壱幕 異花-kotohana-

花散る里


平成二十八年 三月三十日 春曇り 


京都祇園一角


市村家墓前にて




 穏やかな風が墓石の立ち並ぶ境内に吹き込む時、一人の少女が深々とお辞儀をし言葉を紡いでいた。


「今日はお忙しい中、お集まり下さってありがとうございました。無事に納骨を済ませることができ…母も天国で喜んでいると思います」



 頭上で儚げに咲くのは、何百年と歳月をかけてこの地を見守ってきた斜陽の桜の老樹。


 ゆっくりとその息吹を散らす下で顔を上げた少女は、碧色の双眸を緩めて、痛々しくも安堵を覗かせる微笑みを周囲に向けた。



「…更紗さらさちゃん、今回の件は不幸が重なるいうか……えらい難儀しはって…」


 淑やかな和服姿の女は本音をこぼせば、心配げな顔つきで目前の少女を見つめる。


たかひな姉さんが逝ってしまった事だけでも辛いのに、あんな濡れ衣を着せられてしもうて…あんた……ほんまに大丈夫なんか?」



 その言葉に苦笑を浮かべるしかない更紗の様子に、見かねた白髪の和服女性が静かに口を開いて。



「……イギリスへ留学すると聞いて驚いたけど……良い機会やと思うわ。渡辺さんの計らいで高校は卒業できる事になったんやろ?」


「……はい。休学のまま卒業させて貰えることになりました。後見人として、話し合ってくれた渡辺のおじさんには感謝してもしきれません」


「……あんた、相変わらず未だおじさん呼んではるんやなぁ。今更、お父はんとは呼ばれしまへんか。今日は来られへんで残念どした。お見送りしたかったろうに」


「仕事なので仕方ないです。また後日、一人で訪ねるそうなので、その時はよろしくお願いします」



 改めて女達へ向けて頭を垂れた少女は、三年間の時を共に過ごしてきたチェックのプリーツスカートをその瞳に捉える。



 数ヶ月ぶりに袖を通した制服はクリーニングに出されていて、いつでも学校へ着て行けるようにクローゼットに仕舞われていた。


 恐らく母の入れ知恵で、幼い頃から知る血の繋がらない男性が、喪心そうしんの自分の代わりに便宜べんぎを図ってくれていて。



「……卒業式、出られへんで残念やったなぁ……苦労して育てたんや。孝ひなも楽しみにしてたろうに…」


「……そんなん、うちらが姉さんの代わりに見届けてあげたら宜しいやんか。今の更紗ちゃんにそない言うのは酷と言うもんどす…」


「女将さん、孝まりさん、ありがとうございます。私は大丈夫です。この場が私の卒業式ですから」



 鼓膜に届く言葉にじわりと目頭が熱くなった更紗は、涙を散らすように息を吐くと、背後にいた老夫婦へかかとを返して向き直る。


 はらり、はらりと薄紅色の花弁が舞い落ちる中、白髪交じりの男女は、その姿をただ優しく見守っており。



「これまで本当にありがとうございました。母も私も、楠木さんには大変お世話になりました」


「そんな他人行儀なこと言わへんとき。サラちゃんも薫ちゃんも大事な家族や思うてる」


「そうや、サラはうちの娘や。いつでもここに帰ってきなさい」


「……うん、ありがとう」



 森閑とした境内に響く湿った声は、頬を撫でる生暖かい風によって桜舞う天上へとさらわれていく。


 日溜まりに佇む更紗は柔らかく霞む空を見上げ、今は亡き母へその想いを馳せた。




 老夫婦に薫と呼ばれた女性は、6年前まで京都祇園で芸妓をしていた孝ひなのことであった。


 二十歳で更紗を産み、女手一つで育ててきたが、その際にお世話になっていたのが、この楠木くすのきの御夫婦である。



 近所に住んでいた楠木家は、代々続く居合道場を営んでおり、ご子息の央太おうたと更紗の年が近いこともあって、よく面倒を見るようになっていた。


 その関係は、薫が更紗を連れて事実婚の男性と東京暮らしをするようになっても変わらず続いており。



 お盆が来れば親子で京都の楠木家へ帰省し、一つ年上にあたる央太が東京の大学へ進学した際は、更紗たちが住む都内の自宅を下宿先とした。


 不運にも薫が末期の癌に侵され治療を受けていた間も、居候の央太は家族のように市村母子を献身的にサポートしていた。



「……さて、と。そろそろ行こか」


 墓前で手を合わせていた茶髪の若者が立ち上がると、普段と何ら変わらぬ様子で手首に巻いた時計へ目線を落とす。


 幼少期から兄妹のように育ってきた間柄ゆえ、その小ざっぱりとした言動に悪意がないのは十分に理解しているのだが。



「もう、央太! 何であんたはそんな軽いの!もうちょっとサラちゃんの気持ちを考えなさいよ」


 ピシャリと叱る楠木の叔母の姿にありふれた日常を思い出し、更紗と叔父は目を合わせて小さく微笑み合う。



 良く言えばポジティブ、悪く言えば楽天的な央太に振り回されることもあったが、常に明るく接してくれる性格を、この時ばかりは感謝していた。



「あの…私、少し寄りたいところがあるので行ってきます。そんなに遅くはならないので…」


 ひんやりと冷え始めた墓地を出たところで、更紗は隣を歩く楠木の叔母へ声をかける。


 静けさの漂う寺院から一歩外に出るだけで、先ほどまでとは打って変わって、祇園の街は妖艶な雰囲気をかもす空間へと姿を変えるのであり。



「え、今から?陽も落ちてきた事やし明日にしたらどう?」


「つうか、こんな時間からお前一人でどこ行くねん」


「いや、ちょっと生まれ育った街を眺めたいなぁ、と思って…」


「そんなん明日でええやんけ。どうしても言うんやったら、俺も付き合うけど…」


「ううん、大丈夫。四条大宮まで歩いたらすぐ帰るから安心して。夜ごはんの時間までには戻る!」



 怪訝な顔で見下ろす央太の眼差しを振り切った更紗は、ニコリと笑って手を振ると、踵をひるがえして歩み始める。


 場違いな制服から覗く長い手足を軽やかに動かせば、通りがかる通行人はその姿を目で追い、気付かれぬうちに視線を戻していく。



「……孝ひなに似て綺麗になってきたなぁ…違うのは目と髪の色か。白い肌もお父さん譲りやね。…可哀想に、せんでもいい苦労しはって…」


 凛とした背中を見送っていた女将が堪らず本音を漏らすも、行き交う観光客の雑踏に掻き消されていき。


 ぽつり、ぽつりとつき始めた町屋の灯籠とうろうは、天から注がれる淡い陽射しの所為で、未だその美しき佇まいを見せることはなかった。

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