第15話

 影から電話がかかってきたのは、その二、三日後だった。恐らく部屋でレイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を読んでいた時だと思う。外はもう暗い帳に覆われて静まり返り、部屋の中ですら沈黙が幅を利かせていた。


「今からヴィクターズに来てくれ」


 開口一番に影はそう言った。僕の溜息は沈黙が優しく受け止めてくれた。


「分かった」


 僕はそれだけ言って電話を切った。デニムのハーフパンツとTシャツを着て、飲みかけのハイネケンをシンクに流して、ナイキのバスケットシューズを履いて外に出た。

 熱気の激しい夜だった。誰かが地下で風呂釜を焚いているように、暖かい湿気が体に纏わりつく。歩いて五分もしないうちに僕の体を汗が流れ始めた。八月の最後の週は熱帯夜が続いていた。

 そう言えば、この年は老人のミイラが都内で相次いで発見された年だった。ちょっとした現代の怪談だ。即身成仏するには都合のいい時代なのかもしれない。日本国内には四万人以上のもの百歳を超えた老人が暮らしているらしいが、実は生存を確認でき来ているのはその半数にも満たないらしい。この風呂釜を焚いたような暑苦しい熱帯夜の中で、多くの老人が孤独に包まれて死んでいき、暮らしていた我が家を棺桶に変えていると思うと、死者の吐息すら聞こえ、死者が手薬煉を引いて暗い闇の中に引きずり込もうとしているんじゃないか、そんなことすら考えてしまった。

「ヴィクターズ」の地下の扉を開けると、影は既にバースツールに腰をかけてギムレットを飲んでいた。僕が隣の席に座ると、影は僕を見ることもなくギムレットを飲み干した。


「ギムレットを二杯」


 僕に尋ねもしないで影は注文した。マスターに視線を向けると、マスターは首を横に振ってどうしようもない言うポーズをした。


「いつから飲んでいるんだ? 僕に電話をしたときもここに居たのか」

「ああ、そうだよ」


 影が答えずにマスターが答えた。影は黙ったままだった。僕は仕方なくカクテルが来るのを待った。酒が無ければ話せないのだろう。店内には相変わらず、アブサンを飲みかけの状態で眠りについている老人しかいなかった。例によって黄色のリキュールを隣の席に置いている。恐らく夢の中でその人物と会っているのだろう。一体どんな会話をしているのか、僕はそんなことを考えて気を紛らわせた。

 僕らの前にカクテルが置かれると僕と影はグラスを交わした。僕は湿らす程度にカクテルを喉に流したが、影はそれを水のように飲んだ。


「もうおしまいだよ」


 グラスを置くと、影はそう漏らした。


「まだ始まっても無いだろう」


 影は笑った。その笑い声には、恨み辛みといった怨念が込められていた。ざらざらした舌で舐められているような不快感が背を撫で、頭の中で蛇がのたうった。


「そうか、始まってもいなかったのか。結局のところ蝶の見た夢だったって訳か」


 話し方がやけになっていた。自虐的で自嘲を浮かべている。もはや僕の知っている彼はどこにもいなかった。脳の皺の一つまで蛇に唆されて、彼という人間性の全てが失われていた。


「女なんて星の数ほどいるだろう」


 月並みな言葉を投げかけてみた。


「いないさ。僕にとってはたった一人の人だった。彼女のために僕は全部を失ったんだ」

「何も失ってやいないさ」

「いや、失ったんだよ。僕は」


 僕は顔色を変えた。影の表情が真に迫っていたし、絶望というものを彼は体現しすぎていた。


「どう言う意味だ?」

「財務省への入省が流れたんだ」


 僕はバケツの水を浴びたみたいにびっくりした。


「何故?」


 僕は就職活動なんてものを全くしていないから、この就職氷河期の事情などは露程も知らず、むしろ興味もないが、内定の取り消しなんてものはそう簡単にできるものじゃないはずだった。経歴の詐称や虚偽記載、それか犯罪でも起こさない限りは。僕は影を睨みつけるように強く見つめた。


「もう、全て終わったことなんだよ」


 影は白状するように言った。箍が外れたように言葉は零れ落ちた。真夏の通り雨みたいに。


「たった一つの物が欲しくて、僕は全てを捨てる覚悟があった。でも、そのたった一つの物さえ、手に入れることができなかった。蓋を開けてみれば、そこには後悔と絶望しか入っていなかったんだ」


 影が我々の大学内で一番の出世株であることを、僕は出会ってから大分後に知った。小中高と一環となった一流の学校をエスカレターで上がり、高校の時には全国模試で何度も一番になったこともある、秀才を飛び越えた天才で、紛れも無い神童であり、二十歳を過ぎた後も尚、超人として君臨していた。しかし影にはそれをひけらかす所が全く無く、多くの人間を見下し、恨んでさえいたが、それでも自分が優れているとは思っていなかった。そんなところが僕は気に入っていた。しかしその常にエリートでいることの重圧がどれほどのものか、僕には想像もつかなかったし、それだけの期待と羨望を一身に背負った影が、僕達俗人とは別の舞台で、別の重力の下で生きていることを、僕は深く考えることがなかった。エリートに失敗は許されない。彼らのような人種に失敗という文字は存在していないのだ。辞書の中から抹消してしまっている。不可能がないと言ったナポレオンのように。それが世の中を動かす一パーセントの人間に与えられた柵であり、特権であり、罪なのだ。

以前将来の話になったときに、影はそれがさも当然のことのように言った。


「官僚になるよ、それも財務省のね。そのためにこの大学に入ったんだ」


 自分の生まれてきた意味さえも、彼は既に知っているようだった。その時の影は僕から見ても達観していたし、もしかしたらこの世の真理すら掴めているのではないか、そんなことすら僕に思わせてくれた。

 だが、今は大きく肩を震わせて弱った子牛のように啼くことしかできなかった。水に濡れた犬のようにさえ見えた。


「僕を愛していると言ってくれたんだ」


 影は空のグラスを口元に運んでそれを飲み干そうとした。空っぽであることに全く気がついていなかった。僕は黙っていた。グラスを叩きつけるようにカウンターに置いた。


「それなのに、それなのに、何故彼女は嘘をついたんだろう。僕のことなんか知りもしないなんて」

「それで?」

「それで? それだけだよ。僕のことなんて何て知りもしないなんて、何でそんな嘘をついたのか。ともかく、僕は全部を失ったんだよ」


 影は泣いていた。今にも崩れ落ちそうに振るえ、大粒の涙を空のグラスの中に零した。なんと小さく見えただろうか。薄っぺらく、中身が無く、ただただ哀れで矮小な男が、肩を震わせて泣いていた。僕は腹立たしくさえあった。彼を思い切り殴ってやりたいぐらいに。人を殴りたいと思ったのは本当に久しぶりのことだった。僕の手は震えていた。もう殴り方すら忘れてしまっていた。


「なぁ、今からだって就職先はいくらでもあるだろ、とにかく動くことだよ。動いていれば気もまぎれるだろ」

「国許に、父と母になんと言えばいいんだ。頼むから何も言わないでくれ」

恨めしそうに耳障りな声で言って影は黙った。僕も黙るしかなかった。最後に影は懇

 

 願するように僕を見つめた。


「ティファナまで送ってくれないか」


 僕は力なく首を横に振ることしかできなかった。

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