壬生礼相撲

文久三年 八月 十二日


壬生寺にて




 池の水のように澄み切った秋空を、さも波打たせるかの如く割れんばかりの大歓声が境内を賑わしている。


 壬生寺の山門近くでは、黒紋付に白縞袴姿の隊士たちが行列に並ぶ男たちを相手に、何やら新しい試みをしているようで。



「では、お酒一杯と扇子一本で合計三十文となります。沖田さん、一杯お願いします」


「承知しました!」



 更紗は後ろへ向けて明るく声を掛けると、青年は待ってましたとばかりに酒樽の酒を柄杓で掬って器に流し込み、並々と注いだ酒器を前へと差し出す。


 それを受け取った女は、金銭のやり取りをした後、満面の営業スマイルで丁髷姿の男性客に売り物の商品を手渡した。



「大変お待たせしました。次からこの酒器を持って来て貰えれば、お酒代のみの十文で提供しますので、是非お越し下さいね。ありがとうございました」


「器持って来たら二文安くなるんやな。ほな、また硝子玉の兄ちゃんに会いに来るわ」



 物珍しそうに自分を見ていた男性客はいつの間にか頬を赤く染めており、嬉しそうに次の来店を約束し去って行く。


 どこから見ても侍である筈なのに、まるで可愛い娘を見つけたような反応を伺わせる態度に小首を傾げれば、横にいた永倉が意味深に口の端を上げていた。



「お前が売り子だと壬生界隈の野郎が衆道の気で溢れちまいそうだな」


「衆道の気?何ですかそれ?」


「衆道とはね、男色を意味するんだよ。さっきの男性客にはその気が見えていたかもしれないね」



 腕を気遣いながら腰を下ろした山南が穏やかに微笑んでいれば、永倉は何かを思い出したかのように背後を見やる。


「そういや昔、奉公先の番頭に見初められて痛い目を見ちまったのは、土方さんだよな?」



 そこには正装にも拘らず、茣蓙の上で立膝をついて、銭勘定を黙々と行っている一人の男がいて。



「……気色悪りぃ事思い出させんじゃねぇよ」


「そうですよ、永倉さん。土方さんの尻の穴に謝ってください」


「総司、てめえ……後で覚えていやがれ」



 即座に睨みを利かす土方を見やった山南は苦笑うと、一呼吸置いて改まった声音で話し出した。



「土方君、刻下の上がりは如何なものだい?」


「ああ、悪かねぇ。商いとしては上々だ」


「それは良かった。これで新徳寺のご住職の怒りも鎮められるといいんだがね」


「何は扨措さておき、言い値では払わねぇと突っぱねたんだ。ちょいと色を付けて渡しゃ機嫌も直るだろうよ」


「そうかい。殊に面目ない、私が押しに弱いばかりに…」



 申し訳なさそうに小さく髷を掻く山南に、土方は視線を送らずとも、片眉を吊り上げてみせる。



「否、人には適材適所ってもんがあんだ。壬生の人間に慕われてるおめえさんは、おめえさんにしかできねぇお役目があるじゃねぇか」


「そうですよ、山南さんが此処にいてくれるから、皆さん安心して酒を買ってくれるんですよ。俺と新八さんだけじゃ、誰も近寄ってはくれませんからね」


「そうは言っても、空になった酒器を再び持ち込むと酒が安くなるとは……全くよく考えられた商いだよ」



 沖田に笑みを送る山南は感心したような眼差しで土方を見やるが、その男は意味ありげに口元を綻ばせていた。


「まぁ、件は俺ではなく、小姓の手柄だがな」



 土方の言葉を聞いた男たちの訝しげな視線がこちらに集まるため、更紗は取り繕うように、両の手の平を向けてみせる。



「…いや、私っていうか。私のいた世界で行われてることを真似しただけですよ。器を再利用することで浪士組の支出も減るし、その分、安くすれば購買意欲をそそるし、無駄なゴミも出なくてエコだから……一石三鳥でしょ?」



 未来人の脳内に浮かぶのは、某遊園地のポップコーンバケツや野外フェスなどで見かけるリユース食器使用の取り組みであった。


 隊士たちが酒樽を設置していた際、酒器が用意した数で足りない可能性があるのを聞き、思い切って土方へ提案したのである。



「お前の言う、えこっつうのは何の事だ?」


 ふぅ、と息を吐きながらしゃがみ込んだ永倉が、茣蓙の上の商品を整えながら言葉を落としていく。


 代わりにひょこりと現れた沖田の横で、更紗は思案を巡らしていき。

 


「エコですか?エコはですね、うーんと……環境に良いとか、地球に優しいとか…そんな感じの意味ですかね」


「ふぅん、よく分からないけれど、美味しそうな響きだね。甘味の店も出せば良かったなぁ。きっと飛ぶように売れたでしょうし」


「そういや、先刻に先生の所へ顔を出してきたけどよ……壬生寺へ酒樽を運んでいたのを見てたらしく、いつにも増して不機嫌だったぜ」


「……また商人の真似事をしていると我々に腹を立てているのか…参ったね」



 困った顔つきを覗かせる山南を一瞥した沖田は、我関せずと言わんばかりに黙りを決め込んでいる男へ視線を投げる。


「土方さん、このまま放っておいていいんですか?近藤先生の立場が悪くはなりませんか?」



 誰もが口にできなかった言葉を聞いた永倉、山南、更紗の視線がそれとなく土方へ向けられるが、いつもと何ら変わらぬ様子で顔を顰めていて。


「知ったこっちゃねぇだろう。こちとら芹沢大先生の尻拭いをしてやってんだ。こうべを垂れて礼を言われてもいい位じゃねぇかい」



 その言葉は至極真っ当な意見であったが、土方のように堂々と筆頭局長の批判をする事も出来ず、皆が皆、苦笑いで小さく頷くのが精一杯であった。


 浪士組名義の借金は予想以上に膨らんでおり、少しでも金策になる話しを掴めば、貪欲に動いて対価を得ているものの、それでも利息分の払いにしかなっていない状態で。



「お前も行ってきたらどうだ。此処は祇園社と違って、女子どもも好きに見られんだからよ」


「……うーん、そうですけど…何か気分が乗らなくて。男の人が多いのは、変わりませんし…」


 

 青空の下、客の途切れた店に残ったのは、酒を煽りながら店番をする永倉と、背後で書状を読み耽る土方、手持ち無沙汰でいる自分の三名であった。


 沖田は山南と念願の相撲観戦へ行き、巡察から帰ってきた藤堂と原田も、壬生興行の警備を名目に歓声の響く境内へと消えていた。



「お前は出会った時と何も変わんねぇな、そろそろ慣れてもいいんじゃねぇか、男って生きもんによ」


「…そう簡単に言いますけど、慣れようと思って慣れるものじゃないですよ。苦手には変わりないし…」


「まぁ、苦手だっつってもよ…」



 そろりと立ち上がった永倉は柄杓を手に取り、空になった酒器へ何杯目か分からない酒を流し入れていく。


 昼間から酒浸りになる姿に呆れそうになるものの、背後にいる土方が注意せずにいるため、飲ん兵衛の目に余る行動には口を出さずにいて。



「一端の女が十八まで生きてりゃ、惚れた腫れたの一つや二つ、あって可笑しかねぇぜ」


「……そうですかね?そんなことないと思いますけど」


「そういや前に、あの世で恋仲の男と別れたどうだのっつう話しをしてたか……どんな野郎だったんだ?侍か?」


「そこは、ノーコメントでお願いします」


「のうこめんと……?」


「お答えしません、という意味です」



 全く口を割る気のなさそうな更紗を尻目に、永倉は酒を煽り、さもつまらなさげに口を尖らせていく。


 そんな二人の様子をチラリと見やった土方は、再び文に目線を落とすと、味気なく言葉を放つ。



「新八、器代は負けといてやる。五十文払えよ」


「えぇ~!店番に勤しむ俺からも金取んのかよ。あんまりじゃねぇか…」


「売りもんなんだ、当たりめぇだろうよ。それから、おめえに俺からも聞きてぇ事があるんだが」


「…私にですか?はい、何でしょうか…」



 何をするにも強引に事を運ぶ男から、事前に了解を取るような行動を起こされると、変な緊張感が胸の内を掻き乱していく。


 トクトクと、騒ぎ立つ鼓動を楯に身構えた更紗は、無表情のまま自分を見据える男と視線を合わせた。



「どらいっつうのはどういう意味合いになる?」


「…ドライですか?乾燥したとか、乾いたを意味しますけど…」


「乾いた、か」



 女が返した言葉を小さく繰り返した土方は、思案げな表情を浮かべ、手持ちの文を畳み始める。


 更紗は今朝から土方の様子が何となくいつもと違うような気がして、妙にそわそわと落ち着かない気持ちに振り回されていた。


(……何で怒ってないんだろう……分かんないなぁ……)



 自ら無視を決め込んでしまい喧嘩別れ状態である筈なのに、土方はまるで何事もなかったかのように、自然な態度で接してくれる。


 それが故意なのかそうでないのか、昨日の悪態が帳消しになっている現実が、一種の恐怖を植え付けてくれていた。



 厄介なのはそれだけでなく、受け取らなかった櫛の包みが鏡台に置かれ、纏っていた筈の着物と晒が綺麗に畳まれ、覚えのない緋色の手拭いが枕元に落ちていた事実。


(……ダメだ、部屋に戻ってからの記憶がない。私、何も変なことしてないよね…)



 またもや酔いのまま寝落ちてしまった更紗は、手がかりとなる記憶の断片でも拾えないかと必死に昨夜の行動を順に追って思考を巡らせる。


 そんなこちらの焦りの見え隠れする姿を一瞥した男は、何故か釈然としない表情を浮かべ、再び形の良い唇を動かしていった。



「乾いた以外の意味はねぇのか?人に使う場合はどういう意味合いになんだ?」


「……ドライな人って事ですか?うーん…素っ気ないとか、合理的で感情に流されない人って感じで使われますけど…」


「ほう、…成る程な」



 その言葉を聞いて腑に落ちたのか、土方は微かに口元を緩めるが、更紗はその質問の意図が掴めないでいた。


「ドライな人がどうかしたんですか?」



 不思議そうに首を傾げてみた自分を暫く無言で見据える土方は、僅かに片眉を吊り上げ、張りのある声を響かせる。



「覚えてねぇんだな」


「……何を…でしょうか…?」



 白を切り通したくても通せない酒の失態は、一度ならず二度までも。


 やはり、昨夜この男と何かあったのかもしれないが、その状況を1ミリも思い出せない罪の重さは、あの日の京の闇のように濃く、大坂の海のように深い。


(……どうしよう……聞いたら自滅するかな…)



 不安の色を滲ませる碧色の瞳を視界に捉えていた土方はフッと小さく笑うと、徐に立ち上がった。



「会津の御役人を出迎えるが、おめえも来い。新八、酒代は店番で相殺してやる」


「そりゃありがてぇ、幾らでも働きやすぜ」



 酒器に口を付けながら手を振る永倉を尻目に、土方は刀の位置を直し、境内から遠ざかるように歩き出す。


「……また勝手に行っちゃうし…」



 小姓という立場上、上司である副長の命令は絶対である。


 このタイミングで二人になれるのは幸か不幸か分からないものの、誰にも知られずに自分の恥の内容を聞き出せるならと、小走りで後を追いかける。


(…もう、どうとでもなれ。)



 参道に下駄の音が響き渡る時、女は行き交う人々が疎らになったタイミングを計り、前方を歩く土方へ声をかけた。



「……あの…ですね。朝、起きたら赤色の手拭いが…」


「洗って返してくれりゃいい」


「……はい」



 勇気を振り絞って放った質問は、後ろを振り返ることなく吐き出された男の低い声によって、強制終了となる。


 けれども、高価な櫛を受け取るつもりはないため、ここで引き下がるわけには行かないと更紗は土方の横に並び、意を決して視線を上げた。



「……あの、櫛なんですけど…やっぱり…」


「おめえが思ってる程高かねぇよ」


「…そうなんですか?…いや、でも…ですね…」


「男からの貢物を突き返すなんざ、野暮な真似すんじゃねぇぞ」



 被せるように落ちてきた強めの返答を受けて、更紗は咄嗟に瞬きもせず、その端正な横顔を見つめる。


 一を聞いて十を知るとはこの事かと思う位、自分の思惑が読まれている不可思議さが、淀む胸懐へ清らかな波紋を広げていく。


(……野暮って確か、融通が利かないとか、空気が読めないってことだよね。)



 高価な櫛を貰う理由などないと自分の事ばかり考えていたが、男性からすれば贈り物を返されるのは不名誉でしかなく。


 それは男のプライドを傷つける行為であり、返した女は相手の気持ちを無下にした事になるのだろう。


 漸く土方の真意を理解した更紗は、その厚意を素直に受け取ろうと、一呼吸置いて、言葉を紡いだ。



「…じゃあ、ありがたく頂きます。どうもありがとうございます」


「それでいい」



 心なしか優しい声色を放つその態度が擽ったくて、肌を撫でられた時のように、変な羞恥を心の内側に感じてしまうが。


「のう、新見。いつから浪士組は生業を偽った侍の集塊になった」



 穏やかな男の表情が見る見るうちに冷酷なものへと変わり、殺気を秘めた眼差しで自分の背後を見据えていく。



「先生、彼奴等と我等は似て非なるものなのです」


「江戸の田舎侍には尽忠報国の志は解せぬか。今すぐ東帰の手筈を整えてやれ」



 重みのあるしゃがれ声が否応無しに周囲の人間の鼓膜を震わせ、その背筋を凍らせていく。


 振り向いた先には、芹沢の鋭い眼光と梅の気まずそうな表情、新見錦の背後で息を潜める斎藤の姿があり、堪らず更紗の口から吐息が零れた。

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