第9話

 王に呼び出されたのは八月の半ばだった。暑さは相変わらず上昇を続け、記録的猛暑はレコードラッシュに沸いている。九月の残暑も厳しいであろうと、気象予報士は他人事のように、涼しげに語っていた。地球温暖化には懐疑的な僕でも、このヒートアイランド現象にはうんざりしていた。パフォーマンス的に氷の上に乗って漂流する白熊の映像を見せ付けなくても、僕達はとっくにどこかに漂流させられていた。孤独の上に乗っかって僕達はあてもなく彷徨っているのだ。行く先も分からずに。おまけに暑さで頭までおかしくされたたら。後は溺れ死ぬしかなかった。

 

 王は電話の向こうで大声を張り上げ、久しぶりの大学の皆で集まって飲もうと僕を誘った。全然乗り気になれず出席を断っていたが、強引に場所と時間を告げると王は電話を切った。いつものことだったので僕は溜息と一緒に、携帯電話をつい先ほどまで寝転んでいたソファーに投げた。読みかけの小説の続きを読みながら、どうしたものかと思案していた。どうせ行くことになるのは分かっていたが、何故か出発前になると考えてしまう悪い癖があった。子供の頃からの癖だった。家族で出かけるのでも、学校の遠足でも、恋人とのデートでも、何故か出発前になると途端に憂鬱になり、足が動かなくなってしまう。思考が深い所に沈んで行き、どうして行かなくちゃ行けないのか、行ったところでどうなるのか、行くと何が待ち受けていのかと、自問自答を繰り返してしまう。そうこうしているうちにとっくに集合時間であり、待ち合わせの時間であり、開始の時間になり、僕はいつも決まって遅刻してしまうのだ。

 こうやって考えながらも行くことになるのは分かっている、だけど何かに絡め取られてしまったみたいに僕の体は動かない。一体どうなっているのか。結局のところ人は一人では生きられないということになるのだろうか。

 

 僕は暑いシャワーを浴びて汗を流すと、髭を剃ってから着替えをした。それからレイモンド・チャンドラーの「さよなら愛しい人」を最後までたっぷりと読み終えた。どこでボタンを掛け違えたのだろうか。

 

 待ち合わせの時間から一時間ばかり遅れていくと、既に宴は盛り上がりを見せていた。安いチェーン店の居酒屋の大部屋を貸しきり、僕を入れて男女十五人ほどが集まっていた。ほとんど顔見知った大学の連中だったが、他にも知らない人間に何人か混ざっていた。どうせ他の学部が後輩を呼んだのだろう。大学という所は顔の知らない人間のほうが多いし、大抵の奴は一回挨拶したくらいじゃ顔も覚えていないのが当たり前だ。僕は他人の顔を覚えるのが得意じゃないので、だいたいは曖昧な返事と挨拶で誤魔化していた。


「遅いぞ」

「主役は遅れてくるものだろう」


 王の言葉にお決まりの台詞で対応した。いちいち遅れた理由を説明していたら、精神病院に通えと言われるのが落ちだろう。

 直ぐに僕の目の前に大ジョッキのビールが置かれ、皆でジョッキを持って乾杯した。生ぬるいジョッキに、どこと無く下水臭いビール、泡ははじけ飛んで洗剤の滑りみたいで、一口飲んだだけで席を後にしたくなる味だった。しかしそれも仕方の無いことだった。

 王は隣で牛の小便みたいなビールを、それこそ浴びるように飲んでいた。中国人は本当に酒が強いし味を気にしない。


「なぁ、あいつ急に田舎になんて帰ったりしてどうかしたのか?」


 王は犬のことを僕に尋ねた。


「さぁ、避暑って言っていたけど」

「あんなに嫌っていた田舎に避暑って、一体、どういうつもりなんだろうな?」

「夢から覚めたんじゃないか」

「夢?」

「ああ、長い夢から」


 王は少し考える素振りを見せたが、その後で豪快にがはははと笑って見せた。


「それはいい、これで少しは地に足をつけた人間になるだろうよ」


 僕もそう願っていると同意した。ぼそりと「恐らく、もう彼は帰ってこない」と呟いたが、その声は王には聞こえておらず、誰かの言葉にかき消された。王はもう別の誰かとの会話に夢中になっていた。

 この宴の中では誰しもが言葉を、列車の窓の外に投げる荷物のように扱う。投げた次の瞬間にはもう別の景色に変わり、投げ捨てた荷物のことなど忘れてしまっているのだ。皆意味のあるようなふりをして会話をしているが、その実のそこで話された内容に意味などなく、一日経てば何を話したかなんて、井戸の底に落としたみたいにすっかり忘れてしまっている。大声で笑い、語り、悩み、打ち解けながら宴は回っていく。しかしそれは結局のところどこにも行き着くことも無く、ぐるぐると同じ場所を回っているのだ。終点の無い長い鉄道の乗車席に座りながら窓の外を眺めてみると、夜の街の明かりや、長閑な田園、霧の立ち込める深い緑、光の反射する水面、心震える素晴らしい景色に巡りあう。しかし結局のところ僕自身は列車の中で乗車席に腰を下ろしたまま、何も変わることなくいつまでも列車に揺られ続けている。どこにも行き着くことも無く。


 先ほどから僕の隣に座った女性は、僕がいかに優れているかと言う点を詳細に述べてくれていたが、その全ての点が僕には美徳とは思えず、むしろ汚点とも言える部分だと僕は思っていた。

 芸能人の誰かに似ているとか、タバコの吸い方が格好いいとか、直ぐに「すごーい」とか言ったり、「へぇー」なんて瞳を大きくして高笑いをする女の子なんてみんなくたばればいいと、僕は本気で思っている。そういう女の子って、自主性ってものをそもそも持ち合わせていない。欠落し、消失し、その代わりにあるものは、彼女達がそれを自ら手放すことによって確立した自己は、過去に付き合ってきた男の影響と、その下らない残滓だけ。一生初恋の男の子比べられながら、どんぐりの背比べで少しだけ背の高い男の子をウィンドウショッピング感覚でお買い上げする女はみんなくたばればいい。

 それでも僕は彼女の話を真剣に聞いて、悩み事を詳細に検討し、今彼女が言って欲しいだろうという言葉を投げかけ続けた。そう言うのって本当に疲れるし、うんざりする。何にって自分自身に。

 アルコールも随分周り、宴自体も大分間延びしたものに変わっていきた。溶けたゴムのようにだらりとし、緊張の糸は解れ、宙に浮かんだ風船が漂っているみたいな空気が流れていた。酔っ払ってつぶれているもの、お互いの傷を舐めあっているもの、既に誰かと退席したものと、様々な人の模様が浮かび上がって斑を描いていた。

 僕が用を足しに席を立とうとするとする頃には、王は手ごろな人間を捕まえて、日本と中国の歴史認識の違いで激しい論戦を繰り広げていた。僕はやれやれと首を振りながら場を後にした。僕も何度か歴史について王と意見を交換したことがあったが、結局のところは平行線で、そこには和平も平和も友好も妥協も見受けられなかった。歴史の問題については、つまるところ歴史家に任せればいいと、僕は常々思っている。他民族どうしが同じ価値観を共有することなど土台無理な話だし、僕達日本人は同じ民族同士ですら、右と左に分かれていつまでも下らない争いを続けているのに、それがどうして他国の人間と同じ価値観を共有できるのだろうか、理想論も甚だしかった。

 結局のところ過去は過去と割り切り、お互いの主義主張を取り下げ、現在とその先にあるものを見据えることでしか前に進むことはできない。

 手と顔を洗って戻ってみると、先ほど激しい議論を交わしていた二人はいつの間にか取っ組み合いになり、ビールのジョッキをひっくり返し、寝ているものを飛び上がらせ、店員を怯えさせるような惨状へと変わり果てていた。悲鳴に近い声を上げる女の子などもいて、蜂の巣を叩いたような騒ぎになっていた。価値観の相違は実態的な戦争という形で決着を迎える。国際政治のありようを映したような姿だった。僕は大きな溜息をついて誰かが頼んだチェイサーの中身を二人に引っ掛けた。


「頭を冷やせ、どれだけ迷惑をかけてると思っているんだ」


 僕の言葉をお互いの胸倉を掴んだまま聞いた二人は、熱が冷めて理性を取り戻した時独特の恥を浮かべながら、顔を見合わせて手を離した。王を店の外まで呼び出してどういうつもりだと問い詰めた。


「別に歴史観の違いで暴れた訳じゃねーよ」


 王はぶっきらぼうに答えた。背を丸めてばつの悪そうにする姿は、いつも一回りも二回りも体が小さく見えた。


「じゃあ何であんなことになる?」

「イライラしてたのは事実だけど、お前のことを悪く言われたから頭に来たんだよ」


 僕は多少面食らった。


「周りの連中が社会に出るために必死に汗かいている中で、お前が何もしないで飄々としているのが気に食わなかったんだろ。だからお前が大学を卒業したら戦場ジャーナリストのアシスタントになるんだ。大物になるぜって言ってやったら、大笑いして。それで馬鹿にするなって」


 僕は肩を落として、額に手をついた。

 感動して声もでなかった。

 本当に情の厚い男だ。

 恐らく僕は今夜枕を濡らすことになるのだろう。

 回りの連中が僕をそういう目で見ていたのは知っていたが、王がこの間の話を真に受けていたとは考えもつかなかった。犬と一緒で既に忘れ去っているだろうと高を括っていた。


「ありがとう、素直に礼を言うよ」


 手を広げながら言い、後を続けた。


「でも、もう二度と僕のことで下らない争いをするな。手を出すなんてもっての他だ」


 僕にはそんなことをして貰う価値なんて無い男だ、そう言いたかったが、後半は言葉にならずに喉の奥ではじけて消えた。


「でも、お前の貧相な体じゃ立ち向かえないだろう」


 王は既にいつもの調子を取り戻したらしく、にやりと口の端を吊り上げてからかい半分で言った。


「別に暴力を振るうだけが喧嘩じゃない、今度は大人の喧嘩の仕方を見せてやるよ」

「おー、怖い、怖い。お前を怒らせると本当に後悔しそうだな」

「こんな虫も殺さないような博愛主義者に向かってよく言うよ」

「偽善者の博愛主義者だろ」


 大正解だった。確かに僕は偽善者だ。自分でも十分に承知していたし、そのことに嫌悪感を抱いてすらいた。しかし今更自分の確立された自己を改善できるほどに僕は成熟した人間でも、過去を振り返ることができる人間でもなかった。結局過去というものは、それはそれと認めて割り切り、先へ進むしかないのだ。


 僕は先に帰ると王に伝えて踵を返した。

 どうせあの状態じゃ店を出るしかない。下手に二次会に巻き込まれる前に帰りたかった。


「また三人で集まろうぜ」


 背中に王の大きな声が刺さった。王の声が震えていた。哀愁が夜の霧のように立ち込めていた。王もどこと無く気がついているのだろう、僕達三人の関係が以前のもではなく、僕達を繋ぎ止めていたボロボロの糸がすでに解けてしまっていることに。僕は振り返らずに分かったと伝えて足を進めた。

 

 喧騒の繁華街を前に進んでいるはずなのに、何故か僕には全く前に進んでいる気にはなれなかった。深い所へ落ちて行き、同じところをぐるぐる回っている。そんな感覚を抱かずにはいられなかった。

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