第16話
その翌日、僕達のトリオは再会した。犬が国許から帰ってきたらしく、王の号令で三人はまたダーツバーに集まった。
僕がダーツバーに着くと王はまだ着ておらず、犬がボックス席でコロナビールを飲んでいた。僕も同じものを注文して席に座った。
「やぁ、久しぶり」
「ああ、久しぶり。レクサス何度か乗らしてもらったよ」
僕はキーを犬に帰した。
「別に持っていても構わないよ。これからは里に帰ることも多くなるから、折角車を買っても使う機会が無いんだ。車も動かさなけりゃ模型と変わりないだろ」
そう語った犬は、もう別人に変わり果てていた。
髪の毛は襟足ともみ上げが刈り剃られ、髪の毛は一目で人工的な色だと分かる程、黒過ぎるぐらいに黒く、青みがかかっているようにさえ見えた。服装も今までのだらしの無いものではなく、白いワイシャツにチノパンという、フォーマルを装った服装だった。しかし変わったのは外見じゃなかった。今までの浮雲のような軽さや、風に吹かれるままにといった気質はすっかりと抜け落ち、堅苦しく神経質そうな、隣に座った人間さえも気分を害しそうな空気がピリピリと伝わってきた。
どうやら里帰りで洗脳教育でも受けてきたらしい。あれほど型に嵌ることを嫌っていた男が、こうまでもアイロンをかけたYシャツのように、ぴっしりと折り目正しく、規律正しくなるなんて、それこそ拷問のような教育を受けたに違いなかった。愛情省の一〇一号室が実在しているようだった。
「で、その傷はどうしたんだ?」
僕はそんな判を押したような規律正しい人間には似つかわしくない左頬の痣、唇が切れ赤くはれ上がった部分を指して言った。犬はその部分を震える手で触れて「これか?」と、自嘲気味に言った。
大体の答えは予測がついていた。
「昨日、携帯電話の話をしたら、あいつに殴られてさ。別に怒ったわけでも、責められたわけでもないんだ。ただ、僕が壊した携帯電話を弁償するからと言ったら殴られたよ。そういう問題じゃないもんな。本当に情の厚い奴だよな」
「ああ、全くだ」
「俺には墓場まで持っていく勇気がなかったよ」
「告白して謝罪するほうが勇気のいることだ」
「そうか、何となく心が軽くなったよ。なぁ、どうだろう、俺、少しはまともに見えるようなったかな?」
「ああ、まるで別人だ」
本心からそう言った。今まで彼を彼たらしめていた全ての要素は、その髪の毛のように別のものに染まりきっていた。
もうあの時の、僕達が何か脆弱なもので繋がっていた時の彼は、永遠に失われてしまっていた。世の中ではそれを成長と呼ぶのだろうか、それが前に進むことだと、だとしたら僕は永遠に成長できないし、前に進めないだろうと思った。そうやって一人ぼっちになっていくのだろうと。
「おお、待ったか?」
この暑苦しい時に、更に暑苦しくしてくれるようなダークスーツを着込んだ王が、これまた暑苦しい大声でと笑顔で着席した。
「遅かったな?」
「ああ、内定者の集まりに顔を出していたんだ」
「じゃあもう決まったのか?」
何も聞かされていない僕は尋ねた。
「ああ、証券会社にしたよ」
自信満々に言い放ち、その表情に溢れんばかりの情熱で漲っていた。日焼けができそうな程に。僕は今直ぐにでも着ているTシャツを脱いでしまおうかと思ったぐらいだった。
「素直におめでとうと言うよ」
僕達はコロナビールで乾杯した。しかし久しぶりに三人で集まったと言うのに、会話は何一つ弾まずに、ただその場を流れ、再会は味気の無いものになってしまった。
王は大声でこれから自分が働く証券会社のことや、将来の自分の展望なんかを意気揚々と語った。その勢いはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いといったもので、追い風を受けて空高くに昇っていこうとする王の姿がありありと見て取れた。いつもなら茶々を入れ皮肉を言う犬は、ただただその姿に圧倒され、嫌気の色すら浮かべて、それを右から左に聞き流し、時折眠った人が顎を外されたような相槌を入れていた。
当の僕は少しで上手く場が進行するように、いつもよりも多く喋ってみたり、下らない冗談なんかも言ってみた。犬に質問を振ってみたり、変わりに王に皮肉を言ってみたりしたが、全くの不発でしかなかった。湿った導火線にいくら火をつけたところで、着火するわけが無かった。こんなに味の無いビールを飲んだのは初めてだった。これならまだしょんべんの入っているカクテルを飲むほうがマシ、そうとさえ思った。
途中で気分転換にダーツでもやらないかと提案してみたが、犬がそんな気分じゃないと言ってやんわりと断った。そういえば王は一度もあの馬鹿みたいな、がははははと言う笑い声を上げていなかった。
僕達はそれぞれが別の台本を呼んでいるように、何もかもがかみ合わず、ちぐはぐで、初めて出会った時の様に余所余所しかった。
いや、僕達はこの時初めて出会い直したのだ。変わってしまった犬と、上りつめようとする王、僕だけが同じ場所にぽつんと腰を下ろし、先に進んでいくのを眺めていた。
結局、僕達はコロナビールを三本ずつしか飲まずに店を後にした。誰が出ようということも無く、示し合わせたようにそこで店を後にしたのだ。
僕達はもうばらばらだった。
心が通っていた時に別れを言わなかったことを僕は心から悲しんだ。
今更さよならを言ったところで、それは何の意味も持たない言葉だった。浜辺に書いた文字のように、誰にも見つかることなく波に浚われてしまう。
帰り道、一匹の地に落ちた蝶を見た。
羽をぴくぴくと動かした蝶の周りを蟻の群れが取り囲んでいて、動けなくなった蝶を餌にしようと総出で働いていた。これから来る冬に備えるために、昼も夜も構わずに働いているのだろう。キリギリスとなった僕は、その光景を見ても何も感じることができなかった。
ただ、これが全て蝶の見た夢であればいいと、あの地に落ちた蝶が目を覚ましたとき、それが僕であればいいと心の底から願った。
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