窮余の一策

 天下の陰気を吸い込んだような深い闇を照らすのは、生まれて初めて見る恐ろしく赤い立待月たちまちづきだった。


「お兄さん、うちと…二人でイイコトしいひん?」



 その妖しき月光に操られるように紅い唇が弧を描けば、あたかも真正の遊女が客を誘うかの如く淫らに響き渡る。


 土だらけの素足を擦るように前へ進めていた更紗は、男から視線を逸らさないままに自身の着物の合わせへ指先を這わせていく。


 両の手でそれを開くと豊かな胸の谷間が現れるが、挑発的に見える態度のその下に人を傷つける刃の重みを確かめていて。


「ほう、骨ガラと違うて器はもう出来上がってんのか。何処の見世のモンや?」



 嫌らしい目つきで見入る男を焦らすかのように、更紗は扇情的な仕草で落ちてきていた髪の一房を髷に撫で付ける。


 ふと、自分の名を呼ばれた気がしたが、野次馬に囲まれた今の状況では、輪のどの辺りから放たれた声かも分かるものではなく。



「……店なんてありません。…そやし、身寄りのないうちを一晩、買うてくれへん?」


「…惣嫁そうかが新町で売り込むとは……掃き溜めから自力で這い出るつもりか」



 カチャリ、と刀を鞘に収めた男の風貌には、先ほどまで漂わせていた殺気の念はなく、代わりに堅気と変わらぬ下心をその目に宿していた。


「まぁええ、せいぜい安い体使うて楽しませてくれや」



 自分の一番恐れていた抜き身が下げられたのなら、今から仕掛ける勝負の結果は五分五分。


 寧ろ、身体の芯から湧き上がる力を使って、男相手でも引けを取らない戦いぶりを見せる自信はある。



「働きが悪いもんちゃうかったら、わてとこで置いてやってもええぞ…」


「それは嬉しい。行くとこなくて困ってたんです…」



 近づく自分に伸ばす刺青を施した腕との距離が数センチとなったのを見計らって、今度は着物の裾を開き白い太ももを惜しげも無く晒す。


 ニヤリと薄汚く笑い、色欲を滾らせ強く抱き締めてくる男の首へ滑らかに両の手を絡めたら、覚悟を決めた女の戦いは幕を開ける───




「極上のひと時を貴方へ差し上げます」


 そう滑らかに、寄せた唇からその耳元へ吐息を吹き込んだ次の瞬間、女郎は男の急所めがけて躊躇いなく右足を突き上げる。


「……うう…っ!!……痛っ…!」



 何とも言えない感触が膝上をひた走るが、自分に覆いかぶさるようにうずくまる男を力一杯突き飛ばせば、間髪入れずに地面を蹴り出し、駆け始め。


 数秒とかからず詰めた間合いに背を向けると、勢いのままに飛び上がって、その歪んだ顔面へありったけの力を込めて脚を振り抜いていく。


「地獄へ落ちろ…!!!」



 初めて本気で蹴り上げた人間が宙を舞う姿は、さながらその腕の中にいる鯉が自由を得、生き生きと深海の中を泳いでいるようであった。


 しかしながら、山なりの軌道を描く男が視界の端から見切れるや否や、予想外に自身の身体もその暗黒の世界へ真っ逆さまに墜落しそうになり。


「……きゃ…危な……!」



 思わず目を固く瞑り、迫り来る痛みに備えるも、地面に叩きつけられるはずだった腕は引き上げられ、目の前に現れた黒い壁に顔からめり込んでいく。


 浮遊感を失った途端に砕けるような痛みが女の足首を襲うが、落下の衝撃を受け止めてくれたその厚みから覚えのある煙管の匂いが漂うのであり。



「誰でもいい、奉行所の人間を呼んでこい。総司、おめえには仕事をやる。縄を頂戴してやれ」


「分かりました、けど……どっちに縄を掛ければいいのか迷いますね。片や、伸びてるやくざ者と、片や、加減なくとっちめた女郎と」


「つべこべ言ってねぇで早くしろ」


「面白いものが見られたのに、土方さんは頭が硬いなぁ。縄、持ち歩けば良かったですね。廓に置いてあるかなぁ」



 否応無しに鼓膜に注がれる男たちの声を前にして、更紗は目蓋を下ろしたまま、この世の終焉に足を踏み入れてしまったのだと、身体の中で何かが落下するのを感じ。


「………最…悪……だ……」



 顔に触れていた着物の上を滑るように、へなへなとその場へ座り込めば、薄らと開けた瞳の中に沢山の浅葱色の羽織が動いているのをただ呆然と見つめていた。


 沖田が縄を片手に歩む姿も、永倉と藤堂が失神している男の前でしゃがみ込んでいる姿も、原田が満面の笑みで駆け寄ってくる姿も夢でないのなら、もはや絶望の映像でしかない。


 追い打ちを掛けるように、至近距離から見下ろしてくる不躾な眼差しが、現実を通り越して死後の世界で再び美貌の閻魔様の審判を待っているようにしか思えず。



「一体、おめえは何してんだ」


「……み……見逃して下さい……」


 

 咄嗟に出た言葉は余りにも情けないものであったが、真っ白になった頭が弾き出した馬鹿正直なほどの女の本音であった。


 土方へ向けて拝むようにして両の手を擦り合わせ、逃げ出したい一心で後退ろうとするも、ぐっと掴んだ腕を離すつもりはないらしく。


「おめえは、やはり間者か」



 表情一つ変えることなく切れ長の双眸で此方を見据え続けるが、徐々に人の気配が近くに集まれば、土方は呆れたように溜め息を吐き出した。


「……たく、あられもねぇナリしやがって…」



 解かれた腕がだらんと地面へぶら下がる頃、ばさりと頭上から何かが落とされ、否応無しに肩から下をすっぽりと包み込んでくれる。


 更紗は恐る恐る視線を落とし、黒の羽織が掛けられたのだと気付くが、それ以上に自分の姿に顔から火が出るような衝撃を受けるのであり。


「……きゃあ……!!」


 

 慌てて内側から羽織の前を閉ざすも、その中にある自身の着物は辛うじて帯で止まっているだけで胸も太腿も出したままの、非常に際どいものであった。


 捨て身作戦のため仕方ないといえば仕方ないが、それは全員が見知らぬ人であることが大前提、壬生浪士組の男たちに見られたとなったら即死も同然である。


 もうこのまま闇と化した大地へ埋めて貰い、この世界から消えて無くなりたいと思うが、目前で軽快に立ち止まった原田を突き飛ばし現れた女郎が、迷いなく飛びついてきて。



「お更ちゃん!!無事で良かった…!!!」


「……龍さん…!まだ逃げてなかったんですか…?」


「お更ちゃん置いて逃げるなんて…そんな薄情な事できるわけないやんか…!」


「……龍さ……く…苦しい……」


「怪我せえへんかった?ほんま凄い蹴りやったぁ……ほんま堪忍やで……ほんまおおきに…」



 ぎゅっと抱き締めてくれる龍が絶妙な圧迫を与えてくるものの、その回された腕も囁いてくれる声も微かに震え、彼女の心理を代弁してくれていた。


 そんな龍の背中越しにゆっくりと歩いてくるのは、浅葱色の段だら羽織を肩から掛ける不安げな妹とその羽織を貸したであろう穏やかな顔つきの山南。


 常識人の山南が二人に付き添ってくれるほど心強いことはないのだと、張り詰め続けていた更紗の心も、ほんの少しずつ安堵で緩ませることができたが。



「おい、この女郎は誰だ。おめえを唆した張本人か」


「なぁ、この偉そうな男の人は誰なん?顔だけの男は信用したらあかんで…」



 着物にべったりと白粉をつけたまま冷酷に見下ろす侍と自分を強く抱き締めたまま怪訝に見上げる女郎が互いに睨みを利かせること、およそ数十秒。


 暗闇にバチバチっと喧嘩の火花が散ったように錯覚した更紗は、掴みどころのない寒気に襲われ、一人ぶるりと身震いをしていた。


(……この二人は…間違いなく……気が合わない……。)


 

 初対面の女を間者と決めつけ抜き身を向けた男も酷いものだが、初対面の男へ抜き身を向けて殺せと迫った女も大概である。


 案外、似たもの同士なのではと他人事のように考えていたのもこの時ばかり、その後に待ち受けていた怒涛の口喧嘩に、更紗はなけなしの気力を全て持ってかれてしまい。


「……つ……疲れた………」



 ガラガラと重い引き戸を閉め切った更紗は、先ほどとは打って変わり深夜の静けさの漂う京屋の板廊下を行灯の明かりを頼りに歩んでいた。


 いつもの如く引き摺られるように帰宅した更紗を待ち受けていたのは予定通りの辛辣な説教であったが、言葉の刃を受ける盾となってくれたのは、誰でもない数奇な縁で知り合った龍であった。


 身の潔白を説明したところで一人では何の説得力もないものも、ひとたび生き証人として鍵を握る彼女が話し出せば、俄然、真実味を帯びてくる。


 珍しく、土方の怒りから解放された更紗は風呂へ駆け込み、全てを無かったことにするかのように女髷を解き、白粉や紅を湯できっちり洗い落としていた。


「……やっと一人になれた……明日どんな顔して会えばいいんだろう…」



 身なりを元に戻したところで恥は上塗り、どんな恥辱も甘んじて受け入れるしかない未来を想像するだけで、止めどなく溜め息が溢れてくる。


 がっくりと肩を落としたまま閉じられていた襖を開けるが、真っ暗闇のはずの部屋に行灯が一つ灯され、その近くで書状を読み耽る髷姿の男が目に映り。


「……あれ…?土方さん何でここに……新町へ戻ったんじゃ…?」


 

 別れ際の素振りから絶対に遊郭へ戻っていると確信した上で気を抜き切っているのに、まさか最大の敵が居座っているとは、寝耳に水である。


 よくよく見れば自分とお揃いの京屋の浴衣を着用している辺り、すっかり寛ぎモードに入ってしまっていることを悟り、更紗は一瞬で心が憂鬱に乾いた。



「誰かさんのせいで着物を駄目にしちまってな」


「……その節はすみません。反省してますので……」


「それにしてもおめえは風呂が長ぇな。女はそんなもんか」


「……その辺はちょっと分かりませんけど……って。何ですかこれ…!」



 手拭いで濡れた髪を拭きながら部屋の中を歩んでいけば、仄暗い足下でぴったりとくっつけられて敷いてある二つの白布団が目に留まる。


 シンと静まり返った部屋にあるのはそれだけでなく、ご丁寧にも夜食の膳が二つ並べてあり、その意味を考える前に湯上がりで火照った身体がより熱を帯びてきて。



「京屋の女中が気を利かせたんだろうよ」


「…気をって…何の気を利かせるんですか。意味分かんないですね…!」



 更紗は片方の布団の縁を掴み、ズルズルと引っ張って暗がりに消えるように部屋の隅へ移動するが、揺れる行灯の光のせいで身を隠し切ることができない。


 金銭的理由から二部屋しか取れず、且つ一室を芹沢派が占領したため、こうなる事は覚悟していたと言えど、初日から男と二人で夜を越す事態になるとは不運は続くものである。


(……しかも土方さんだし……寝てる間に斬られたらどうしよう…)



 せめて山南がいてくれたら良かったのにと欲が出るが、その場に居なかった芹沢派に怪しまれないようにと、局長が先に始めていた宴へ向かってくれていた。



「市村、足見せてみろ」


「……え、?」


「捻ってんだろう。しょうがねぇから診てやる」



 ぽんぽんと、その手の平で畳を軽く打ち叩いた静かな音は、無罪を勝ち取ったはずの自分に告げる地獄からの呼び出しに聞こえてならなかった。


 それでも、着地に失敗してジンジン痛んでいた足を誤魔化し歩くことしか出来なかった更紗は、言わなくても気付いていた土方の洞察力を少しばかり見直していた。


「……よく、気づきましたね」



 バレたのであればといいや、と引き摺りながら歩いていけば、行灯に照らし出された左の足首は湯の熱も含んで右のそれより膨らんで見える。


 ゆっくりと腰を下ろし、三角座りのまま浴衣と赤い腰巻の裾を少し捲ってみるも、スッと伸びてきた長い指が躊躇いなく足を掴んできて。



「……え、…ちょ……」


「何だ、熱いな。捻って熱が籠ってんのか…」


「……いや、…その…大丈夫、大丈夫です…だから……離して…」



 誰もいないと高を括って素肌に浴衣を羽織ってきただけのため、安易に足を持ち上げられるのはとんでもなく都合が悪い。


 けれども、此方の焦りように気付きもしないのか、肌蹴る二枚の裾を必死で押さえたところで素知らぬふりで足首に触れては回し始め。



「化粧だけでなく髷も解いたのか」


「…そんなの…解きますよ。別に好きで変身した訳じゃないですし…」


「そうかい、傍から見りゃあ満更でもねぇように見えたがな」


「……だから、さっきも言った通り、ただの人助けです。もう一生あんな事はしません…」



 漆黒の闇の中、ぼんやりと灯る明かりの傍で存外穏やかに響く低い声に、女はそれらしい言葉を返すのが精一杯であった。


 優しく照らされた男の浴衣は白から橙へと色味を変え、着崩した合わせから覗く程よく厚い胸板が、鍛えられた男の肉体を意識させる。


(……お願い…早く終わって……)


 

 何とも言えない妙な空気が二人の間を漂い始めたことで、更紗は自然と顔を赤らめ固まるが、土方は堪え切れない様子で口元を綻ばせるのであり。



「何だ、緊張してんのか」


「……そんな事ありません」



 高鳴る鼓動を抑え、少しでも平静を保つ為に視線を逸らして闇を向こう側を見つめていると、男は漸く素肌から手を離し別の何かを掴んだようで。



「まぁ、いい。薬を飲みゃあ一晩で治るだろう」


「……何ですか、これ?」


「代々伝わる家伝薬だ。打ち身や捻挫に良く効くもんでな」


「家伝薬ですか…へぇー…」



 手渡された白い包みをそっと開くと濃い紫色の粉が入っており、物珍しげに見つめていれば、ひょいと湯気の立つ猪口を差し出してくる。



「……何ですか?」


「この薬は燗酒で飲むんだ。一気に流し込め」


「…そんな薬の飲み方聞いた事ないですよ」


「おめえが知らなくてもそうやって飲むんだよ。黙って煽れ」



 更紗は半ば押し切られるように渋々、口に粉薬を含み酒を飲もうとするが、予想以上に熱く、思わず肩をびくつかせ唇から猪口を遠ざける。


(熱っ!!こんなの飲めないし!)


 苦味が広がり、首をブンブン振りながら熱くて飲めないと訴えてみせると、それを見ていた土方は片眉を僅かに持ち上げ手を伸ばしてきて。



「しょうがねぇな。文句言うんじゃねぇぞ」


 取り上げられた猪口で何をするかと見ていれば、何故か目の前で熱い酒に口をつけ勢いよく流し込んでいく。


 放り投げられた空の猪口が畳を転がっていくや否や、ぐっと腕を掴まれ強引に引き寄せられるのであり。


「……ぅ…んっ……!!」



 不意打ちで唇を塞がれ思わず仰け反るも、後頭部に回された大きな手が逃がさないと言わんばかりに押さえつけてきて、思うように身動きがとれない。


 抵抗する間も無く、巧みに打ち開かされたその隙間から注がれる温い水滴が更紗の喉を否応無しに潤せば、口内に広がっていた苦味が緩和されていく。


 ゴクリ、ゴクリと吐き出すこともできないそれを飲み込むと、更紗は薄らいだ酸素を求めるように土方を押し返し、重ねていた唇を無理やりに離した。


「……はぁっ…はぁ……!」



 荒く息をする桃色の唇の端から零れる白濁した滴を男は指で拭おうとするが、瞬時に更紗は手で払い睨みつける。


「……何…するんですか……!」


 

 しれっとした顔つきで転がっていた猪口を手に取った土方は、まるで二人の間には何事もなかったように落ち着き払った様子で手酌を始め。



「飲ませてやったんじゃねぇか」


「……し…信じらんない……!」


「おめえの言う、人助けと同じだろう」



 更紗は少しでもその感触を消そうと手の甲で強く唇を擦ってみるも、逆効果と言えるほどにたった数秒の記憶が鮮やかに脳内で思い出されていた。


(……ちょっと待って……幕末では口移しで薬を飲ますのが常識!?いや、どう考えても非常識でしょ!!マジサイテー!!)


  

 今宵、身に起こった出来事全てが夢であってもおかしくないくらい現実離れしたものであるのに、口内に広がる風味が真実であることを証明してくれていて。


 

「餓鬼は寝る時間だ。まぁ、おめえが女郎っつうなら話しは別だが」


「ガキですから!!言われなくても寝ます…!!!」



 急いで隅に寄せた布団に潜り頭まですっぽりそれを被るが、部屋中に響き渡りそうな心臓の音が体内を駆け巡り全く寝られる気がしない。


 朝まで無事でいられる保証が音を立てて崩れ落ちた今、更紗はよく分からない羞恥と焦燥に襲われ、完全にのぼせ上がった身体を両手で強く抱き締めていた。

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