第8話
影と再び会ったのは、「ヴィクターズ」に突然呼び出されたあの日から、一週間以上経ってからだった。お互いまめに連絡を取るような性格じゃないし、そもそも影とは大学内でさえ一緒にいることはほとんどない。
影と僕とでは本来生きている場所が違うのだ。
世の中では彼のような男をエリートと呼ぶのだろうし、影ほど優秀な男は他にはいない。いわゆる天才と呼ばれるタイプの男だ。
影とは大学内の図書館で知り合った。僕は大学の喧騒で頭が割れそうな時、決まって図書館に逃げ込んだ。影は僕が座っていた向かいの席に座り、只管に本を読んでいた。それはもう読んでいたというよりも、魅了されたと言ったほうが正解で、文字の一字一字も逃すまいと、充血した目を見開いて物語の中にどっぷり浸かっていた。僕はそんな彼を物珍しそうに眺めながら、自分の読んでいる本を眺めるように読んでいた。
それがレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」だった。
「チャンドラー、好きなのか?」
僕は声をかけられ、本から目を離して目の前の男を見つめた。肩をすくめてから首を傾げた。
「初めて読んだから何ともいえない。でも少し文章が華麗すぎるというか、回りくどいかもな」
「そこが素晴らしいんだ。一見回り道をしているようで、実は無駄がない。それはマーロウが実際に物語の中で見ている世界なんだ。物語については幾分の破綻を認めないわけにはいかないが、文章に関してはチャンドラーの右に出るものはそうはいない」
「そうか、今度じっくり読んでみるよ」
「是非、三回以上は通読することを進める」
同じ本を三回も読むなんて、軽く眩暈がしてきそうだった。
僕達はお互い自己紹介し、会話を続けた。
僕は直ぐに影に好感を持った。それは本当に久しぶりのことだった。心の底から湧き上がるような親しみがそこにはあった。影は一切下らない話を持ち出さなかった。彼の口から発せられる全ての言葉が、意味のある重要な言葉に聞こえ、まるでその言葉は秘密を隠した暗号のように僕の耳元から脳に伝わり、僕は直ぐにその暗号を解くことに熱中した。会話の仕方に癖があり、知識的なジョークがあり、また切れ味がった。だが人好きのしない男だろうとも思った。恐らく友人は極僅かしかいないだろうし、僕以上にいないだろうと確信した。
影は大学にいるほぼ全ての学生を見下していただろうと思う。それはもう恨みのような感情に近いぐらいに。そして孤独な男だろうとも思った。孤独に耐える力を持っている男だとも。
いつか孤独について話し合ったことがあった。
「孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように」
影は言った。
「仏陀か?」
「ご名答。ダンマパダ、二十三章、三百三十節」
「で、その心は?」
「自分を高めてくれる人が傍にいるならそれは幸せなことだ。しかし、そうでない人と共に歩んでも、それは自分を堕落させるだけ、ならば国を捨てた王のように、林の中の像のようにひっそりと気高く生きていけ。そんな所だ」
その言葉の中に、影言う人間の本質が全て詰まっている、僕はそう確信していた。
だから影が恋に落ちたと僕に告白した時、僕は戸惑いのようなものを感じたし、失礼な話をしてしまえば、幾分かがっかりした。彼の堕落していく様を見ていたくはなかった。
これを読んでいる人には、影が恋に落ちたことが何故堕落なのかと、不思議に、疑問に思う人もいるかもしれない。しかしその点に関しては、僕は明言できるだけの自信がある。
影が今まで積み上げてきたものというのは、孤独故、その儚さと危うさ故のものなのだ。心の底に溜め込んだ怨念やルサンチマンを原動力にして積み上げてきた、言わば負の感情の温床と言ってもいい。飛ぶことしか知らない無垢な蝶が蜘蛛の巣にかかり、もがき苦しく様が僕には明確に見えていた。でも、そればかりは誰にも、僕にだってどうしようもなかった。
恐らく影にそのことを正直に話せば、影はその僕の忠告を自分達の愛の障壁と考え、今以上に恋心を滾らせ激しく燃え上がらせただろう。その炎が何れ自分の身を焼き尽くしてしまうとも知らずに。まさに火に油って訳だ。だから僕は放っておくことに、なるべくそのことには触れないようにしようと心がけていた。結局のところそれは自分で気がつくしかない類の感情だった。全てが素晴らしく、夢物語のように見えていることから目を覚ますには、自分で大きく目を見開いて現実を直視するしかない。僕はふと荘士の教えを思い出した。それも以前影とした会話の中に出てきたものだった。
彼は今蝶になっている。しかし、それは蝶が夢を見て影になっていたのかもしれない。彼は今夢から覚めた状態にいるのではないか、そんなことを考えてしまうと、僕はもう身動きがとれずに、冷たくて固い氷の中に閉じ込められてしまったような気持ちになってしまっていた。
影は前よりも一層深く思いつめた様子で僕の隣の席に座った。「ヴィクターズ」では僕と影のほかに、置物のように静かに眠りについた老人が一人、いつものようにカウンターの上には黄色のリキュールとアブサンのストレートが丸々残ったまま置かれていた。老人の周りだけ時間から乗り残されたように、切り取られた一枚の写真と同じように、そっくりそのままこの間と同じ姿だった。何かのメタファーになっているみたいに感じたが、僕にはそれが何のメタファーになっているか皆目検討もつかなかった。
僕と影はお互いギムレットでグラスを交わした。濃い緑色のアルコールが僕の喉を通り抜け、胃の底には暖かい石が腰を下ろした。影は一気にギムレットを飲み干してしまうと、再びギムレットを注文した。その切迫した様子にはマスターでさえただ従うしかなかった。
「何も手につかないんだ」
犯人が犯罪を自白するように、重々しく告白を始めた。僕はまるで告解室で迷える子羊の言葉を聞く敬虔な神父にでもなった気分だった。
「勉強も捗らないし、本を読んでいても集中できない。目を瞑るとあの人の顔が思い浮かんで何も考えられなくなってしまうんだ。頭がおかしくなりそうだよ」
「それで、何かアプローチをかけてみたのか?」
「そんなこと、できるわけないだろう」
とんでもないとでも言いたげに、大きく手を振った。
「じゃあ、どうしたいんだよ?」
「分からないんだ、どうにもできない」
僕は溜息をついた。やれやれ、これが僕が一目置いていた男の姿なのだろうか。成れの果てとも言える抜け殻のような彼の姿に、僕は本気で幻滅していた。
「じゃあ、今からその女に会いに行こう。僕が何とか話をつけるよ」
そう提案すると、影は急に黙りこくって俯いた。ギムレットをまた一気に三口程で飲み干し、またギムレット注文しようとするものだから、僕はチェイサーだけでいいと言った。影はそれに従った。
「会いにはいけない」
「何故、生きている女なんだろう? 最近じゃ二次元やゲームの中の女の子を本気で彼女とか、俺の嫁って言うふうにしちゃう風潮があるけど、それかい?」
「違う、ただ会いにいけないんだ」
「電話番号を知らない?」
影は何も言わず俯いたままだった。
「どこに住んでいるか知らない?」
沈黙。
「話したことがない?」
黙秘。
「相手には付き合っている男性、または旦那がいる?」
僅かに肩が震えた。
これじゃまるで尋問だ。
僕は財布から千円札を三枚出して、それを出してそれをテーブルの上に置いた。立ち上がってバーを後にしようとした。
「待ってくれ」
藁にも縋るような声で影は言い、僕の腕を取った。空っぽの瞳が恨めしく僕を睨みつけ、懇願するような表情を浮かべていた。
「分かった」
僕は諦めたように両の手を上げた。降参のポーズだ。
「分かったから、とにかくここを出よう。もうアルコールは十分だ」
僕達は店を出た。二人で真夏の夜の闇の中を歩いた。僕達はお互い無言だったが、一つの場所を目指していた。大きな池や小さな動物園なんかもある自然公園だった。僕達は何度か一緒に大学を帰った際に、その自然公園のベンチに座って話をした。
「なぁ、何故動物を檻に入れるんだろう?」
随分前に動物園のピンク色の看板を眺めながら影は訪ねた。看板に描かれたゴリラやキリン、ライオンに象が笑顔で僕達を見つめていた。
「檻に入れてなきゃ逃げるからだろう」
「じゃあ、何で逃げちゃだめなんだ」
「逃げたら町中が大騒ぎだ、象が人を踏み潰して、虎やライオンが人を食う」
「でも人間のほうがずっと危険だ」
「否定はしない、嫌、できない」
「本来檻の中に閉じ込めておくのは人間のほうじゃないのか、そうすれば少なくとも人間同士では殺しあわない」
「確かに。でも、もう僕達は檻の中にいるって思わないか?」
反対に僕が尋ねた。
一見水掛け論のように見えて、僕は影とするこういう会話が大好きだった。
「色々なものに縛られちゃいるが、でも檻の中じゃない」
「そうだろうか、僕達は生まれてから直ぐに国民として登録されて親の監視の下に置かれる。その後、義務教育が始まり、ろくでもない国の教育を受けて洗脳される。何れ世に放たれた後も、会社や組織に子飼いにされ、税金という形でなけなしの給料を搾取され続ける。間違いを犯せば罪が待ちうけ、多くのペナルティを払わなければいけないし、刑務所で一生を過ごすものもいるだろう。それ以外にも事故、災害、人間の悪意など、僕達の脅威は留まるところを知らず僕達に圧し掛かってくる。最後は国からの補助だけで生活し、何も考えられなくなって涎と糞尿を垂れ流しながら死んでいく。そして死亡届を提出してお終いだ。これでも僕達は檻の中にいないと?」
「それは一考の価値がある。でも多くの人はそんなことを考えずに、この平和な世の中を享受して生きている」
「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」
「荘士の教えか?」
僕が諳んじた言葉に影は反応し、僕は頷いた。
「心地良いからといって虚構の中で生きることは、果たして幸せなことなのか? それは夢の中で蝶になっているだけなのではないか、そしてそことで多くのことから目を背けているのなら、それは罪と言えるのではないか、ならばその罪によって誰かが罰せられなければいけないのではないか?」
「平和に甘んじていることが罪となるか、ならばその罰を受けている人々はどこにいる?」
「この国が平和であるために、この国以外で争いが起きている。経済を繁栄させるための戦争、資源を奪うための他国への侵略、内政への干渉、紛争の助長、言論の弾圧、この国以外で起きているからそれはいい、そのお陰で我々は繁栄しているのだからそれは仕方ない、形だけ悲しみの表情を浮かべていればいい。だけど、こう考えてことはないか? もうとっくに戦争はこの国でも始まっている。この国は最前線じゃないというだけで、戦場の遥か後方なんだ。いつか僕達は自分達の罪を償いことになるって、その時に僕達は長い蝶の夢から覚め、現実を直視する」
「我々は何れ報いを受ける、夢を見た報いを、か」
そんな話をしたことがもう随分大昔のように感じられた。土の中から白骨化した骨を発掘しているように過去を振り返った。
看板に描かれた動物達も、今は憐れみと悲しみの表情を浮かべていた。ベンチの隣では影が相変わらず世界の終わりのような表情を浮かべていて、園内には宴の篝火ともいえる、ビールの空き缶、スナック菓子の袋、丸められたブルーシート、火の消えた花火が至るところに落ちていた。華やいだ祭りの後、夢から覚めた現実の景色は静まり返り、ここが本当に世界の終わりのように映った。
「本気なんだ」
「分かるよ」
「僕が持っているものなら全部捧げたって良い。彼女が振り向いてくれるなら全てを捨てたっていいんだ」
「ああ、ならそうすればいい」
「それができればどんなに良いだろうか」
「なぁ、きっと夢を見てるんだよ」
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