弐幕 緑蘿-ryokura-
番茶と煙管
文久三年 四月上旬
前川邸 土間にて
打って変わって斜光の恩恵を受けきれない暗所の一角では、七輪にかけていた鉄瓶から仄白い湯気が立ち上っている。
更紗は乾いた手拭い越しにその取っ手を掴むと、煮出した手作りの番茶を一つの湯呑みへ注いでいた。
「……よし、と。行きますか……」
火種が弱まったのを確認し、湯呑みを乗せた丸盆を手に持ち板廊下を慎重に歩いていくが、幾分かその足取りは重い。
気を紛らわせるように庭先へ視線を這わせれば、まだ一度も話した事のない侍たちが、木刀片手に稽古に励んでいる。
「………近藤先生に持っていくならまだしも……何で私が毎日……」
無意識に女はやきもきする気持ちを口走ると、ある部屋の前で歩みを止め、仕方なくその場へと腰を下ろしていく。
軋む板廊下には朝特有の柔らかな陽だまりができ、澄んだ空気で一呼吸すれば、意を決したようにきっぱりとした声を放った。
「失礼します。朝のお茶をお持ちしました」
「入れ」
「……はい。では、失礼します…」
スッと手を伸ばして目の前の障子戸を開けると、紫煙を燻らせる一人の男の姿が碧色の双眸に映り込む。
ふと、傍に竹籠の荷物をぶら下げる旅装束姿の侍を捉えたため、盆片手に立ったまま戸を閉めると、初めて見るその若者へ自然と顔を向けるのだが。
「やり直せ」
「……へ?」
「盆を置いて戸に向かって正座。真ん中まで閉めたら手を替えて閉め切る」
「……ああ、はい…」
「何度言ったら覚えんだ。聞き分けのねぇ女中はいらねぇんだがな」
冷めた顔つきの男が自分を見据えていた事に気付けば、徐ろに煙管を吸い込み、当てつけのように長く吐き出していく。
女は急速に募る苛立ちをその眼差しに滲ませるが、漂う白煙越しに眉間を寄せ、ひと睨み効かせる色男の威圧に敵うわけもなく。
「……すみません」
即座に土方へ背を向けた更紗は、障子戸に向かって座り込むと湯呑みの乗った盆を左側に置き、言われた通りに戸の開閉をぎこちなく行う。
(……いつも思うけど、ほんと細かいなぁ…。生活指導の先生みたい。)
人生最悪のタイムスリップから早五日が経ち、少しずつこの時代の作法を教えられていたが、存外この男だけが間違いを指摘しては小煩く注意してきていた。
「──で、話しに戻るが。いらねぇ問題は起こしてなかったか?」
「……僭越ながら申し上げますと、両替商の平野屋五兵衛より強引に金百両を拝借しました」
「両替商からねぇ……
「それが大坂の本両替だそうで、幕府公用の十人両替にも選ばれたとか…」
「幕府御用達が災いしたっつう訳か。その男も運がねぇな……たく、其処までして誂えてぇもんかね」
更紗は息を吐いて煙管を咥える土方の真正面に立つと、再び腰を下ろして畳に置いた盆から湯呑みを取り、文机と呼ぶらしい長方形のローテーブルに移していく。
いつ運んでも湯気が上がる淹れたてのお茶を飲んでくれる事はなく、ある種の嫌がらせではとネガティブに考えてしまうほど、この憎き男に近寄りたくはない。
日に何度か呼ばれるたびに所作を細かくチェックされているように感じる手厳しい眼差しには慣れてきたものの、今日に限っては直ぐ横から突き刺さるような鋭い視線を感じる。
「……何…でしょうか…?私の顔に何か付いてますか…?」
耐えきれず更紗は旅装束の侍をチラリと見やるが、笠で潰れた前髪が顔にかかっているその青年は思いの外、若く、驚きとも戸惑いとも取れる曖昧な顔つきで自分を見つめていて。
「……土方副長、この女は…一体…?」
「近藤さんが雇った女中だ」
「……しかし、この女……異人では…?」
「半分はそうみてぇだな」
「……この事を、その…会津藩には…?」
「言うわけねぇだろう」
更紗は矢継ぎ早に会話を続ける男たちの顔を交互に見ながら、二人の間に流れるちぐはぐな空気感に、そそくさとこの場を立ち去ろうと盆を手に取り、立ち上がる。
悪戯に鼻腔を擽る煙管の匂いは、過去によく触れていた煙草の苦いそれとは違い、線香を彷彿させるような心落ち着く香りであったが。
「……無礼を承知で申します。屯所は女人禁制だと決められた手前、芹沢先生の許可なく女を置くのは少々事が過ぎるように思います」
「何だ、納得いかねぇか」
「ましてや、嘆願してお預かりになった身……申告なく異人を匿うなど、誠忠浪士組としての信頼を失うばかりか、会津藩の名に傷がつく可能性も…」
「斎藤、おめえの言う事は正論だが、近藤さんが決めたんだ。武士に二言はねぇんだよ」
ふぅ、と再び白煙をゆっくりと吐き出した土方は、取っ手のついた煙草盆を引き寄せると煙管に溜まった灰をその中へ落としていく。
「お務めご苦労。下がっていいぞ」
畳に手をつき土方へ向けて深々とお辞儀をする青年を横目に、やきもきする気持ちが胸一杯に広がっていくが、それを押し込めるように女は無言で踵を翻す。
歴とした日本人なのに異人だと敬遠される不条理に耐性がついたとしても、やはり目の前で自分の存在を否定される言葉を聞かされるのは、心が闇雲に落ち込んでしまうものであるのだが。
「おい、誰が下がれっつった」
「……へ?」
「おめえは残るんだよ」
背後から聞こえた淡々とした声の方へ恐る恐る顔を向ければ、細面の端正な顔が僅かに目を細め、こちらを一瞥する。
「……芹沢が戻るとなりゃあ、どうするか……」
侍か自分のどちらに声を掛けたか分からなかったものの、旅装束の若者が抜き取っていた刀と菅笠を手に持ち、戸へと向かうため、更紗は止むなく身体を反転させていく。
灰を落とし終えた煙管を文机にある引き出しへ仕舞う土方は眉間を寄せ、何やら物思いに耽っているように見受けられたが、不意に切れ長の双眸を持ち上げ、ぎろりと見やるのであり。
「おめえさんはいつまで此処の世話になるつもりだ」
「……え、…いつまでって……」
「あの世とやらに戻れるまでと…近藤さんに話したらしいが、戻れなかったらどうする。まさか、ずっと面倒かける訳じゃねぇだろうな」
ドクリ、と鼓動が波打ったのは、その男の突き放すような言動に不安を覚えたからなのか、浴びせられた冷淡な眼差しに身が竦んだからなのか。
激しく錯綜する頭の中で直ぐに答えを導き出すことは出来なかったが、日毎に色濃くなる懸念に怯える心が見透かされたように思え、ばくばくと胸が張り詰める。
「……それは……ちゃんと一人で生活できるように…なったら…」
この五日間、時間を見つけては八木邸へ行き、何かしらの手がかりがないか隈なく探索したが、何をどう探していいかも分からないほどに追い詰められていた。
途方に暮れる中で徐々に胸懐へ巣食っていったもの、それは万が一にでも元の時代へ帰れなかった場合の恐怖であり、見知らぬ幕末の時代でどう生き抜けばいいのか考えるだけで地に沈み込むような絶望を味わっていて。
「ほう、どうやって一人で生活するんだ」
「……どうやって……取り敢えず、働けるところを探します…」
「障子戸一つ満足に開けられねぇのにか」
「それは……頑張って覚えます。雇って貰えるところがあるなら何でもしますから…」
「雇って貰える所ねぇ……女が身一つで生きる生業なんざ、知れてるだろうに」
文机の引き出しから深緋の小袋を取り出した土方は身を屈めながらゆらりと立ち上がると、粋に着崩した着流しの袖口にその袋を入れ込んでいく。
慣れた手つきでいつぞや向けられた大刀を角帯に通していくため、女は距離を置くように後退るが、まるでその態度が不服かと言わんばかりに殺しの流し目を送られ。
「町へ出る。付いてこい」
「……え、…町……?」
「おめえの望む働き口があるかどうか、その青か茶か分からねぇ目で見りゃあいい」
更紗は悠然とした足取りで横を通り過ぎていく土方を視界に捉えながら、思いがけず軟禁状態であった屯所から出られる機会を手にし、驚きで息が止まるような心地を感じていた。
「……え、と……」
これまで食材の買い出しに自ら行かせて欲しいと申し出ても、無論、秒殺で却下してきた男と同一人物とは思えないほどの気の変わりようである。
(……町に行けるのは嬉しいけど。何を考えてるんだろう…)
結わえられた男の黒髪がその広い背で揺蕩うように、収拾のつかない更紗の胸の内も揺れ動いて止まらず、そわそわと浮き足立つものであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます