第14話

 その週の土曜日に僕は彼女と出かけた。

 犬が遺産のように残して行ったレクサスの助手席に彼女を乗せた。


「凄い車持っているのね。もしかして家はお金持ち?」

「まさか、家は貧乏だよ。食うには困らなかったけど。これは友達から借りたんだ」

「ふーん」


 彼女は車内をキョロキョロと見回した。


「どこへ行くの?」

「秘密」

「秘密主義なのね?」

「そう見える?」

「見えるわ。だってあなた自分の話をぜんぜんしないもの」

「自分のことを語る言葉を持っていなんだ」


 彼女の姉にした話を、妹である彼女にもした。何度も同じ話を、しかも姉妹に向かってするのは気が引けたが、これ以外に返す言葉は無かった。自分のことを話す場合の語彙は非常に限定されているのだ。


「分かるわ、言葉がなくなっちゃうのよね。私も言いたいことに限って言葉が喉の辺りに引っかかって、それ以上前に進まなくなっちゃう。だからいっつも損ばかり」


 どうやら似たもの同士のようだった。


「損して得取れだよ」

「肝に銘じる」


 彼女は嬉しそうに言った。


「ねぇ、さっきから流れているこの曲は何?」

「ああ、ライフラインってアメリカのバンドだよ。この車内ではこのバンドの曲以外かけちゃいけないことになっているんだ」

「いいバンドね、何だか落ち着くな」


 モンロー・ウォークは今日も何を言っているのか分からない歌い方で、人生は続いていくのさ、嫌でもねと、何度もリフレインしていた。しかし今日のモンロー・ウォークは、いつも以上にノッているような気がした。何か僕の手を引っ張っていくような、そんな力強さが感じられた。僕は彼女に歌詞の説明や、バンドにまつわるゴシップなんかを聞かせた。彼女はバンドが気に入ったようで、自然と鼻歌を歌い始めた。

モンロー・ウォークは立ち止まるなと叫んだ。僕は言われた通りに車の速度をぐんぐん上げた。道路がすいているお陰で車は気持ちがいいぐらい滑らかに進んでいく。


「ちょっとスピード出しすぎじゃない」

「立ち止まるなって言われたろ」

「それは人生の話で車の話じゃないわ」

「確かに」


 それでも僕はスピードを緩めずに車を先へ先へと進めた。

 今日は白バイに捕まっても良かった。


「凄い綺麗なところね」


 一面の向日葵畑を前に、彼女は目を輝かせて言った。その表情だけでここへ連れてきて良かったという気持ちになれた。そういうことを思わせてくれる女の子って、世の中には以外に少ないものだ。

 僕達は黄色と橙が地平線まで続く花畑を並んで歩いた。


「いつも女の子をここに連れて喜ばせるのね」


 彼女は意地悪く言った。


「まさか、花を見る趣味なんてないし、女の子とここへ北の初めてだよ。正直に」

「本当かしら?」

「神に誓うよ、神がいればだけど」

「信じるわ」


 彼女は笑いながら言った。

 僕達は下らないおしゃべりをしながら、花畑の中を縫うように歩いていく。彼女は自分の身の上話を特に感情もこめずに語り、僕はそれを黙って聞いた。複雑な家庭環境というものは、複雑な子供を育てるという連鎖があるらしいが、彼女にもそれが当てはまっているというのが僕の見解だった。

 僕は普通の――何をもって普通と言うかは人それぞれだが――父がいて、母がいて、兄弟がいて、住む家があって、食うものに困らない家庭環境で育ったが、複雑な人間に成長してしまった。

 

 もしかしたら世の中の全ての人が複雑なのかもしれない。

 

 以前精神病の検査のようなものを受けたことがある。大学の授業の一環で、現役の臨床心理士が実際に精神病患者に行う検査を僕達大学生ににも披露してくれた。

 その検査の結果、僕は三つの精神病を抱え、反社会性人格障害に当てはまり、車の運転は絶対にしないようにと診断された。そして極力一人でいないようにとも。僕はそのことで随分気落ちした。今までの人生を、自分のアイデンティティを否定されたような気持ちになった。思想調査が行われれば、僕は直ぐにでも思想警察に捕らえられてしまうだろう。しかし結局の所、今の複雑な社会を生きている人間の多くが、心に暗い影のようなものを抱えながら生きているのだという結論をこじつけの様に与えて、それを一つの救いにした。そうしなければ、僕は気が触れてしまっていたと本気で思っている。

 彼女からも、それと似たような雰囲気が感じられた。無理やり東京に、逃げるように出て来なければ、おかしくなっていたと彼女はその話の中で語った。


「ねぇ、神様を信じていないの?」


 僕は少し考えるふりをした。蜂が羽の音を響かせながら花粉を運び、蝶はその更に上を気ままに羽ばたき、足元では蟻がせっせと働いていた。


「この目で見たもの以外は信じられないんだ。残念ながら、神様も幽霊にもまだ出会ったことはない」

「ふーん、じゃあ天国も地獄も信じてないんだ」

「天国なんて存在しないよ。あんな全ての人が許されて手を握り合うなんて御伽噺は信じられない。人はただ死ぬだけだ。でも地獄なら知っている」

「どこにあるの?」

「ここだよ」


 僕は自分のこめかみを人差し指で軽く押して言った。


「僕達の中に地獄は存在している」


 彼女はその続きを僕に求めた。


「世の中で起きている悲惨で凄惨な出来事は、全部僕達が行っていることばかりだ。親が子を殺し、子が親を殺し、物を盗み、女性を強姦し、子供を虐待する。肌の色が違うだけで差別し、奴隷として働かせ、主義主張の違いで戦争を繰り返す。豊かな生活を続けるために貧しい国、弱い国を侵略して、爆弾の雨を降らせ、最終的には核爆弾で街ごとドカン。今だって分断された国家に、民族紛争、資源欲しさの侵略でニュースは溢れかえっている。これが地獄じゃなかったらなんなんだろう? 結局のところ、僕達の頭の中で考えられたことがこの状況を作っているんだよ。僕達が地獄を作り上げてそれを広げ続けている」


 言ってから、やれやれって気持ちになった。


 デートの最中に男の子がこんなことを言い出したら、大抵の女の子はつまらない気持ちになるだろうし、がっかりしてしまうと思う。僕だってそういう気持ちになっている。彼女は僕の言ったことに顔色を悪くして、暫く黙っていた。

 僕達は無言のままに小高い丘の上に登り、樫の木の下の日陰に腰を下ろした。綺麗な景色だった。太陽の光を浴びて大地が黄金色に輝いているように見えた。約束の場所にさえ見えた。全てが許されるはこんな景色なのだろうかとも。僕はそう考えて頭を横に振った。この世に約束の場所なんてあるわけない。そういう考えが、今の世界を作り出して争いを生んでいる。しかしそう考えてみれば、この世のどこにも救いなんて存在せず、救いの無い世界で僕達は生きているんだと、納得せざるをえなかった。

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