第7話
犬と王のことを考えた。
それから多くのことを。
それも一週間ぐらいに渡って。
携帯電話は眠りについてしまったみたいに深い沈黙を貫き、死んだ子猫のようにテーブルの上で丸くなっていた。
僕はやることも見つけられずに、巷で流行っているエコと言うくだらなすぎるエゴに反逆するように、クーラーをがんがんに利かせたシベリヤのような部屋の中で、天井を眺めながら二人のことを考えた。
出会ったのは大学一年生の時だった。
学科も学部も違う三人がどうしてこんなふうに毎日つるむようになったのかは、今では明確なことはほとんど覚えていない。恐らくそれはそうなるべくしてそうなったのだろう。
僕達は大学の授業が終わると毎日のように集まった。初めは犬と王以外にも、もっと多くの人数がいて、入れ替わりはあったが常に八人から十人ぐらいはいたと思う。それが段々と人数が減っていき、最終的に今の三人に落ち着いた。僕は昔から大勢でいるのは苦手だったし、意味もなく男が大勢集まって一向に出口の見えない話なんかをするのは気が滅入ってしまうから、そのほうが楽で都合がよかった。別に三人でも十人でも同じだが、男のする会話ってものの下らなさには、本当に辟易していた。それこそ便所の紙ほどの価値もない話を延々とできる。それでいて最後は水に流してお終いって、ちょっと虚しすぎる。
だいたいは女と金の話。昨日やった女の話とか、昔付き合っていた女の話、振られた忘れられない女の話、僕はそういう話を聞くたびに、僕はそこに登場する女性たちが可愛そうになって居た堪れなくなる。誰だって自分のベッドシーンなんて話して欲しいわけないし、多分その男性にだから見せていた自分というのがあるはずなんだと思う。だからそれを見せて貰ったのなら、後は口を噤んで墓場まで持っていくのが礼儀ってものだと、僕は本気で思っている。
まぁ、そういう話が必要な時が人生のうちには必ず訪れる。そういう時に場の空気を読んだり、盛り下がるようなことを言わないように心がけるのは大事なことだ。縦割りの男社会じゃ尚更。そういう時には多少の嘘だって必要だと思う。正直なところ。
次に更に輪をかけて下らないのが、金の話だ。別に僕は清貧を良しとしているわけじゃないし、金は稼がなくちゃいけないものだと思っている。商売をしたからには、繁盛しなきゃだめだ。でも大学生ぐらいがする金の話って本当にどうしようもなくて、全然現実的でも建設的でもないものばかりだ。全くの空理空論、絵に描いた餅をまるでエジソンがした発明ように、地球は丸かったと言ったガリレオのように語ってしまうのって、僕は本当にやれやれって気持ちになる。
目を覚ませって言ってやりたいけど、そう言う時の男の子って一種のトランス状態というか、無敵のヒーローに変身してしまっていて、手のつけようがない。スーパーマリオがスターを取った時の常態と言えば分かり易いかな? マジな話。馬鹿につける薬はないってこと。
初めはどうしたら儲かるだろうみたいな話から始まって、旨みのありそうなバイトの話に移る。最終的には株とか投資とか、会社を立ち上げようとか、そんな突飛もない話に発展してしまう。誰が社長だとか、持ち株会社にして分配率はどうしようとか、名刺をつくろうなんて話にはなるけど、結局のところ提供するサービスは何一つないし、その会社の理念一つ話合われない。でもそれでもみんな満足しきっている。一瞬でも自分たちの可能性を広げて夢を見れたことに、浮かれてしまっているんだ。結局男の子っていくつになっても、マスターベーションが大好きで自己満足できればそれでいいんだと思う。
だから、僕は去年の夏休みに思い切って提案してみることにした。あの日も唸るような暑さで、どこかの居酒屋で男だけでビールをバケツ数杯分ぐらい飲んでいた。いつものようにどうしたら儲かるだろうって言う話から発展して、会社を立ち上げようってことになった。その日はいつもよりも少しだけ具体的なところにまで話は言及された。今までディティールだけだった計画の内容が、はじめ全体的なことに及んできた。
サービスの内容は簡単なものだった。僕達の通う大学の周りには、割りと近い位置に他の大学がいくつも点在していて、ちょっとした学生街になっていた。主要の駅の周りにはいくつもの飲食店が凌ぎを削り、風俗店なんかも堂々と運営されている。合法、非合法関わらずに。そう言った飲食店や風俗店のタウン誌のようなものを作って、タウン誌限定のクーポンをつけることによって来店を促進させようというのが狙いだった。各大学の学生と連絡を取り、大学内に置かせてもらうことで、学生のリピーターを増やすことができるだろうと僕達は考えた。一店舗一万円を頂いたとして、三十店舗で三十万円。初めは赤字でも、徐々に加盟店を増やして月に一回の発行ペースで発行すれば十分に黒字が出る計算だった。将来的にはインターネットのクーポンサイトを運営していくことも決定した。
議論が煮詰まったところで僕は提案した。
この夏から全員でバイトを始めて一人百万円ずつ貯めようと。
来年の四月に会社として申請するとして、今からだと約八ヶ月ある、月に十二万円ほどだから、随分現実的な額だろうと。その日はみんなやる気になって、有頂天になった。そして来年の四月には自分たちの会社を立ち上げていると確信して、僕達は帰路についた。
僕は翌日かバイトを探すことにした。
今まで色々なアルバイトをしてきたけど、どれもちょっとした小金が欲しくてやったものばかりで、真剣に稼ぐことを考えて始めたことはなかった。あまり金銭欲のあるほうじゃなかったから、必要な分だけあればいいだろう、そんなぐらいにしかお金のことは考えていなかった。でも今回は角度を変えて、勉強になったり、今後役に立つ経験のできる仕事に関わってみたい、そんな気持ちが僕の中にあった。何て言ったって来年の四月には会社を立ち上げるのだ、それにはしておいて損な経験などないだろうと考えた訳だ。殊勝な心がけってやつ。
だから、以前僕の学部で何度か講師として招かれていた、戦場ジャーナリスにアルバイトをさせて欲しいと連絡をした。
狼というフリーのジャーナリストで、世界各地の戦場や被災地、貧困街、災害地等を回っている男なのだが、今はテレビのドキュメンタリーの仕事に関わっていて、映像を編集するために暫く日本に滞在していた。
僕の通っていた大学の卒業生で、日に焼けた褐色の肌に鋭い狩人の目、体中に傷があるものだから学生からは敬遠されがちだが、話せば気さくで面白い人だった。何よりも言葉に重みがあった。
「いいかぁ、この国は平和って言うぬるま湯にどっぷり浸かり過ぎちまってるんだよ。体中、脳みそまでふやけて、いざって時に動けねぇし、のぼせて何も考えられなくなっちまっている。本当のことが知りたきゃ、ぬるま湯を抜けな、安全地帯にいたら何も分からねぇぜ」
狼は何度もそう言った。僕のことを気に入ってくれていたようで、個人的に飲み行ったこともある。だから僕が仕事を手伝いたいと電話した時、彼は嬉しそうに了解してくれた。
電話した翌日から僕のアルバイト生活が始まった。
何もかもが分からない初めてのことばかりだったので、とにかく邪魔にならないように狼の仕事を黙って眺めていた。狼も僕なんか存在しないかのように、まるで霞か空気のように扱った。そのうち、それをとってくれ、あれをそこにもっていけ、馬鹿違う、脳みそはあるのか、体で感じろ、などの無茶苦茶な指示が雨のように降り注ぐようになり、一週間後にはだいたいの勝手が分かるようになった。
「俺みたいな人の使い方をしてると、最近の若い奴は二、三日でやめちまう。だから、いっつもアシスタントがいねぇんだ。だけどお前さんはもう一ヶ月だ。それだけで見込みあるぜ。まずは、ふやけて、のぼせちまって状態から抜け出せたろう」
だったらそんな非効率的なやり方をしないで、初めから丁寧に教えればいいと僕が言うと、馬鹿言えと狼は大きく首を横に振った。
「俺達みたいなもんは、いつも危険と隣りあわせで仕事してる。だから感覚で仕事できない奴は使えない奴、生き残れない奴ってことになるんだ。銃弾が降り注いでいる時に、ボスどうしたらいいですか? なんて平気で言い出す奴と一緒に仕事なんかできないだろう」
確かにその通りだった。粗暴で無骨な男だったが、建設的で合理的な男でもあったし、ある種の魅力を、人を引き付ける天性の感覚を備えた男だった。だから僕もどんなに仕事がきつくても、ぞんざいな扱われ方をしても一度も彼のアシスタントを辞めようとは思わなかったし、二、三日で彼のアシスタントを去っていった人たちが信じられなかった。ここでは僕が期待している以上のことを教えてくれた。それは形態的で形而学的な学習では決して得ることのできない、現場しか学べない生きるための教えだった。
夏休みが終わった後も僕は彼のアシスタントを続け、大学の授業は単位ギリギリにして、できる限り狼と働くことにした。薄給だったのでなかなか金は貯まらなかったが、何とか約束の四月までには、百万円を貯めることができた。
「お前が止めちまうのは大分痛手だな、筋もいいし感も冴えてるよ。何より先を見通す目がある。それがなければ戦場じゃ生きられない。お前にはそれがあるぜ」
アシスタントを辞める時、感慨深げに狼は言った。
「その気があるなら連絡しろ。二人で世界を回ろうぜ、平和の裏側にあるものを見せてやるよ」
僕は深く頭を下げてお礼を言った。
これを読んでいる賢いあなたなら、もうこのエピソードの結末は分かっていることだろうと思う。
そう、結局約束の四月が訪れ時、目標の百万円を貯めることに成功したのは僕だけだった。もちろん四月が訪れる前、初めの一ヶ月間ぐらいでそんなことは容易に予感されていて確信へと変わっていたけれど、僕は構わずにアルバイトを続けた。他の連中は僕が夏の炎天下の下でせっせと蟻の様に働いている最中にしこたま酒を飲み、手当たり次第に女と遊び、大学の講義を受けながら深い眠りについていた。キリギリスも言いところだ、全く。親の金を当てにできる犬はいいとして、王は生まれてから一度もアルバイトなんかしたことないと大声で笑い飛ばし、他の連中も似たようなものだった。
僕の元には手付かずの百万円と、狼の下で働いた生きるための経験則が残り、その手付かずの百万円はこれを書いている今でも、僕の銀行の口座で深い眠りについている。恐らく僕は全財産を失って路頭に迷い、親子供が土下座して金を無心したとしても、この百万円を使うことは無いだろう。
これが、僕が経験した現実の蟻とキリギリスの話だ。そして現実の蟻とキリギリスの話では、キリギリスは決して困ることもないし、蟻を頼ることもない。それが真実。それ以来、少しずつ、風に吹かれて崩れていく砂の城みたいに、一人、また一人と、集まる人数が減っていき、もちろん僕も顔を出す回数は愕然と減った。今年の夏の前までには、僕と犬と王だけになった。僕達に共通していることはあまりない。犬は世の中の素晴らしいことを探しまわる夢想家だし、王は強欲で現実的な男だし、僕は、まぁ、僕のことはいいか。
一つだけ共通していることがあるとすれば、酒を飲むが心底好きということぐらいだろう。男の友情なんてそんなもんだ。
僕はベランダの窓を開けて太陽が燦燦と降り注ぐ真夏の空を見上げた。太陽の下にはたいしたことのない町並みだが、人々の営みのある庶民的な東京の街が広がっていた。多くの人がこの太陽の下で暮らしている。そんなことを考えると途方に暮れたような気持ちになる。暑さのせいか、町並みは揺れて見えた。陽炎のように、砂漠の蜃気楼のように、
全てが幻のように。
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