第12話

 彼女のマンションを後にしてから。僕はぼんやりと昨日のことを思い返していた。

 今だに幾分かの不安や恐怖が僕に纏わりつき、苗床を見つけたカビのように広がり続けていた。僕は僕の中に新しく芽生えた小さなものを大切にしていけるのか考えていた。


 長い間、僕の心は不毛で荒れた大地だった。水をやることを放棄し、太陽の光は厚い雲で閉ざされ、何も育つことのない腐った土が一面に広がっていた。いつからそのような状態なのかと聞かれれば、それは分からないというしかない。幼い頃からそんな光景だった気がする。決して裕福でも、気が滅入るほどの貧乏でもなく、何かを強制されたり強要されずに、ほとんど不自由なく過ごしてきたせいか、僕は色々なことに見切りをつけ、放棄し、見限る癖がついていた。だから種が埋まっているかも分からない土の上に水をかけ続けることなど、僕には到底できなかった。そうやって僕は多くのことを枯らしてきた。

 夏休みに育てる朝顔は、結局一度も花をつけることなく、狭いベランダで枯れ果てた。だから昨夜生まれたこの小さなものを、僕は枯らすことなく育んでいけるのか検討もつかなかったし、それを考えると怖くもあった。

 

 自分のアパートまで帰り道をとぼとぼと歩きながら、僕は何度も携帯電話の番号の書かれた紙の切れ端を見つめては目を逸らし、僕の携帯電話に番号を打ち込んでは、それを消去した。電話をかけることになるのは分かっていたが、なかなかその一歩が、たった一つの通話ボタンを押すことができずにいた。

 こういう時、犬や王のような人懐っこさやずうずうしさを羨ましく思う。いつもなら土足で人の中に踏み込む、垣根の無さを疎ましく思うのだけれど、やれやれ、どうして、今は自分の消極的さが疎ましかった。


 三十分くらいかけてアパートまで帰ってくると、僕は部屋に入って直ぐにベッドの上に寝転んだ。よく見知った部屋の天井が何故か懐かしく感じた。

 僕は電話をかけた。


「もしもし」


 コールの音もせずに、直ぐに小さな声が聞こえた。


「もしもし、その、覚えてるかな?」


 彼女はクスクスと笑った。それだけで電話をしてよかったと思えた。


「もちろん、覚えてます。あの、昨日は楽しかった、でも、朝早くでかけてごめんなさい。私どうしていいのか分からなくて」

「謝ることじゃないよ、それに僕も楽しかった」

「良かった、お姉ちゃんに何か言われた?」

「ああ、危うく男性でいられなくなるところだったよ」

「嘘?」

「嘘だよ。いいお姉さんだね」

「そうかしら、いつもお節介なのよ」

「大切に思っているんだよ」

「そうかしら」


 そこで沈黙が生まれた。その沈黙は長く、深く、息を潜めた何者かの息遣いまで聞こえてきそうだった。誰かが僕の背後から背中を押しているようだった。


「これからも会えるかな?」


 言った後に目を瞑って息を止めた。


「ええ、あなたから連絡してくれると嬉しいな」

「連絡するよ」


 深い息と共に言葉を吐き出した。


「待ってる」


 僕達は電話を切った。

 僕は寝転んだまま天井を眺め続けた。もう天井は懐かしくとも何とも感じられなかった。味気なく無愛想にすら映った。

 僕は再び眠りについた。

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