新町遊郭

 己の命を賭けた戦いに見ず知らずの少女を巻き込むと決めた女の行動は、目を見張るほどに早いものであった。


 自分の部屋へ招き入れ、質に入れる予定だった紫の小袖を更紗に着せるや否や、有無を言わさず柔らかな髪を女髷に結い、その白肌に薄く化粧を施していく。


 男装のままでいいと断ったところで、龍は取り合う様子も見せず、素人の女が花街に入り込む常套手段だと言い切られてしまえば、それ以上、抗う術はない。


「……我ながら上手く出来たわ。お更ちゃん目ぇ開けてみ」



 鼓膜を擽る静かな女の声音に導かれるように、閉じていた目蓋をゆっくり持ち上げれば、仄暗い鏡台には見慣れぬ化粧をした女が映り込んでいた。


 白粉を塗られた顔は素肌と変わり無いものの、顎から下へとべったり塗布されたそれは陶器のように真っ白で、合わせから覗く胸元まで続いていた。


 目尻には濃い赤のラインが引かれ、桃色の唇にはぷっくりとした形に沿って鮮やかな紅が乗せられている。



「……こんな感じやったと思うんやけど…何や、女郎というより御伽草子に出てくるお姫さんみたいやねぇ。綺麗で…苦労知らずに見えるというか…」


「…いや、もうここ最近、苦労しかしてないですよ…」


「そう?ほんなら、苦労知らずいうより世間知らずの方が近いやろか」


「……確かに世間知らずですけど……言い方どストレートですね…」


「どすとれえと?」


「……何でもないです」



 薄ぼんやり映る鏡越しに小首を傾げる龍へ言葉を返した更紗は、動きやすいようにと黒の下着の上から着付けた自身の姿を冷静に見つめていく。


 日が暮れてしまえば、江戸時代では異質となる瞳も髪もその色味を闇の中へと隠し、特徴のない只の女として存在することができる。


 唯一、気掛かりなのは、月光を浴びてしまうと髪色は誤魔化せても色素の薄い瞳の青みまでは眩ましきれず、たちまち好奇な眼差しに捕えられてしまうのであり。


「……さあ、着いたで。泣いても笑うても此処が決戦の舞台や」



 網を張ったように架かる運河の橋を渡り続けて歩く事およそ40分。 


 初めて足を踏み入れた遊郭は四方を高い板塀に閉ざされていたが、その立派な大門を潜る前から、不夜城の顔を存分に露わにしていた。


 水の流れる外堀に架かる橋の上には赤提灯をぶら下げた夜店が通い客を目当てに、十数店舗も狭い軒を連ねている。


 腕を引かれるままに人の波をすり抜けていけば、何処からともなく聞こえる御囃子が女の地獄とも言われる夜の世界へ更紗を一気に引き摺り込んできて。


「……ここが……新町遊郭…」



 蜘蛛の糸を張り巡らせたかの如く道沿いに並ぶのは赤い格子窓の建物であり、その内には逃げることもできず、煌びやかな衣装を纏った蝶が今か今かと餌食になる時を待ち侘びていた。


 そんな見世前で通りがかる男たちは足を止め、楽しげに冷やかしを入れながら品定めしているが、彼女たちと何ら変わらぬ化粧をしている自分もはたから見れば一羽の蝶でしかなく。


 提灯片手に投げられる興味本位の視線や声かけに、つい身を強張らせて龍を見やれば同じく女郎を装った美しい横顔も色のない険しいものへ変貌していた。


(……ここは……女が来るところじゃない……早く、助け出さなきゃ…)


 

 至るところで照らされる光から己を守ろうと目を伏せた更紗は、慣れない下駄で早歩く二つの足音が重なり合うように、激しく乱雑な動悸を胸に感じていた。

 

「……お更ちゃん…多分、此処や…」


 

 ある廓の前で歩む速度を落とした龍は、ぽつりと言葉を吐き捨てると、佇む男たちの背中越しに格子窓の向こう側に座る遊女へ視線を這わせていく。


 更紗も慌てて女たち一人一人に目線を合わせていくが、遠目では全て同じように見え、どの娘が若いのかも直ぐには判断できず。



「……おらへん」


「……え、?」


「女郎の中に光枝がおらへん」


「……だったら…お店が違うとか…?」


「中で客の相手させられてたら…どないしようも…!!」



 握られていた腕を振り解かれた更紗は、呼び止める遣り手婆らしき女に脇目も振らず、揚屋へと上がり込む龍の姿をつい呆然と見送っていたが。


「……ダメだ。見てる場合じゃない……!」



 その年増が入り口で騒ぎ始めた事で、即座に暗雲立ち込める気配を察知し、更紗も続くように目の前の楼閣へ飛び込んでいく。


 が、内部の襖は片っ端から開け放たれ、ある部屋からは肩に襦袢を掛けただけの女が何事かと顔を出し、褌すらつけぬ男が法被姿の男衆に詰め寄っていて。


(……龍さん派手にやってるし……これ…男装の方が潜り込みやすかったんじゃ…)



 既に目に映る世界は阿鼻叫喚そのもの、至るところで男女の頓狂な声が上がるや否や、それが男の罵声に変わり、やがて怒号が飛び交う空間に成り果てる。

 

 更紗は修羅場と化した道のりを進む度に厳しい眼差しを浴びせられるが、不幸中の幸いであるのか女郎の身なりのため、何ら不審がられることもない。


 念のため右手を懐に差し込み、胸下から帯の間に隠していた短刀をお守りのように握り締めていたが、ある仄暗い部屋に龍の姿を見つけた事で手を抜いて駆け出し。



「……龍さん!光枝さんは!?いましたか!?」


「……うちのせいや。うちがもっと早く……」



 暗闇の中、敷かれた布団の上にしゃがみ込んでいた女の後ろ姿を味気ない色味で照らしていたのは、安っぽい行灯の明かりであった。


 向かい合うように座り込んでいたのは、龍から事前に聞いていた年の頃十六の娘には到底見えない幼い顔立ちをした一糸纏わぬ少女の姿。


 無理やり剥がされたであろう美しい蝶の羽は、無残にも周囲に散らばり、もぬけの殻となったこの部屋で直前まで食い殺されていた生々しさを孕んでいた。



(………何て…酷い……。)


 じわり、じわりと更紗の胸の奥底で淀み始めた黒く熱いものが、淡い瞳に映る赤色の残酷な世界を否応無しに歪ませていく。



「……光枝、行こう。お母はんのとこへ必ず帰したげるから」


 取り乱すこともなく少女に襦袢を着せた龍は、虚ろな瞳からぽろぽろと涙を落とす妹をぎゅっと抱き締めると、脇の下に肩を押し当てゆっくりと立ち上がる。


 誰にも気づかれないようにさっと目頭を拭った更紗は、急いで駆け寄ると反対隣に身を置いてその小さな身体に腕を添えた。



 掛ける言葉さえ見つからないその時間は、まるでスローモーションのように遅く、掻い潜る修羅の道が途方もない長さのように思えて仕方なかった。


 放たれる罵倒が誰に宛てたものなのかなど考える余裕もなく、只、縋るように見つめる先には、地獄から解き放たれる一筋の希望の光が差し込んでいた。


 更紗は逸る気持ちを抑え、出口から漏れる赤い光めがけて、慎重かつ確実にその足取りを進めていくが。

 


「おい、ワレ。見世の大切な売りモンを何処へ持っていくつもりや?」


 刹那、地面を這うような男の声を背面から浴びせられると同時に、開け放たれていた玄関を照らす明るい光を遮断するかの如く、別の男が立ちはだかる。



「それだけやないわな。客からケチつけられて払うて貰われへんかった花代、どう落とし前つけてくれるつもりなんや?アアン!?」


「そりゃあ、身を当て込むしかないやろなァ。おい、折檻の準備せえ!」



 着崩された腰帯には案の定、大刀がぶら下がっており、此方を見てニタリと笑う髷姿の男が着流しの袖を捲り上げれば、登り鯉の刺青が見事に刻まれていた。


 カタカタと震えて身を縮こめる光枝を抱き締めた更紗は、前後から詰め寄る男二人を交互に見やるだけで、絶体絶命の状況を打破する作戦など思いつく筈もない。


 底知れぬ戦慄がその背筋を通り抜ける時、意を決して紫の着物に手を突っ込み、固く冷たい短刀を掴んでは震える指先で鯉口を切ってみるも。

 

「……殺せ。そやったら殺せ。殺されにはるばる大坂に来たんや」


 

 キラリと光る刃を天に掲げたのは自分ではない、もう一人の女郎に化けた女。


 ふらり、ふらりと玄関口の方へ歩み始めた龍の紅い唇から紡がれる声は、この世のものとは思えないほど低く、物の怪に取り憑かれたような不気味さを感じさせる。


 

「……殺されに来たって……頭イかれてんのちゃうか…!逝てまうぞコラァ!!」


「これは面白い。殺せ」


 

 怒鳴り声を張り上げて刀に手を掛ける男とは対照的に、能面のような顔つきで薄ら笑う女は気が触れたと思えるくらいには、常軌を逸していた。


 正気を失った人間ほど、恐ろしく厄介なものは無い。


 幾度となく修羅場に立ち会ったであろう破落戸とて、狂気の沙汰に短刀を突き付けられれば、慌てふためきながら後ろへと下がるしかなく。



「…お更ちゃん!光枝と逃げて…!!」


「…え、でも……」


「ええから!!早よう!!!」


 

 金縛りにあったかのように動けなかった更紗だったが、龍の叫び声を耳にした事で一気に身が軽くなり、しなだれる光枝を抱き抱えると、無我夢中で駈け出す。


 玄関にある下駄など履くこともせず、裸足のまま外の世界へ走り出していたが、緊迫した状況下のせいか、地面を蹴る足裏を痛く感じることはなかった。


 背後から追いかけてくるのは龍と、先ほどまで女郎に刃を向けられていた男。


 腕の中にいる光枝は龍よりも小柄な女性であるとはいえ、恐怖から足がもつれる更紗が一人で担いで走るには、体力気力ともに限界があった。


 

「……お更ちゃん…!もう少しや!頑張ろう…!!」


「…もう少し……あと少し…!」


 

 追いついた龍に身体を支えられた更紗は、ばくばくと高鳴る心臓の音を全身に響かせながら、好奇な眼差しの先に見える赤色の大門へと視線を向ける。


 地獄に終わりを告げる距離まであと僅か、手を伸ばせば触れられる位置まで自由が近づくも、その間に潜む闇は果てしない事を知る。


「女如きが逃げられる思うたか。三人纏めて斬り殺してやる」



 人波が蜘蛛の子を散らすように消えて無くなった時、背後に迫っていたのは堂々と歩きながら抜刀する男の姿、ただ一つであった。


 「……い…嫌や……誰か助け……」



 反射的に振り向いた龍の顔がみるみる青ざめ、今しがた見せていた狂気じみた表情から風呂場で垣間見たか弱き女の姿に変わっていく。


 龍の様子から察するに、これまで一度も刀を突きつけられた経験がないのだろう。


 既にこの時代に来てから何度も九死に一生を得ていた更紗は、今が自分にとって生きるか死ぬかの賭けに出る時なのだと、覚束ない心を奮い立たせていき。



「……龍さん。光枝さんと、このまま大門から逃げて下さい」


「…この阿呆!何言うてんの!!一緒に…」


「もう間に合わない。私は大丈夫だから」



 抱えていた光枝を下ろし押し付けるように龍へ渡した更紗は、半狂乱になる女へ微笑むと、覚悟を決めたように刺青姿の男がいる方向へ踵を返す。


「お更ちゃん!!行ったらあかん…!!!」


 

 人は沢山いる筈なのに自分の周りで輪を作るばかりで、誰一人助けに来ない此処にいる男たち全員が地獄へ落ちてしまえばいいと、悪意を込めて敵を睨みつけていく。


(………さて、どうする私。刀を抜いても長さは全然違うし…)



 どう考えたところで短刀を抜くことさえままならない自分が、抜き身を持つ男相手に勝機を掴める可能性はゼロに等しい。


 けれども、不意に浮かんだ命懸けの勝負の突破口、それは敢えて女性であるという弱みを逆手に取り、最大限に利用すること。


 日中は壬生浪士組に身を置く奇妙な女隊士だったとしても、月明かりの下では世間知らずの、飛び立つこともできない廓の蝶にしか見えない。


 赤に塗れた暗晦の世界を照らす大きな月に淡褐色の瞳を向ければ、どくり、と鼓動が跳ね上がると同時に体内で眠っていた衝動が覚醒する───

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