、そこも固く取れないように力一杯結んでください」


「はい、分かりました」



 沖田からの指示通り、更紗は紐をきつく結んでいると、珍しく広間の入り口付近から苛立ちを募らせた男の声が響き渡る。


「私の鎖帷子が無いとは一体どういうつもりだ?説明しなさい」



「…大変申し訳ありません!どうしても全員分の用意が出来ず…山南副長は腕を怪我なさってますので、お召しになった方が負担になるかと…」


「…ひ…土方副長にも、山南副長の出陣は先鋒では無いと聞きましたゆえ…」



 恐る恐る廊下へ視線を移すと、最近、入隊したばかりの平隊士二名が頭を下げて言葉を放っていた。



「莫迦を言うんじゃない!腕はこの通り、治っているんだ!壬生浪士組の副長として先鋒で出陣する心積もりはしている。憶測で物を申すな!!」


 障子に隠れて山南の表情を伺うことは出来ないが、いつもの姿から想像出来ない雷のような怒鳴り声に、その場にいた者全員が押し黙って息を呑んだ。



「……これ、山南さんには渡されてなかったんですね」


 バツが悪そうに呟いた沖田へそろそろと近づいた藤堂は、口元に手を添えて小さく声を掛けた。



「…山南さん、いつの間に腕治ってたんだ?」


「いや、…未だ本調子ではない筈。先日の稽古でも試合は遠慮していたから…」



 沖田が複雑そうな表情を浮かべると同時に、原田が何かを閃いたように顔を明るくさせ、永倉の横に置いてあった古びた鎖帷子を指差す。



「ぱっつぁんの鎖帷子を山南さんに譲ってやれば万事解決じゃねぇか!?お前は腕も立つし無くても大丈夫だろうが!」


「別に俺ァ斬り合いで長州に負ける気はしねぇから鎖帷子なんぞ無くてもいいけどよ……今、これを渡して山南さんが素直に受け取ると思うか?」


「……受け取んねぇか」


「あの人は意外に頑固だからなぁ…こりゃア、戦場いくさばへ行く前に壬生で一波乱起こっちまうぜ」



 永倉は手に持っていた握り飯を口へ放り込むと、顔を歪めながら味気なく咀嚼した。



「……誰か、間に入ってあげたら?隊士さん逃げ場がなくて可哀想かも…」


 更紗の視線の先に見える光景は、平身低頭のまま謝罪の言葉を繰り返す平隊士の哀れな姿であった。



「そう言われてもよぉ…山南さんは一度火がつくと長いんだよ」


「そうそう!いつだったか……江戸の試衛館で土方さんと喧嘩をおっ始めた時、誰も手が付けられなかったしな」



 廊下の様子を見守る藤堂に相槌を打った原田は、我関せずとも言う様子で握り飯に両手を伸ばし、がっつき始める。


 今朝方、大きなざる一杯になるまで握って乗せた三角の塩むすびは、とうとう残り三つまで減っていた。



「山南さんは自分の中で腑に落ちない事があると、例え近藤先生が仲裁に入っても納得できるまで引かないんだ」


「……そっか」



 沖田の言葉を聞きながら、更紗は普段の姿から想像出来ない山南の変貌ぶりに、一抹の不安を覚えていた。



「…山南副長、お話の途中で申し訳ありません。僭越ながら、宜しかったらこの鎖帷子をお使いになりませんか」


 誰も声を掛けられない険悪な雰囲気を優しい声色で壊したのは、更紗の柔術の師である松原忠司であった。



「それは松原君に支給されたものだ。先鋒に出る貴殿の身を危険に晒してまで、私は鎖帷子を手に入れたい訳では無いんだよ」


 苛立ちを滲ませながら応える山南へ、松原は微笑みを崩さないままに首を横に振った。



「いえ、そういうつもりでは御座いません。見ての通り、私のような巨体では特注の鎖帷子で無いと纏う事すら許されないのです。ですから、この鎖帷子がどうしても余ってしまいます」


「…ならば、松原君の分も用意されて居ないも同然では無いか」


「私は自分の持っている胴で十分ですので、どうかお気になさらず。人間と言う生き物は、過ちを犯して成長するものですから」


「…松原君の言わんとしている事は理解できるが、私が何故なにゆえ、この若者たちに腹を立てたのかと言うと…」



 腹の虫が収まらない山南は間髪入れず、怒りの理由を詳細に話し始めるが、松原はそれを疎むこともせず、真剣な眼差しで頷いて受け止めているようであった。



「……こりゃア、寄らずに任せちまうのが得策だな。流石、親切者の松原と言われるだけあるぜ。あんな説教じみた話しに付き合ってやんだからよ」


 永倉は胡座を掻いた膝の上に肘を置いて、頬杖を付きながらその光景を眺めている。



「更紗、念の為に山南さんに鎖帷子が用意されてなかった事、土方さんに伝えて来てくれないかな?」


 着付け終わって身なりを整えた沖田が、畳に置かれた鎖帷子をチラリと見やり、何かを察したように口を開く。



「分かりました。ついでに、松原さんの鎖帷子がないことも伝えてきますね」


 静かに立ち上がった更紗は、踵を翻して山南たちのいる板廊下へと歩みを進めた。


 視界の端に見切れる山南は、白い顔を幾らか赤らめて平隊士たちと松原へ叱責の言葉を連ねている。


(……プライド傷付いちゃったよね。出陣までに落ち着くといいなぁ…。)



 確かに副長という役職にありながら、甲冑を用意して貰えなかった山南の腹に据えかねる気持ちが分からないでもない。


 ただ、思いの外、怒り狂う男の姿を目にしてしまえば、同調する感情よりも先に湧き上がるのは、幻滅するような、気分が落ち込む心持ちになってしまい。



「で、俺にどうしろと?」


「えっ……どうしろって言われても…報告に来ただけで…」



 今だ着流し姿のまま煙草盆の前で寛ぐ土方を見つめた女は、投げられた予想外の返答に面食らって口篭っていた。


「……じゃ…じゃあ、私の希望としては、山南さんの怒りを鎮めて欲しいのと、松原さんの体に合う鎖帷子を用意して貰いたいです」



 更紗は慌てて思案を巡らしながら、漆黒の双眸を真っ直ぐに捉えるが、土方は視線を外すと、邪険にするように煙管の煙を細く吐き出した。



「山南さんは暫く放っときゃいい。今、松原が相手してんだろ?適役じゃねぇか。で、松原の鎖帷子は…島田のモンが使い回せるか…」


「…えっ?山南さんのこと、放っておくんですか?」



 更紗は眉を寄せて訝しげな表情を浮かべるが、煙管の煙を立ち上らせていた土方は無表情のまま口を開いた。



「今、俺が行った所で収まる話しじゃねぇだろうが。面倒くせぇから放っとけ。…大体、腕がまともに使えねぇのに先鋒に出るっつうのが手落ちなんだ。平隊士如きに舐められるなんざ情けねぇ」


「………。」



 土方から放たれた否定的な容赦ない発言に、更紗はぐうの音も出ず。


 この男は辛口の中の辛口、即ちスーパードライな性格であることを忘れていた自分を悔いる。


 最早、土方の口癖と言っても過言ではない『面倒くさい』の到来に、女は忘れかけていた苛立ちを思い起こしていく。


(……沖田さん、助けを求める相手を間違えてるよ。自分が忘れられたらブチ切れる癖に、人のことになると無関心だなんて…。)



 更紗が冷めた顔つきで前を睨みつけてみれば、男は片眉を吊り上げ挑戦的な眼差しで視線を絡ませてくる。



「何か文句あんのか?」


「……自分の鎖帷子、用意されてなかったら悲しくないですか?」


「俺はいつ戦へ身を投じてもいいように自分のモンを持ってんだよ」


「…土方さんが買ったんですか?高いですよね?」


「縁者に買わせた。要するに、欲しけりゃアどんな手を使ってでも工面すんだよ」



 表情を崩さないままに煙管を噴かす男の視線の先には、縁側に干されている私物の鎖帷子があった。



(……もういいや、相談するだけ時間のムダだ。)


 これ以上、土方と話しても埒が明かないと判断した更紗は、畳に手を添えて頭を垂れ、立ち上がろうとした刹那。


 

「副長、斎藤です。たった今、会津藩から伝令が伝えられました」


「入れ」


「失礼します」



 襖を挟んだ板廊下より現れたのは既に鎖帷子を纏った斎藤であり、金属の擦れる音を響かせながら、自分の隣へ腰を下ろしていく。



「永倉が待っているぞ」


「…えっ?」



 つい先ほど、永倉と鎖帷子を着付ける約束をしていたのに、山南の件に気を取られてすっかり頭から抜け落ちていたと、更紗は反省の溜め息を漏らした。


「……そうだった。急がなきゃ…」



 慌てて立ち上がった更紗は部屋を出る意思を見せるが、紫煙を燻らせている切れ長の双眸が、こちらの視線を捉えて離さない。



「おめえは此処にいろ」


「…でも、永倉さんに着付けのお手伝い頼まれてる…」


「んなもん、おめえじゃ無くてもいいだろう。斎藤、後で新八に、てめえの事はてめえでやりやがれと伝えとけ」



 土方は更紗の返答に被せながら淡々と言葉を落とすと、幾らか目を細めた状態で押し黙る斎藤を見やった。


「承知しました」


 

 この土方歳三という男はどこまでも自分勝手で強引であるが、更紗を含めた多くの隊士たちはそれに逆らうことが出来なかった。


 というよりも、逆らったらどんな仕打ちをされるか分からないリスクと、実は裏で何か意図が隠されているかもしれない予感が、反論を喉の奥へと引っ込めていくのだ。


(……もう、しょうがないな。)



 そのため、無意識に畳に根が張ったように、言うことを聞いてしまう自分が悔しくも存在するのである。


 更紗が座り直したのを見届けた斎藤は、改めて姿勢を正し、真っ直ぐに土方を見据える。



「先程、会津藩公用方広沢様の使いの藩士が来られました。昼九ツ頃を目処に武装した状態で屯所から出陣するようにとの伝達です」


「昼九ツか…これだけ伝令が遅ぇとは浪士組も舐められたもんだな。戦況が落ち着いてからの出陣とくりゃァ…戦力として期待されてねぇか、芹沢の一件で素行の悪さを危ぶまれたかのどっちかだな」



 自嘲気味に笑みを零した土方は、吸い終わった煙管の灰を煙草盆に落とした。



「半刻後に屯所前へ集まるよう皆に触れてくれ。後、近藤局長の部屋にいる山崎に島田の鎖帷子を松原に渡すよう伝えろ。以上だ」


「御意」



 指をついて深々とお辞儀をした斎藤は、俄かに立ち上がると踵を翻して颯爽と歩き出す。


(斎藤さん、置いてかないで…)



 声に出さずとも大きな瞳で訴えかける女の念に気づいた斎藤は、柄になくフッと笑うと襖に手を置いたまま更紗を見据えた。



「また何かあれば話し位は聞いてやる」


「……何かあればって…楽しんでるだけじゃん…」



 更紗は閉められていく黄味がかった襖を見つめながら、今後を予測し小さく溜め息を落とした。

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