月の隠れる夜に

 紫陽花色の京の町が宵の気配を放ち始めた時、 いつしか空には薄らと白んだ月が浮かんでいた。


 沈んでいく鮮やかな夕陽に照らされ、連なる山々は昨日と同じく茜色に染まっていく。



 急速に温度を下げ始めた部屋の空気は、湧き水のように冷たく澄み切り、唯一、温みのある味噌汁へついつい手が伸びてしまうもので。



「──じゃあ、更紗は異国の血が入っているという訳か?…父がその…えげれす人だと……」


「はい、そうです。母が日本人で父がイギリス人です。と言っても、父に会った事はないんですけど…」


「……そうか……確かに世の婦人とは異なるものを感じたが………そういう訳とは……」



 椀の中でぷかりと浮いていた白い豆腐を口に含んだ更紗は、出汁の効いた味噌汁を啜ると、箸を置いて何やら頭を捻り出す男の顔を静かに見つめていた。


 その強面の容姿に似合わず、明らさまに困った表情を覗かせる近藤は、隣で仏頂面のまま盃を傾ける美丈夫に渾身の苦笑いを送っていた。



「……攘夷を掲げる誠忠浪士組に異人の血を継ぐ者がいるのは……やはり不味いか?」


「だから言わんこっちゃねぇんだよ。いわれを聞く前から何でも引き受ける悪い癖が、こういう厄介事を招くんだろうが」


「…でもなぁ、歳。身寄りのない娘を一人、外へ放り出す訳にもいかんだろう」


「おめえさんの心が痛んで出来ねぇというなら、この俺が一切の責任を負ってやってやる」



 容赦のない辛辣な言葉が閑散とした大広間へ響けば、先ほどまで流れていた和やかな空気すら一瞬にして硬く窮屈なものに成り果てる。


 日中の喧騒は何処へやら、腕によりをかけて作った女の料理を食べてくれたのは目の前にいる近藤一派のみ、彼らと一線を引いていた男たちは誰一人夕餉の刻に現れることはなく。



「……まぁまぁ、土方君。彼女を此処に置くと決めたんだ、我々は円満にいこう。家里殿や根岸殿には折を見て私から話をするから…」


「山南さんよ、問題はそこじゃねぇだろう。奴らなんざ鼻から眼中にねぇが、あの野郎はどうすんだ。水戸の人間は人一倍攘夷に拘ってんだ。女がどうなろうと知らねぇが、此処で下手に恨みを買ってみろ。我慢して足並み揃えてる意味がねぇだろう」


「芹沢先生は大丈夫ですよ。きっとお嬢さんの事気に入ると思うけどなぁ」


「てめえのその軽口の根拠は何だ」


「だって、敵を知るにはまず味方からっていうじゃないですか」


「…総司、それを言うなら、敵を知り己を知れば百戦危うからず、だ。くれぐれも人様の前で間違えんじゃねぇぞ。その恥は近藤さんが掻く事になるんだからな?」


「永倉さんは手厳しいなぁ。そんなの言われなくても分かってますよ」



 むすりと、不貞腐れたような顔つきを覗かせた沖田は小魚の揚げ物を箸でつまむと、躊躇うことなくサクサクと音を立てて食べてくれる。


 更紗はそれを横目に再び椀を口元にあてると、周囲に漂う不協和音を飲み込むように喉元へ流し込んでいく。



 昨日の今日で己の運命が一変してしまった今、彼らの世話役を引き受けるだけで雨風が凌げる家を確保でき、質素ながらも三食あり付ける好条件をみすみす手放す訳にはいかない。


 是が非でも此処に置いて貰わねば生きていけない事は一日生活をしてみて嫌というほどに実感しており、目先で交わされる彼らの一挙一動に身の引き締まるような緊張感を覚えていく。


(……今放り出されたら絶対に死ぬから。せめて生活の仕方を覚えるまでは意地でも下働きで乗り切るしか……)


 

 誰にも気づかれぬようにそれぞれの膳の料理の減り具合を観察すると、思いの外、食べて貰えているようだが、ある方向からの熱視線が突き刺さるように痛いもので。



「──姉ちゃんよ、うめえじゃねぇか。塩で食う揚げ魚もいいが、初めて食った酸っぺえ魚も悪かねぇ」


「……ありがとうございます。酸っぱいのは甘酢に漬けたんですけど、こうすると日持ちするんです」


「じゃあ、この青菜と揚げの香ばしいやつは?初めて食うがやけに醤油が効いてんだな。うめえけど」


「……ああ、それはごま油があったので炒めてみたんですけど、火の調節ができなくて、少し焦げました……すみません…」


「でも、何で米に麦を混ぜて炊いたんだよ。田舎飯じゃあるめぇし白米のままでいいじゃねぇか」


「……それは、食事に栄養がなさ過ぎるからです。麦は栄養価が高いんですよ。お肉もないし野菜も殆どないし……皆さん、よく体力が持ちますね…」



 大口を開けて美味しそうに平らげてくれる原田を見ていた更紗は、自身の膳へと目線を落とし、あり合わせのもので作った一汁三菜の夕食を改めて眺めてみる。


 

 初めて作ったメニューは、揚げたワカサギに塩をまぶしたものとネギと絡めて南蛮漬けにしたもの、壬生菜と油揚げの炒め物、枝豆、豆腐とネギの味噌汁。


 見て分かるように主たる彩りは青、茶、白と、朝にとった食事と何ら見栄えが変わることはない。


(……せめて人参とか、トマトとかさ。卵があるだけでも違うのに…。)



 現代人の感覚からすればそれら全てが物足りなく感じるが、この粗末な台所事情が幕末を生きる人々の常なのか、只、彼らが食に無頓着であるのか判断できないもので。

 


「……あの……できたらでいいんですけど、卵があれば嬉しいです。玉子焼きがあるだけで、朝食が華やぎますし…」


「…あー……明日、俺が買い出しに行く番なんだけど、卵は…無理かなぁ」



 突如、原田の隣から返答があった為、更紗はその横に座る愛らしい顔つきの青年をチラリと見やる。


 朝に味噌と水瓶を運んできていたその男は、夕七つの鐘が鳴り終わると直ぐに夕食準備の手伝いに来てくれ、沖田立会いの下、その場でぎこちない挨拶を交わしていたのであり。



「……すみません、藤堂さん……それは、何故か聞いてもいいですか?」


「うん、いや、そんな大した理由じゃないんですが……この前見た時、一個12文したから人数分は買えないなぁ、と」


「……12文……て、いくらの事なんだろう……」



 時代劇で登場人物が小銭を投げていたシーンを見た事はあっても、投げられたその小銭の貨幣価値を考えた事など、生まれてこの方一度たりともない。


 眉を寄せ知識のない頭で思案を巡らせたところで、何ら思いつくこともなく、仕方なく更紗は枝豆へと手を伸ばすが、その横に座っていた侍が徐に口を開いていき。



「使えるのは一日300文だ。人数分の卵を買ってたらそれだけで殆どの金子きんすが取られちまう。12文で茄子が十買えるなら、そっちを選ぶのが世の道理ってもんだろ」



 その発言から推測するまでもなく、殺風景な部屋や着ている着物の粗末さから、誠忠浪士組にお金がない事は薄々気づいてはいることであった。


「……そうなのですね。それなら茄子10個買いますね…」



 それでも、図々しく食材の希望を述べたのは、慣れない生活の中でする料理がせめてもの自分の楽しみになるかと思ったのだが、居候の身でこれ以上の我が儘が言える訳もなく。


 (……暫く玉子も食べられないのか……)



 思いの外、がっかりしてしまった胸の内から溜め息が漏れてしまうが、それを視界の端に見た侍は、小さく息を吐くと視線を手元に落としたままでいる女を見やり。



「聞く所によると記憶がないらしいが。近藤さんの人の良さに付け入る気でいるなら、今のうちに止めた方が賢明だぜ」


「……人の良さに付け入るとか…そんな事考えてません。確かに屯所へ置いて貰えるのは、行く所がないので有り難いですけど…」


「左之や総司はあの世から来た天女だと舞い上がっちまってるが、俺は土方さんと同じでそうもいかねぇ。婦人の真意を知りたい」



 切れ長の一重から繰り出される鋭い眼差しは、彼の実直さが伺え怖いほどに揺らぎのない力強いものであった。


 更紗は不気味に静まり返る室内に鼓動の音が鳴り響くような動揺を覚えるも、此処で見捨てられる訳にはいかないのだと、碧色から淡褐色へと移りゆく双眸でじっと見つめ返し。



「…私が…人を騙してるように見えますか?」


「……面と向かってそう言われちまったら、男は返す言葉がねぇな。此処は見ての通り、むさ苦しい男所帯だが慣れちまえば何て事はない。俺は永倉新八と申す故、お見知り置きを」


「……ありがとうございます…市村更紗です、どうぞ宜しくお願いします…」


「永倉君が認めたのなら及第でいいだろう。更紗、こっちへ来なさい」



 ほんのりと赤らんだ顔で真正面から嬉しそうな笑みを浮かべている近藤は、少量しか酒を嗜んでいないにも拘らず、大分出来上がっているようである。


「試衛館では新たな門人が来た夜に、近づきの盃を交わしていてな。今宵はそれにならうか」



 ニコニコと笑顔を振りまくその姿に幾重にも巻かれていた緊張の鎖が解け、強張っていた顔が徐々に緩んでいくのが分かる。


(……見ず知らずの私にこれだけ優しくしてくれる近藤さんて……本当に人が良いんだろうな。)



 永倉や土方が近藤をやたらと気に掛けている理由が何となく理解できた更紗は、妙な安堵を胸に感じつつ、その場からゆっくりと立ち上がった。



 天井近くにある虫籠窓から仰いだ空には間もなく夕闇が広がり、あまつさえ大広間に差し込み始めていた月光を飲み込み、人々を闇へと誘い込む仄暗さを辺りに漂わせていた。


 そろりそろりと、畳へ足を這わせていた女は丁髷を結わえる男の傍へ腰を下ろすも、灯された蝋燭の明かり越しに互いを見なければ、細かな表情まで読み取る事も出来なくなってしまい。



「総司が更紗の事を御伽草子に出てくる赫映かぐやなんじゃないかなんて言い出すもんだから、どんなもんだと思ってたが……あながち間違いではないのかもしれんな」



 くしゃりと破顔して見せた近藤はなみなみと注いだ盃を女の目先へ突き出す為、更紗は恐る恐るそれを受け取り、ぱちくりと瞬きをして見せる。



「……あの……私、未成年なので…こんなにお酒を飲むのはちょっと…」


「うん?未成年というのはどういう意味かね?」


「……えっと、未成年というのは、成人していない事で……私のいた時代では二十歳未満は飲酒禁止なんです」



 僅かに白濁した盃から女が目線をゆるりと持ち上げれば、知らぬ間に部屋にいる男たちの視線が一手に集まっていた。



「この世では十五、六になりゃあ、自ずと酒を覚えるもんだが…」

 

「姉ちゃんよ、一体いくつなんだ。まさか十五という訳ではねぇよな?」


「……流石にそれはないです。3月31日で…18歳になります」


「ということは、今日が生まれ日なのですね。只、此処では皆、年初めに一つ年を取るんだよ。お嬢さんが俺より三つも下とは……見えないなぁ」



 クスリと興味深げに微笑む沖田は近くにあった蝋燭を手に取るとその場から立ち上がり、四隅にある行灯へ火を移しては、暗晦あんかいに柔らかな明かりを灯していく。


 それを待ち構えていたかの如くゴーンと鳴る鐘の音が、夜の帳が下りた京の町へ響き渡れば、少し前に教えてもらった日の暮れを実感する事ができるのであり。



「…そうか、今日が3月31日だったんですね。てことは、明日から4月…?」


「そうだよ。暮六つの鐘が今鳴ってるでしょう?だから夜が明けて明六つの鐘が聞こえた途端に、卯月が始まるんだよ」


「……日付って午前零時で切り替わりますよね…?……それに年始めに皆で年を取るっていうのも…よく分からない…」


「年初めが分からないって、何が分からな…」


「まぁ総司、細かいことは明日でいいだろう。更紗の生まれた日なら祝ってやろう。初酒、楽しみなさい。何、酔いが回ればこの色男が介抱してくれるぞ」


「おいおい、易く押し付けるんじゃねぇよ」


「そうは言っても、お前さんの面倒見の良さはこの身を以って知ってるからな。私の為に一切の責任を負ってやるんだろう?」


「……たく、勝手に言ってろ」



 不機嫌そうにそっぽを向く土方の横で豪快に笑う近藤の顔を見つめていた更紗は、此処にいる男たち全員が目に見えない絆で結ばれているように思えて仕方なかった。


 山南と井上が沖田と何かを話し始めれば土方が自然と加わり、傍にいた藤堂や永倉の声が混じり、やがて近藤や原田の大きな笑い声が広間へ響いていく。


(……皆、仲良いんだなぁ。ずっとこんな感じなのかな…)



 素直に羨ましく思うその心の裏で感じる孤独の気配に、同じ部屋にいる筈なのに一人ぽつんと取り残されたような寂しさに襲われていき。


(……人生で一番最低な誕生日だけど。お母さん、何とか18歳になりました…)



 更紗は手にしていた盃の水面に浮かぶ月らしき幻影を見つけると、それに唇を寄せるように、冷たくも温くもない濁り酒を飲み干していく。


 喉が焼けるように熱くなり、さして美味く感じられなかった後味に顔を歪めるも、初めて経験する男たちとの酒宴に、いつしか心が浮遊していた。


 

 そっと見上げた虫籠窓の隙間から宵月を臨むことは叶わなかったが、辺りを包む楽しげな手拍子と陽気な歌声に感化されるように、視界の端に見える灯火が穏やかに赤く舞い揺れていた。

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