軋轢

 薄雲の彷徨う浅葱の空は、いつもより地上との距離を遠く感じさせてくれる。



「芹沢せんせ、早う島原へいこ。昨夜のうちの頑張りを御祝いしてくれはるんやろ?」


 機転を利かせた梅が隆々とした腕へ絡みつき、畦道を進もうと足を運んでみるが、芹沢は乱暴に女の腕を払うと、力のままに突き飛ばした。



「邪魔だ、下がれ」


「…きゃ…っ…!」



 控えめな悲鳴と共に、丸みを帯びた肢体は否応無しによろけ、傾いていくが、刹那に斎藤が小柄な梅を支え、地面への衝突を免れる。


 そんな様子を気にかける事もなく、嫌悪と憎悪の感情を露わにした男の蔑むような眼光が、周囲の空気を殺伐としたものへと変えていた。



「壬生狼と揶揄し我等を見下す下賤相手に物を売るとは……武士以下の真似事をして恥ずかしいと思わんのか?」


 芹沢の嘲るような冷たい眼差しは、容赦無く更紗の隣に立つ土方へ向けられている。



「…ならば言わせてもらうが。おめえさんは借金を作り、酒に溺れ、侍らせた女を突っ掛けるのが、立派な武士だと言いてぇのか?」


 至って冷静に言葉を返す土方を更紗は不安げに見やるが、その横顔は真っ直ぐに芹沢を見据え、殺気を滲ませていた。


 両者の放つ気迫が凄まじいもので、その場に居あわせた誰も間に入れる手立ては皆無、ただ息を潜め、固唾を飲んで動向を見守るしかない。



「……何だと。一端の農民が水戸浪士を侮辱するとは、儂に斬り捨てられたいようだな」


 ゆっくりと刀に手を掛けた芹沢は、土気色にも見える顔を歪め、地を這うような低音を辺りに轟かせる。


 更紗は男から放たれる圧倒的な殺意を前に、両足を地面に縫い付けられたかの如く、動くことが出来なくなってしまっていた。



「おめえは下がってろ」


 そんな女の様子を視界に捉えた土方は即座に華奢な腕を掴み、強引に後ろへと退かせる。


 更紗は食い込むほどの腕力の余韻を感じつつ、唇をぎゅっと噛み、迫り来る恐怖と対峙する。


 獰猛な獣と見間違えるほどに、鋭利な眼差しを向けてくる芹沢は、不意に嘲笑を浮かべ、わざとらしく喉を鳴らした。


「碧目、百姓身分に付いても得はない。こっちへ来んか。お前には志高き武士を付けてやる」



 生温い一陣の風が、不穏を届けるように壬生寺の前を吹き抜けていく。


 明らかに身分差別を助長するような芹沢の物言いは、更紗の心に不快感を植え付ける。



 150年後の日本で育った自分は、身分差を肯定するような価値観を持ち合わせる教育を受けてはいない。


 確かに環境等の様々な要因によって、人は皆平等であるとは言い切れないのも事実ではある。


 けれども、人間の魅力は内面にある個性や本人の努力で、無限に培われるものだと胸を張って思えるもので。



「…ごめんなさい。私には身分というものに価値を見出せません。それより、浪士組のために必死で働いている土方さんを尊敬していますので…お気遣い頂かなくて結構です」


 心に正直なまま紡がれた更紗の言葉には、嘘偽りのない真っ直ぐな想いが溢れていた。


 そんな女の一途な姿勢に芹沢は尚一層気を悪くしたのか、瞬く間に顔を朱に染め、癇癪声で捲し立てるように更紗へ怒号を飛ばす。



「夷狄如きが驕りよって!攘夷の名の下に夷人の血を引くお前から斬ってやる!!」


 芹沢は手に掛けていた刀の鯉口を切る仕草を見せ、全身から怒りの狂気を放ち出して。



(やってしまった……これは…ヤバイかもしれない…。)


 言葉を選んで返答したつもりだったのだが、大方120パーセントの確率で火に油を注ぐ結果になってしまったらしい。


 これまで何度も永倉に注意喚起されていた、先生には絶対に逆らうなという合言葉が否応無しに脳内へ木霊しては消えていく。


 芹沢から向けられる獲物を狩る獰猛な眼差しを前に、更紗は声を出すことも出来ず、身体が石のように硬直していた。



「……てめえ、いい加減にしやがれ」


 自分を守るように立っていた土方は抑えていた殺気を一瞬で放出し、腰の重心を落とし、刀の柄に引き締まった手を掛ける。


 どちらかが一歩でも動けば、激しい斬り合いが始まるかもしれない緊迫感は、女の胸を甚く締め付け、伸ばした指先が着物の合わせに皺を寄せる。


 そんな一触即発の状況を打破したのは他でもなく、肩を怒らせて足早に闊歩してきた武骨な外見を持つ男の大声であった。



「二人ともそこまでだ!これ以上、騒ぎを大きくすると壬生浪士組の沽券に関わる事態になる。もうすぐ会津藩士が沢山お見えになるので、どうか私の顔に免じてこの場は収めてくれないか」


 いつもは顔に似合わず、柔和な笑みを浮かべている近藤勇が、この時ばかりは恐ろしく厳粛した顔つきで双方の男たちを見入っていた。



「歳、こんな所で内輪揉めしている場合じゃないだろう。頭を冷やせ」


 土方は厳しい口調で叱責する近藤を一瞥すると、顔を歪め、得心がいかない様子を伺わせつつ刀の柄から指先を離し、芹沢に見得を切る。



「芹沢先生、どうか刀をお納め下さい。無駄な争い事は我らの身を滅ぼします」


 男の鋭い眼光を覆い尽くすような近藤の鬼気迫る表情に、流石の芹沢も抗う行為は諦めたようで。


 忌々しい顔つきのまま一寸ほど抜かれていた刀身をカチリと音を立てて鞘に納めた浪士は、蛇のように絡み付く視線を放った。



「今日の所は許してやる。せいぜい会津様へ媚びへつろうてくるがよい」


 刺々しい声で吐き捨てた芹沢は、悲しそうな顔をした梅の手首を掴み強引に島原への畔道を歩いて行く。



「お更はん、ほんま堪忍え」


 芹沢に手を引かれながらも、後ろを振り返って声を絞り出す梅は、瞳を潤ませ憂いを帯びた表情を滲ませていた。


(……た……助かった……)



 遠ざかっていく芹沢一派の後ろ姿を見送りながら、取り敢えず事なきを得て安心したのか力が抜け、更紗はよろよろと土道へへたり込む。



「流石のおめえでも、腰は抜かすか」


 頭上から落ちて来た声に顔を上げると、土方が幾らか柔らかな表情を浮かべて手を差し伸べてくれていた。


「……ちょっと……今…立てないです…」



 更紗は力が入らない身体を地面に手を付いて支えながら、この男は傷ついてはいないのだろうかと、自然とその見えない胸の内を心配していた。



 正直、江戸時代の人間ではない自分からすれば、どれほどの差別的発言を受けたとしてもここは本来、自分の在るべき世界ではないからと、他人事のように割り切る術を身につけていた。


 しかしながら、目に映る土方は、まさに今、江戸時代を生きる人間であり、近藤と共に百姓から武士になることを切に願って暮らしているのである。


 武士になるために京まではるばるやって来た男にとって、芹沢から繰り返された発言は自尊心を酷く傷付けられるものに思えて仕方なく。


(……きっと、落ち込んでるよね。)



 伏し目がちにしていた碧色の双眸を土方へ真っ直ぐに向けると、更紗は遠慮がちに言葉を続ける。


「……土方さんは……大丈夫ですか?」



 二人の狭間に響いた声に耳を傾けていた土方はフッと笑みを零すと、口元を綻ばせながら片眉を僅かに吊り上げた。



「おめえに心配されるとはな。何て事ァねぇよ」


「……だって……あんなひどい言い方…」



 眉を寄せて物言いたげな眼差しを見せる更紗の前に、土方は地面へ片膝を付いて腰を落とす。


「別に言わせときゃいい。こちとら気にする事じゃねぇだろうが」



 その真意は分からないが、きっと男心の奥底には静かに哀しみが積もっているのではないかと無駄な詮索をしてしまう。



「……それでも…気になるんです…」


 更紗は透き通った硝子のような瞳を潤ませてみれば、視線を逸らすことのない漆黒の双眸が微かに細まっていく。



「おめえさんは難しく頭を捻りすぎんだよ。単純になれ」


「………単純に…ですか?」


「そうだ。雑念に囚われちまうと碌な事はねぇ」


「……ろくなこと…」


「目的を遂行する事だけ考えりゃ、自ずと次の一手は見えるもんだ」



 真面目な顔つきで更紗の顎を引き上げた土方は、その端正な顔を吐息のかかる距離まで近づけていき。


「……っ!!」



 生温かい感触が唇を舐めあげていくため、更紗はその目を丸くするが、土方は素知らぬ顔で身を離し、栗色の頭に優しく手を置いて立ち上がる。


 誰に見られても可笑しくないこの状況下で刺激的なキスを仕掛ける男の脳内は狂気の沙汰としか思えない。



「……何を考えてるんですか。この変態…!」


 咄嗟に土のついた手の平で唇を覆う更紗の顔は、一瞬で火がついたように赤くなり、その場に突っ伏す寸前であった。



「何だ、歳。やはり更紗とデキてたのか。じゃあ、私は手を付けられないなぁ」


 耳を疑うような発言に更紗は顔を上げるが、視界に映る近藤は先ほどの厳しい顔つきから一転、いつものニコニコとした表情を浮かべ、こちらを見ている。


(……色んな意味で…最悪だ…。)



 最後の砦だと思っていた近藤も同じ穴のムジナ、仮に土方を退けたとしても近藤から手を出されるのであれば、事態の深刻さはどう動いても変わりはしない。


 そんな女の絶望を男たちは知る由もなく、土方は近藤の傍まで歩みを進めると着物の袖口に手を入れ、涼し気な表情を浮かべた。



「餓鬼がくどくど煩ぇから口を塞いでやっただけだ」


「その割には嬉しそうに見えるがな。でも、あんなに恥じらっているんだ、大の男が初心うぶな娘をからかうのは余り感心しないぞ」


「初心ねぇ。ま、昨夜の仕返しだ」



 自分に流し目を寄越す土方の意味深な視線に我慢できず、更紗はあからさまに顔を背けて憤りを露わにする。


(……昨夜の仕返しって……何をしても良いわけじゃないじゃん…!)



 この際、自分がウブであるかどうかだとか、昨夜の二人に何があったかなどは、どうでも良い事柄でしかなく。


 最近の土方は忙殺を極め、花街に足を運ぶ時間も持てなかったように見えたので、間違いなく女に飢えての行動なのだろう。


 自分に対して単純になれだなんて偉そうな事を言ってきたが、もっと考えて行動すべきじゃないかと、男たちを険な目つきでキッと睨んでみるが。



「……歳、このまま先生を色里へ行かせてしまって良かっただろうか」


「会津様がお越しになる前に消えてくれるとァ、願ったり叶ったりじゃねぇか」


「……しかしだな。腹に据えかねているだろう。また島原で暴れられでもしたら、無駄骨を折る事になる」


「故に斎藤を付けてんだ。いざという時は俺が動く。勝っちゃんは何も考えず、御役人と気分良く呑んでくれりゃァいいのさ」


「…分かった。件は歳に一切を任せるが、くれぐれも穏便にな。噂をすれば…丁度、お見えになられたようだ。迎えに行ってくるよ」



 こちらへ向けてニコリと微笑んだ近藤は、遠くに見える侍の集団へ視線を送ると、堂々とした顔つきで踵を翻し、人々の行き交う畦道を進んでいく。


 後々に新撰組の局長になる人物だけあり、威厳に満ちた風格溢れる存在感は周囲の人間を惹きつけるものであった。


 例に漏れず、女も座り込んだまま近藤の後ろ姿を眺めていたが、徐に更紗の前に人影が落ちると、生身の手が伸びてきて華奢な腕を掴んだ。



「何惚けてんだよ。早く立たねぇとまたやっちまうぞ」


「…ふざけないで下さい。何であんな事するんですか」



 土方の力を借りて立ち上がった更紗は、手についた土を払いながら厚顔無恥な男を怪訝に睨みつける。



「尊敬している男から吸われたなんざ、光栄なこったろう」


「な訳ないじゃん!質問をはぐらかさないで下さい」


「俺がしてぇと思ったから動いたまでだ」


「……したいって……土方さんにとって…私は一体、何なんですか?」



 揺さぶられる感情のままに口から溢れた言葉は、自分でも意外なものであった。


 変に焦り強く髪に触れたせいか、結わえていた栗色の髪が一房するりと落ちて、赤く染まる頬に掛かる。


 それに気付いた土方は背後へ回り、慣れた手つきで赤い組紐の結びを解いた。


「…あ、すみません……」



 未だに上手く結べない更紗の代わりに、男は長い指で栗色の髪を梳いて丁寧に集めていき、あっという間に組紐を巻いていく。


 何故こんなにも色々と世話を焼いてくれるのか気になって仕方がなく、触れられる度に意識してしまっている自分がどうにも歯痒くて。


「……私は、土方さんの何なんですか…」



 期待するだけ無駄なのは百も承知だが、無意識にドキドキしながら、その返答を待っていた刹那。


 土方は更紗の髪から手を離してその曖昧な顔を覗き込み、見透かしたような意地悪な笑みを浮かべた。


「自惚れんな。おめえは俺の小姓でしかねぇよ。ほら、行くぞ」



 大方予想通りの返しであるのにも拘らず、本人から直接言われてしまうと想像以上に精神的ダメージを受けている女心が、そこにはあった。


 好きでも嫌いでもない感情の筈が、心に芽吹く認めたくない情動を胸の奥底へと深く沈め、更紗はツンと素っ気ない態度を覗かせる。


「…そうですよ、私は土方さんの小姓です。それ以上でもそれ以下でもないですからね」



 自分に言い聞かせるように放った言葉は、前を歩く男へ届いたかは分からないが、更紗はその颯然とした背中を一路に見つめていた。

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