第10話

「待ってよ」

 

 繁華街を抜けて大通りに出ようというところで、声をかけられて振り返った。先ほど一緒に飲んでいたグループの中にいた女の子が僕に追いついて並んだ。


「何も言わずに帰っちゃうのって、あんまりじゃない?」


 彼女は不貞腐れたように唇を尖らせて言った。もちろん冗談であり、演技だ。


「何となく、場の空気もよくなかったから」

「男の子って直ぐにかっとなっちゃうんだもん。場がしらけちゃうよね」

「で、何かあったの?」

「何で?」

「帰り道がこっちって訳じゃないだろうし、わざわざ追っかけて来たんだろ?」


 彼女は少し考える素振りをした。いつもだったらと言うか、男性としてはここでエスコートするべきなんだろうけど、そんな気持ちにはどうもなれなかった。僕の心は沈没した船のように海の底をたゆたっていた。


「そうね、送って行ってもらおうかなって思って」


 率直で素直なことだ。女の子は素直が一番だ。つまらない打算を働くよりは幾分もまともだろう。それに率直なお願いには率直に返すほかない。


「いいけど、家近くなの?」

「ええ、私の住んでいるアパートならここから歩いて二十分ぐらいよ」

「じゃあ送っていきましょう」


 僕達は方向を変えて彼女のアパートを目指した。


「タクシーを拾おうか?」

「いいの、酔っているから歩いて帰りたい」

「そう」

「ねぇ、そう言えば私達ってあまり話したこと無かったわね」

「そうだっけ?」

「そうよ、あなたいっつも同じ人とばかり喋ってた」

「シャイで人見知りなんだよ」

「嘘。興味ないって顔に書いてあったよ」

「今度からは消しゴムを持ち歩かなきゃ」


 彼女はそれを聞くとクスクスと笑った。


「あなた達のトリオって解散しちゃったの?」

「トリオ?」


 僕は驚いて尋ねた。


「違うの? いっつも三人で一緒にいるから、トリオを結成しているのかと思ってた」


 そんなふうに思われていたのかと思うと、本気で憂鬱な気持ちになった。


「まぁ、違くないのかも」

「で、解散はしたの?」

「自然消滅って奴かもしれない」

「どおして、喧嘩でもしたの?」

「それだったら問題は簡単に解決できるよ、だって仲直りすれば良いだけなんだから。まぁ絶交って手もあるけど、絶交してたら今日の飲み会に来ないだろ?」

「そうね、じゃあどおして?」

「理由が無いのに心が離れていってしまうから、どうしようもできないんだ」

「理由が無いのに心が離れる」


 彼女は僕の言葉を反駁してから、その意味を考えるように静になった。僕は彼女が僕の言葉を考えている間、彼女のことを考えた。

 一体、彼女は誰なんだってことを。

 僕は彼女の名前も知らなかったし、一緒に飲んでいたことすらまともに覚えていなかった。全く別人が彼女を装って近づいてきたとしても、僕はそれに気がつかずに話を合わせただろう。

 彼女は黒い髪の毛をボブスタイルにまとめた、ピスタチオみたいな可愛らしい髪型をしていて、青色の袖の無いワンピースにヒールの高いエナメルのサンダル、バッグはピクニックに出かけるような小さなバスケットをぶら下げていた。誰かに似ていたが誰にでも似ていて、顔の判別はつかなかった。大学には千人以上の彼女がいて、彼女じゃない千人以上の女性がいる。その差異を見つけるのはとても難しく、それでいてとても簡単だ。自動車工場でプレスされて出てくる部品一つにだって、使い込めば個性というものぐらい現れる。しかし結局のところその程度の差異しかない女性が、この世の中にはごろごろと溢れ出しているのだ。流行の洋服だとか化粧だとかで身なりを整え、憧れの歌手やアイドル、女優などの生き方やアドバイスを模倣し、崇拝し、雑誌なんかに書いているある男の子に好かれる方法とか、セックスの仕方だとか、アンケートの結果なんかを本気にして自分の行動の基準や動機にし、オピニオンリーダーの教えを常に意識している。そんな女性がこの世の中にはごろごろいる。しかしそれを言ってしまえば男性だって同じようなものなのだろう。そういう男性と女性がいる限り、この資本主義社会は永遠に終焉を迎えることは無いだろう。だって人間自体が消費される世の中なんだ、そのうちバーコードをつけられてコンビニで人間が売り出されたっておかしくない。「今夜一万円」そんなキャッチフレーズをつけられてコンビニに並んでいる女性の姿を想像して、僕は寒気と吐き気がした。


「ねぇ、聞いてる?」


 僕は呼ばれて気がついた。隣に視線を向けると青いワンピースの女の子が僕の声をかけていた。背中に「私、今夜一万円」と言うキャッチコピーと一緒にバーコードがついているのが見えた。


「大丈夫?」

「ごめん、ちょっと考え事してた」

「そう、深刻な顔してたわよ」

「ああ」

「何考えていたの?」


 僕は本気で今考えていたことを言ってやろうかと思ったが、それはやはり墓場まで持っていくことにした。そんなことを言ったところで誰も幸せにはなれない。分かりきっていた。


「別に」

「別に、か」


 彼女はからかうように僕の言葉を繰り返した。


「私はあなたの言葉の意味をずっと考えていたのよ」

「言葉の意味?」

「それも忘れちゃったの?」


 彼女は呆れたように続けた。


「言っていたじゃない、理由が無いのに心が離れてしまうからどうしようもできないんだって」

「ああ、忘れてないよ。で、結論は?」

「結論って程大げさじゃないけど、私にも似たような経験があるなって思って。聞きたい? 退屈だと思うなら止めておくけど」

「是非、後学のために聞かせて欲しいな」

「嘘ばっかり」


 彼女はクスクスと笑った。


「でも聞かせてあげる。私ね、高校生の時から付き合っていた彼がいたの、高校一年から三年間、ずっと付き合ってた。本当は一緒の大学に通いたかったんだけど、私のほうが学力は大分上だったし、東京にどうしても出てみたかったら、彼を地元に置いてこの大学に進学したの」

「東京はそんなに魅力的に映った?」


 毎年毎年、掃除機で吸い集められたみたいに、この東京という都市にはゴミのように人が集まってくる。まさにゴミ溜めた。


「そうね、とっても。でね、遠距離で付き合っても私達は大丈夫だって思ってた。初めのうちかは、かなり上手くいっていたの。電話も毎日していたし、メールなんて一日百通ぐらい、月に二、三回会って、高校生の時よりも親密になったし、今まで以上に彼のことが好きになったように感じてた。でも大学に入学して一年間が過ぎる頃には、電話も週に一回する程度で、メールなんて用事がある時以外全くしなくなっちゃったの。二ヶ月も三ヶ月も会わなくなって、このまま自然に関係が解消されちゃうのかなぁ、何て思ったりして。それもいいかな、何て」


 彼女は僕がしっかりと聞いているのか確かめるみたいに、僕の表情を伺った。僕は聞いているよと暗に知らせるように頷き、車のヘッドライトに照らされた彼女を見つめた。どことなくその表情が艶っぽく、大人びて見えた。


「でもね、彼に会うつもりでもなく地元に帰った時に、たまたま彼に会ったの。帰ることは彼にも伝えてなかったから、気まずいなぁ、何て思って。結局時間を作って、その時に別れ話をしてお終い。あっさりしたものだった。不思議な気持ちだったな。あんなに好きだったのに、毎日だって会いたかったのに、嫌いになったわけでもないのに、何で別れたんだろうって。でも、きっと理由なんて無かったのね、理由が無いのに気持ちが離れたからどうしようもない。あなたの言葉を聞いてなんか納得しちゃった」

「そう」

「うん、あなたは女の子とそういう経験ある?」

「どうかな」


 彼女はまたクスクスと笑った。


「そう言うと思った。あなた自分の話って苦手でしょう?」


 僕は考える素振りをした。


「言葉を持ってないんだ。自分のことを話す言葉を」

「言葉が無い?」

「そう、自分の中に辞書があるんだ。喋るときには無意識にその辞書の中から検索して言葉を発する、みんなそうしてるんだ。でも僕の場合はその辞書の中の言葉が極端に少ないんだ」

「どれくらい?」

「普通の人はだいたい二十万語ぐらい持っているけど、僕の場合は五千語。そして僕が自分の話を始めようと、するそれが更に五百語になってしまう。落とし穴に嵌って落ちていくみたいに、言葉が辞書から抜け落ちちゃうんだ。だから僕は自分の話をしたくてもできない」

 

 彼女は笑った。


「あなたって本当に面白い人ね」


 彼女は真顔ってそう言った。僕は言葉が見つからなかった。


「着いたわ」


 そう言って広げた手の先には、なかなか立派なマンションが聳えていた。五階建のコンクリートの建物で、外観はなかなかお洒落でオランダの田舎町に来たようなオレンジ色のレンガ造りだった。


「いいマンションだね。じゃ。僕は帰るよ」


 エントランスを抜けたオートロックの扉の前で僕は彼女に言った。正直に言っておきたいけど、この時僕は本気でマンションの前まで彼女を送ったら帰ろうって思っていたんだ。下心なんて微塵も無く。


「あなた本気で言ってるの? 折角だから上がっていきなよ、缶ビールくらいあるわよ」


 しかし、女性にここまで言わせて引き返すわけにも行くまい。


「じゃあ、ビールの一杯でもご馳走になろうかな」

「そうそう、女性に恥をかかせるものじゃないわよ」


 エレベーターに乗って三階で降り、彼女の部屋の扉の前まで歩いた。三〇三号室だった。エンジ色の扉を開けて中に入った。

 玄関のたたきには女性物の靴やサンダルで溢れ返り、女の子が集まってパーティでもしているみたいに見えた。僕は履いていたスニーカーを脱いで彼女の後に続いて中に入った。


「おじゃまします」


 一応の礼儀として言っておいたが、彼女は全く反応せずに扉を開けて中に入った。

広々としたリビングで畳十畳くらいはあるだろう。リビングに入って見上げると天井は低くロフトがあった。部屋の半分くらいのスペースをロフトが占有しており、今流行のデザイナーズマンションというのだろうか、変わったつくりで小洒落ていた。彼女が入る前からリビングの電気はついていて、低いテーブルの上には飲みかけのお茶が入ったコップが汗をかきつくして放置されている。随分ずぼらな性格をしているものだと部屋を見回していると、ロフトがごそごそという音を立てた。


「帰ってきたの?」


 女の子の声が聞こえ、僕がロフトを見上げると、女の子が空から降ってきた。

「きゃあ」と悲鳴を上げ、足を踏み外して転落してくる女の子に慌てて両の手を出して体を受け止めようとした。二メールぐらいの高さとは言え、重力で重みを増した体の衝撃は大きく、僕は女の子を抱えたまま背中からフローリングに倒れこんだ。

 

 どんがらがっしゃん。


「ちょっと、ロフトで寝るのは止めなさいっていつも言っているでしょう。ごめんなさいね」


 彼女は僕の上にお尻を乗せている女性に呆れたように言った後、僕に申し訳なさそうに言った。一体何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。

 彼女の家には居候がいるのだろうか?

 だから僕を連れ込んでも安心だったのか、僕の上にいつまでも乗っている女性は、急いで飛ぶように立ち上がった。


「ごめんなさい、大丈夫ですか?」


 申し訳なさそうに大きく頭を振るたびに、高いところで纏めとめた長い黒い髪の毛がぴょんぴょん跳ねた。


「別にいいよ。怪我してないようでよかった。それだけでも寄ったかいがあったよ」

「そうね、助かったわ。今ビール出すわね」


 青いワンピースの女の子はそっけなく言ってキッチンに向かった。


「それと、あんた、いつまでそんな格好でいるのよ。部屋に戻って着替えてきなさい」


 ロフトから降ってきた女の子に向かって言うと、彼女は自分の纏っている衣類を見て顔を真っ赤にした。上は可愛いキャラクターの描かれた小さめのTシャツで、もちろんブラジャーはしていない。下半身はこれまた可愛らしいピンク色のショーツだった。


「ごめんなさい」


 彼女は逃げるようにリビングを出て行った。


「別にあのままでもよかったのに」

「ああ言うのが好みなのかしら?」

「好みとは言わないけど、悪くないよ」


 彼女はクスクスと笑いながら、ハイネケンの缶ビールとグラスを二つ持ってきた。


「缶で飲む人?」


 僕はグラスで構わないと伝えた。彼女はグラスにビールを起用に注ぐと、僕にグラスを渡した。グラスを交わした後ビールを飲んだ。


「さっきの子は友達、だから僕を家に上げたのか?」

「あら、期待はずれだったかしら」

「かえって助かったよ」

「乗り気じゃなかった?」

「そういう訳じゃないけど、何となく君と変な関係になりたくなかったから」

「優しいのね」

「優しくなんかないさ」

「じゃあ、何なのかしら?」

「何だろうね、臆病なんだよ。きっと」


 リビングの奥に続く二つの扉のうち、ロフトから降ってきた女の子が少しだけ隙間を空けてこちらを伺った。後ろめたそうな二つの円らな瞳がぐるぐる泳いでいた。


「何こそこそしているのよ、出てきなさいよ」


 呼ばれた女の子はおずおずとした調子で部屋に戻ってきた。タオル地のピンクと白のボーダーの部屋着に着替えた女の子は、僕の隣をさけ、僕達が腰を下ろしている低いテーブルの周りではなく、向かいのソファーの上にちょこんと座った。太腿までのショートパンツから伸びた白い生足を、鍵をかけてしまったみたいにしっかり閉じてソファーのクッションを強く抱きしめた。


「紹介するわね」


 そう言って彼女は「妹よ」と続けた。

 僕は幾分か驚いた。

 先ほど友達と尋ねた時に否定しなかったのを思い出したが、僕の反応を楽しんでいる彼女を見てある程度納得した。僕のことも紹介し、僕達はお互いによろしくと言った。


「私の二つ下で、妹も都内の大学に通っているの。まぁ、最近は休みがちだったけどね」


 僕は二人を眺めてみたが、二人は全くと言っていいほど似ていなかった。二人ともメイクは薄かったし、家で寝ていた妹のほうは、化粧すらしていない。特別飾り気があるというわけではないのに、彼女達に共通した部分を探すほうが難しかった。姉のほうは目鼻立ちがはっきりし、どこと無く自立したきつそうな顔立ちをしているのに対して、妹のほうはTVをつければ必ず出演している名前も分からないアイドルのような幾分かぼやけた、穏やかで幼い顔立ちをしている。髪型もショートボブとロングヘアで正反対を体現したような姉妹だった。


「似てないな」


 素直な感想を口にした。


「ええ、そうなの。お腹が違うからね」


 僕は肩を落としてうなだれたい気持ちになった。

 いきなりそんな話題になったら、誰だってそうしたいって思うだろう。僕はまだグラスに半分だけ残ったビールを飲み干して、さっさと帰ろうと本気で考え始めていた。


「気にしないでいいのよ。もう慣れてるし、私達は気にしてないから」


 そういって妹に同意を求めるように視線を向けると、クッションを抱いたまま妹は小さくコクリと頷いた。


「お腹が違うっていってもね、私達本当に仲がいいのよ。姉妹って言うよりも友達って感じ。新しい母親も世の中が言ったり思ってたりするほど悪いものじゃないの」

「そう」


 僕はとりあえず頷いておいた。どうせ何を言ったところで余所余所しく、空々しく聞こえてしまうだろう。外れしか引けないババ抜きをやっているような気分だった。

僕が黙ったままグラスのビールをちびちびと、それだけが唯一の救いのように飲んでいると、青いワンピースの女の子の携帯電話がバスケットの中で振動した。彼女は「ごめんなさい」と言ってリビングを出て行ってしまった。

 リビングには僕と腹違いの妹が残され、静寂と気まずさが睨めっこを始めた。僕は大声を出して笑おうかと思ったけど、尚更ビールをちびちびと飲み、とんでもなく惨めな気持ちなっていた。これを飲んだら帰ろうと決心した。リビングの外から大きな高笑いが聞こえた。


「姉が、ごめんなさい」


 黙っていた妹が呟くように声を出した。小鳥の囀りのように高く、小さい素敵な声だった。僕は手を広げて気にすることはないと暗に示した。


「いつもああなの。誰彼構わずに連れてきて、身の上話をしてみたり、朝までずっと喋ってたり、多分寂しがり屋なのね」

「寂しいときは素直に寂しいって言うのが正しいよ。最近はみんな自分を仕舞込みすぎておかしくなってる」

「本当にそう思ってる?」

「ああ、孤独に耐えられる人間なんてそう多くは無いよ」

「でも、あなたは寂しいときには寂しいって言わなそう」

「その代わりに毎晩枕を濡らしてる」


 ようやく彼女が笑ってくれた。それだけで僕は重たい鎖を外せたような、心の軽さを手に入れた。彼女はクッションで口元を隠しながらクスクスと笑っている。姉とよく似た笑い方をしたが、彼女のほうが何倍も可愛らしくに見えた。


「ビール取って来るね」


 彼女は僕の空になったグラスを見て、ソファーから立ち上がってリビングに向かった。ビールの缶を一本持って帰ってくると、缶を開けてグラスに注ごうとした。どうやらもう一本は飲まなければいけないようだ。僕は缶のままでいいと言って缶ビールを喉に流し込んだ。


「じゃあ、少しここに注いでくれる」


 彼女は僕の使っていたグラスを持って言った。僕がグラスに半分ほどビールを注いでやると、彼女は僕の隣に腰を下ろした。何故かクッションは持ったままで、それを伸ばした足の膝の上にちょこんと置いた。まるで自分の体の一部のように。

 彼女はビールを舐めるように一口飲んで、びっくりしたような表情を浮かべた。どうやらお酒は飲みなれていないようだった。


「ねぇ、さっきの話だけど、寂しい時どうするの?」

「枕を濡らすさ、一晩中」


 彼女はまた笑った。


「もうそれはいいの、本当のところはどうするの」


 僕は考える素振りをした。


「携帯電話を眺める。そして誰かから電話がかかってくるように只管念を送り続けるよ。もちろん誰からもかかってこないけど。僕の携帯電話はフリーダイヤルのはずなんだけどね」


 彼女が声を上げて笑った。僕はだんだんと穏やかな気持ちになり始めていた。女の子を笑わすのがこんなに楽しいことだと思ったのは久しぶりだった。彼女には何と言うか、そういう本質的なところを思い出させてくれる素朴さや純真さがあった。それは彼女の瞳のせいかも知れない。好奇心と不安が織り交じり、少し目を合わせては直ぐそらし、また少し目が合えば直ぐそらす、おずおずとした態度と重なって、逃げてはまた戻ってくる小鳥そのものに見えた。僕は手を伸ばしてそれを捕まえたいと思った。


「私もその気持ち分かるな。いつも携帯電話の着信履歴とか電話帳を開くんだけど、結局誰にも電話をかけられないの。眺めているだけで時間だけが過ぎていってしまう」

「分かるよ、とくに用事が無いからかけられないんだ。それに相手が電話に出なかったり、拒絶されたらどうしよう、そんなことを考えすぎてしまう」

「そうなの。何かきっかけを探してみるんだけど何も見つからない。何故かしら? 分かる?」


 彼女はまたビールを舐めるように飲んだ。


「僕達って自分自身が思っているほど強いもので繋がっていないんだよ。その曖昧さだったり、軽薄さを知っているし、気がついているから、そんな関係に甘んじたくないって気持ちが自分を律している。僕はそんなふうに考えることにしてるよ」

「あなた強い人ね」

「そんなこと無いよ、僕は弱い人間だよ。傷つくのが怖くて言い訳してるだけだ」

「知ってる? 本当に弱い人は自分の弱さを口に出したりしないのよ」

「知らなかった、今度からはめいいっぱい強がるよ」


 彼女はまた僕を暖かい気持ちにさせる笑い声を出した。

 暫くして青いワンピースの姉が戻って来た。僕と妹を交互に見たあと、どこと無く意味深な表情を浮かべた。


「ごめんなさい、友達に呼び出されちゃって、今から戻ることにしたの」

「じゃあ、僕もそろそろ」

「あなたはゆっくりして行っていいのよ、新しいビールも残っているみたいだし。じゃあまたね」


 彼女はバスケットを拾い上げると、踵を返して逃げるように出て行ってしまった。

 僕と腹違いの妹の間には、生暖かい不思議な風が通り抜けた。

 それは追い風のようで、ある種の期待のようで、また恐れのようなものでもあった。事実僕は何かしらかの恐れを抱いていた。


「これを飲んだら帰るよ」

「ええ」


 でも僕は帰らなかったし、彼女も僕を帰そうとはしなかった。

 その後二人で缶ビールを二本飲み、といって飲んだのはほとんど僕だが、いつの間にか体を寄せ合って、お互いの体温とその温もりを確かめ合っていた。いつの間にか唇も重ねていた。


 僕達は彼女のベッドに入ってセックスをした。

 その日、僕は人生で始めてコンドームを使わずにセックスをした。そのことに多少の恐怖を感じていたけど、その体の交わりは僕の人生の中で一番僕を興奮させ、欲情させ、僕をかき乱した。纏っていた怖れや恐怖を拭い去り、むき出しになった僕の本質とも言える部分の僕が、激しく彼女の心を欲して、溺れるように彼女の体を求めた。

 彼女の乳房は未発達で小さかったが、形は凄く綺麗で乳首は桃色だった。陰毛は薄くしっとりとしていて、僕の体をじゃれるように擽った。彼女の息遣いは荒かったけど、声は出さなかった。恥じらいで快感を押し込めているのが彼女の息遣い越しに伝わり、それを聞くたびに僕は何ていうのか、理性の箍が一つずつ外れるような気持ちになった。

 彼女の体内で射精した後、僕はとても不思議な神秘的な気持ちになっていた。新しい場所に到達したような、そんな感覚。彼女はそのことに付いて何も言わなかったし、その行為を自然なこととして受け止めてくれていた。

 セックスが終わった後、僕達はぐっしょり汗をかいたまま暫くの間抱きしめあっていた。僕は彼女の未発達な乳房の間に顔を埋めていた。彼女は何も言わずに僕の頭を撫でていた。僕は赤子に戻っていた。今思い出しても、あの時の僕は泣いていたと思う。何故泣いていたのか分からないけど、僕は彼女の胸の中で泣いていたと思う。

 今度は彼女が僕の上に乗って僕が彼女を抱きしめた。彼女が僕の胸に耳をつけて僕の心臓の鼓動を聞いていた。子守歌を聞くように、目を瞑って安心しきった表情をしていた。

 部屋の中は蒸し暑く、空気は湿気で満ちて、汗と体臭の立ち込めた、男と女が乱れた後の匂いがした。だけど何も気にならなかった。その部屋の中には全ての調和があった。


「何も言わないで、もう少し黙っていたいの」


 僕は頷いた。僕達のかいた汗が乾き、興奮の収まった体は冷え始めた。熱を失った鉄のように。心までも硬くならないでほしい、僕は本気でそう思った。薄いタオルケットをかけ、彼女は小さな声で鼻歌を歌った。


「その曲?」


 僕は滅多に聞かない珍しい曲に驚いた。

 そしてその曲は僕も好きな曲だった。


「知ってる?」

「ああ、リリー・マルレーンだ」

「正解。この曲を知っている人に始めて会ったわ」


 彼女はまた鼻歌を歌った。


「リリー・マルレーン」


 第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲だった。

 兵営の大門の前に街灯が立っていて、そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌った歌で、たった七百枚のレコードが繰り返し放送されて広がっていった。大戦下の一時期、二十一時五十七分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に多くのドイツ兵が戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。またドイツ兵のみならず、相手国のイギリス兵の間にも流行した。


「私の母がジャズのシンガーで、よくライブでこの歌を歌っていたの。だから頭の中から離れなくて。でもお姉ちゃんは嫌いなの。めそめそしててやだって」

「何となく想像つくよ」

「でも私は好きだな。帰ってこない人を待ち続けるって素敵なことだし簡単なことじゃないと思うの」

「場合によっては相手が死んでしまうよりも辛いかも知れない」

「ねぇ、死にたいって思ったことある?」


 彼女の言葉が余りにも冷たく響いたので僕は驚いた。彼女の体は凍えるように震えだして僕を不安にさせた。


「私はあるよ。いつも考えちゃう。何もかもが嫌になって、それで死んじゃえばいいのかなって。ねぇ、あなたは?」

「あるよ」

「良かった」


 彼女はその後で眠りに付いてしまった。

 僕は彼女を抱きかかえたまま、自分の言葉の意味を何度も何度も繰り返して考えてみた。僕もいつの間にか眠りについてしまっていた。

 続きを夢の中で考えたが結局答えを見つけることはなく、眠りは深い所を彷徨い、何れ暗闇に絡め取られてしまった。

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