第26話 これから私が言う事をちゃんと聞かないと承知しないんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 そして遂にその蘭が決着をつけるべく、有栖川邸に乗り込んで来ました。


 苦手な犬も克服し、亜梨沙には蘭を止める術がありません。


 その上、ある意味最強とも言える天然爆弾娘の桃之木彩乃までが参戦して来ました。


 ピンチをビンビンに感じている亜梨沙の前に最終兵器「妹」のキャサリンも登場です。


(呉越同舟だわ)


 故事成語が不得意な亜梨沙は、「四面楚歌」のつもりのようです。


 すでに「同舟」している舟から転げ落ちそうな気がして来ています。


「キャサリンさん、トムはどちらですか?」


 早速キャサリンを「敵」と看做みなした蘭が仕掛けます。


 亜梨沙はギクッとして思わず彩乃の背後に避難してしまいました。


(何、この女、他人のくせに私のトムを馴れ馴れしくファーストネームで!)


 キャサリンは怒り心頭ですが、そんな事は全く顔には出さず、


「トムは庭園で庭師の皆さんと働いております」


 ニコッとして蘭に告げます。その際自慢の胸をさり気なく強調しました。


 蘭と彩乃の胸が貧相に見えるくらいの迫力です。


 巨乳三人に囲まれ、いつも以上に自分の胸の情けなさが悲しい亜梨沙です。


(でも世の中には巨乳好きじゃない人だって!)


 ふとセクハラ魔神の早乙女小次郎を思い出してしまう亜梨沙です。


(あいつは特殊か)


 そうは思いながらも、小次郎の「告白」にドキッとしてしまった亜梨沙でした。


(あんな奴でも真正面からコクられるとドキドキするのね)


 その当時自爆覚悟の決死の思いの小次郎でしたが、亜梨沙の扱いは未だに「あんな奴」でした。


 本人が知ったら天照学園高等部を退学してしまうかも知れないくらい無情な現実です。


「ありがとう、キャサリンさん」


 蘭はキャサリンに会釈をして、庭園へと歩き出しました。


(貴女如きが束になってかかっても、トムは動じないわ)


 余裕綽々のキャサリンは歩き去る蘭の後ろ姿を見てフッと笑いました。


「ああ、蘭ちゃん、待ってよお」


 先に行ってしまう蘭を見て彩乃が慌てて追いかけます。


(それより未知数はこの子ね)


 キャサリンも彩乃の不思議な雰囲気を恐れています。


(今までトムが出会った事がないタイプだわ)


 キャサリンと二人きりになりそうなのと蘭と彩乃がトーマスに会ってしまうのが不安で、亜梨沙も、


「ちょっと、私を置いて行かないでよ」


と駆け出そうとしました。するとキャサリンが、


「お嬢様」


 そのまるで地の底から湧き上がるような重々しい声に亜梨沙は思わず硬直しました。


「な、何?」


 振り向かないままでキャサリンに尋ねます。キャサリンは真顔になって、


「お話があります」


「で、でも、蘭と彩乃がトムのところに……」


 引きつり顔の亜梨沙はようやく振り返る事ができて言いますが、


「トムがあの程度の女に落ちるとお思いですか?」


 キャサリンはまたフッと笑いました。亜梨沙は背筋に悪寒が走るのを感じました。


「そ、それは……」


 亜梨沙はトムの事を恐らく誰よりも知っているはずのキャサリンが全く慌てていないのを知り、奇妙な安心感を得ました。


(蘭は確かに魅力的な女の子だけど、トムにはどう写るのかしら?)


 亜梨沙にはキャサリンほどの自信がありません。


「私の部屋でお話しましょうか、お嬢様」


 ハッと我に返ると、亜梨沙はキャサリンに手を引かれ、玄関に向かっていました。


 キャサリンはそれほど強く亜梨沙の手を握っている訳ではないので、振り払う事もできるのでしょうが、亜梨沙には恐ろしくてそんな事はできません。


(トム……)


 後ろ髪を惹かれる思いで、亜梨沙は邸に入りました。


 


 一方トーマスは、退院当日だというのに庭で力仕事をしていました。


 ブルージーンズのオーバーオールに白のハイネックセーター姿で土にまみれています。


「執事さん、大丈夫なんですか、お身体の方は?」


 庭師の一人がトーマスを気遣って尋ねました。


 するとトーマスは破壊力抜群の笑顔とキラリと輝く白い歯で、


「お気遣いありがとうございます。私はもう大丈夫ですので」


 その庭師は決してそういう人ではないのですが、思わず惚れてしまいそうになりました。


(普段からそうだけど、この人ほど美しい日本語を話す人はまれだ)


 毎日この人のために朝食を作りたい。


 そちらの世界の庭師は遠くからトーマスを見てそう思っていました。


 そのせいでもう少しで失神しそうです。


「トム、退院おめでとう」


 そこへ蘭と彩乃が登場しました。


 若くて奇麗な女の子が二人現れたので、庭師達がざわめきます。


 突然華やいだ雰囲気になり、彼らの鼻の下がだらしなくダランと伸びます。


 そちらの世界の庭師は敵意を剥き出しにしかけますが、亜梨沙の友人なので気持ちを落ち着けました。


「ありがとうございます、桜小路様、桃之木様」


 トーマスは優雅に身を翻してお辞儀をしました。


 蘭はある程度覚悟をしていたのですが、まさかトーマスがオーバーオールを履いて汗を流しているとは思っていなかったので、もう少しで気絶しそうになりました。


(トム、そんな姿も素敵なのね。油断したわ……)


 彩乃はそこまでトーマスに惹かれている訳ではないので、何ともないようです。


「ごめんなさい。学校からそのまま来たので、何もお祝いを持って来ていないの」


 蘭はさり気なく彩乃の肩に掴まって倒れるのを免れました。


(油断がならない女!)


 そちらの世界の庭師が木の陰から蘭を睨みました。


 でもその向こうに立っているトーマスを見て、ポッと頬を赤くします。


(素敵過ぎます、執事様)


 おかしな宗教が始まりそうな気配です。


「そのようなお気遣いはご無用に願います、桜小路様」


 トーマスはニコッとして言いました。蘭は構えていたのでやり過ごせましたが、今度は無防備にそれを見てしまった彩乃がクラッとしてしまいます。


(ああ、何今の? ジョニー様に負けないくらい素敵な笑顔……)


 あらゆるものがジョニデ基準の彩乃です。


「桜小路様っていう呼ばれ方、嫌ね。蘭でいいわよ」


 蘭は遂に攻めに転じたようです。クラッとした彩乃から離れ、トーマスに接近戦を試みます。


 勇気ある第一歩です。


「承知致しました。では、蘭様」


 トーマスはまた笑顔で応じます。蘭はそれを辛うじて受け流し、更にトーマスに近づきました。


(あの女!)


 木の陰にいた庭師がいきり立って飛び出そうとしますが、足がすくんで進めません。


 彼は本能的に蘭の恐ろしさを感じてしまったようです。


(怖い……)


 彼は震えました。


「蘭様?」


 トーマスは蘭が目の前まで来たので不思議そうに彼女を見ました。


「私ってそんなに魅力のない女かしら、トム?」


 蘭は小首を傾げてトーマスを見ます。


(おお!)


 庭師達が勝手に蘭に落ちていますが、蘭は気にも留めません。


「蘭ちゃん、どうしたの?」


 彩乃も蘭と一緒にいる事が多いのですが、彼女の本気の「狩猟ハンティング」は見た事がないのです。


 ですから蘭が何を始めようとしているのか、彩乃にはわかりません。


「ねえ、どうかしら?」


 自分を見て微笑んでいるだけのトーマスに蘭は念を押すように言いました。


「蘭様はとても魅力的な女性ですよ」


 トーマスは破壊力を増した笑顔で応えました。蘭も微笑み返して更に応戦です。


「ありがとう、トム。じゃあ、私と付き合いたいと思う?」


 蘭は次にトーマスの手を取りました。


(おお!)


 蘭に勝手に落ちた庭師達が「第三種接近遭遇」を果たした蘭を見て心の中で血の涙を流します。


 彼らは今なら小次郎と悲しみを分かち合えるでしょう。


(わあ、蘭ちゃんたら、大胆ね。譲児君が悲しむわ)


 彩乃は目を見開いて蘭とトーマスのガチバトルを観戦しています。


 こんな時でも「蘭は譲児と付き合っている」という妄想を忘れない彩乃です。


「大変申し訳ありませんが、それは致しかねます」


 トーマスは微笑んだままで蘭の手をそっと放しました。


「私では貴方とは釣り合わないという事なのね、トム?」


 蘭はトーマスに放された手をスッと引き、皮肉めいた口調で言いました。


「蘭様には私などより相応しい方がいらっしゃいます」


 トーマスは蘭から後ずさって深々とお辞儀をしました。


(執事さん! 貴方に相応しいのは私です!)


 そちらの世界の庭師は蘭が「振られた」事に喜びのあまり号泣しました。


(おおお!)


 蘭に勝手に落ちていた庭師達は蘭が「振られたらしい」事にホッとしました。


「貴方より私に相応しい人はいないわ、トム」


 蘭は攻撃の手を休めません、一気呵成いっきかせいに攻め立てるつもりのようです。


(蘭ちゃん、すごい!)


 ジョニデ命ではあっても実はリアル恋愛未経験の彩乃は、すでに頭がパニックになりかけています。


(私もジョニー様にあれくらい積極的になれればチャンスがあるのかしら?)


 彩乃は本気でジョニデに告るつもりのようです。


 当分リアル恋愛はできそうにない彩乃です。


「蘭様、恋愛とはお互いの意思疎通があってこそのものだと考えております。ですが、貴女のお話は一方通行のようにお見受け致します」


 トーマスの言葉は穏やかですが、蘭の攻勢を制するに十分なほどの力がありました。


「え?」


 蘭は矛先をなされてしまい、脱力してしまいました。


 二の句が継げないのです。


「申し訳ありません、蘭様。仕事に戻らせていただきます」


 トーマスは悲しそうな顔でお辞儀をすると庭師達と土いじりを再開しました。


 蘭はしばらく固まったように動きませんでしたが、


「蘭ちゃん?」


 彩乃に声をかけられて現実世界に戻って来ました。


「ごめんなさい、彩乃。帰りましょうか」


 蘭はそう言うとスタスタと歩き出します。


(ありがとう、トム、期待を持たせない振り方をしてくれて。諦めがついたわ)


 蘭は清々しい顔で庭園を出ました。


(貴方が何故日本に来たのか、わかったような気がする)


 蘭はトーマスの気持ちが理解できたので苦笑いしました。


「ああ、もう、待ってよ、蘭ちゃんてば!」


 慌てて追いかける彩乃です。


 トーマスは土をいじりながら、キャサリンと亜梨沙の事を考えていました。


(ケイトはお嬢様と話しているのだろうか?)


 


 キャサリンの部屋に通されて、亜梨沙は心臓が飛び出しそうなほどドキドキしています。


「どうぞおかけください、お嬢様」


 キャサリンは英国製の背もたれ付きの大きな椅子を勧めました。


「あ、はい」


 何か仕掛けがされていて、座ったら最後、縛りつけられるのでは、などととんでもない妄想を膨らませながらも、亜梨沙はそのゆったりとした椅子に腰を下ろします。


 当然の事ながら、いきなり手枷てかせ足枷あしかせが飛び出して来るなどというサスペンス映画のような事は起こりません。


 キャサリンも同じ椅子を亜梨沙の前に置き、座りました。


 またギクッとする亜梨沙です。


(ケイト、すっごく奇麗……)


 キャサリンの美しさに見とれてしまいそうになる亜梨沙です。


「貴女が私の最大にして最強のライバルなのです、お嬢様」


 キャサリンは冗談を言っているような顔ではありません。


「え?」


 亜梨沙は顔がカアッと熱くなるのがわかりました。


(蘭や彩乃の事を全然気にかけなかったケイトが私の事をライバルって……)


 ついニヤけてしまいそうになる亜梨沙ですが、キャサリンは真剣な表情なので顔を引き締めました。


「トムにどれほどの美人が言い寄って来ても、私は心配した事がありませんでした。彼を信じていましたから」


 キャサリンの言葉は妹としての発言とは思えません。亜梨沙はまたドキッとします。


(やっぱりケイトはトムの妹じゃないの?)


「只一人の例外を除いては」


 キャサリンの目が厳しくなり、亜梨沙を射るように見つめて来ます。


「え?」


 その恋敵を見るようなキャサリンの目に亜梨沙は酷く動揺しました。


「貴女こそがその例外なのです、お嬢様」


 キャサリンは言いました。亜梨沙は喜んでいいのか恐れた方がいいのか、判断に迷いました。


 亜梨沙が動揺しているのを見て、キャサリンは射るような目をやめ、悲しそうに溜息を吐きます。


「やっぱり、貴女はお忘れなのですね、あの時の事を?」


 キャサリンの謎めいた言葉にピクンとする亜梨沙ですが、全く思い当たる事がありません。


(パパから聞き出せなかったから、何の事かわからない……)


 今更ながら、亜梨沙がフィッシュアンドチップスを食べ過ぎて入院した時の事を笑いながら話した龍之介を恨みたくなります。


「ごめんなさい、全然覚えていないの……」


 隠し立てをしても仕方がないと思い、亜梨沙は素直に詫びました。


 キャサリンは亜梨沙の意外な反応に驚いたのか、彼女を見たままポカンと口を開けています。


 やがてキャサリンはクスクス笑い始めました。


「な、何?」


 突然笑い出したキャサリンに恐怖を感じた亜梨沙は怖くなって尋ねました。


「私になくて、お嬢様にあるもの……。それは自分を偽らない事」


 キャサリンは微笑んで亜梨沙を見ていました。


「え?」


 亜梨沙は自分が頭が悪くなったのかと思いました。


 キャサリンの言っている事が理解できないからです。


(ケイトは日本語を話してくれているよね?)


 そんな不安すら湧いて来てしまいます。


 キャサリンがスッと立ち上がったので、亜梨沙はビクッとして身構えました。


「今まで申し訳ありませんでした」


 キャサリンは深々と頭を下げ、亜梨沙に謝罪しました。


「あ、あの、私、謝られるような事はえっとその……」


 突然の謝罪に気が動転し、亜梨沙は呂律が回りません。


 キャサリンはゆっくりと顔を上げました。


「お嬢様には敵わない事がよくわかりました。私の負けです」


 そして、亜梨沙の手を取って立ち上がらせ、


「お引き止めして申し訳ありませんでした」


 キャサリンは亜梨沙をドアに導き、外へと連れ出します。


「トムは一見女性馴れしているように見えますが、違います。お嬢様がリードなさってください」


「え? ええ?」


 亜梨沙は何が何だかわからなくなっています。


(もしかして、また私、ケイトにからかわれているの?)


 亜梨沙はついジッとキャサリンの顔を見上げてしまいます。


「思いは必ず通じますよ、お嬢様」


 あまりに態度が変わったキャサリンに戸惑いながら、


「あ、ありがとう、ケイト」


と応じると、庭園に向かって駆け出しました。


 玄関を出ると、すでに外は夕暮れで、庭のあちこちに明かりが点き始めています。


「お嬢様」


 その明かりをバックにして、トーマスが近づいて来ました。


 幻想的なトーマスの姿に亜梨沙はクラクラしそうです。


「トム……」


 亜梨沙は心臓が高鳴るのを感じ、立ち止まります。


「蘭様と桃之木様はお帰りになりました」


 トーマスは微笑んで言いました。


「そ、そう」


 亜梨沙は顔を引きつらせて応じました。


(蘭はトムに告白したのかしら?)


 そんな事が気になってしまう亜梨沙です。


 逃げ出したくなる衝動を何とか押さえつけ、亜梨沙はトーマスの前に立ちました。


「これから私が言う事をちゃんと聞かないと承知しないんだから!」


 また精一杯の強がりを言ってしまう亜梨沙です。

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