第23話 そんな昔の事を持ち出されても私は落ちないんだから!
有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。
亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。
ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。
そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。
その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。
金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。
誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。
「十年前、私はお嬢様と会っているのです。その時の約束を果たすために日本に来たのですよ」
トーマスの思いがけない言葉に酷く動揺した亜梨沙は病室を飛び出し、気絶した坂野上麻莉乃先生を背負った富士原美喜雄先生を追い抜き、エレベーターに飛び乗ると、富士原先生を待つ事なく、扉を閉じてしまいました。
「おーい、有栖川ァ!」
寸前で閉じてしまった扉に向かい、虚しい叫びをあげる富士原先生です。
(トムったら、私をからかっているのね! ケイトと二人で!)
亜梨沙は泣いていました。
(本当はケイトとトムは恋人同士なのよ。それなのに兄妹だとか言って私を騙して、面白がっているんだわ!)
すでに亜梨沙の妄想列車はレールを脱線しています。
もはや妄想ではなく、暴想です。
悲しくて、悔しくて、情けなくて、亜梨沙は涙を流しながら、天照学園高等部の門をくぐりました。
「あ、亜梨沙、麻莉乃先生は?」
玄関まで降りて来ていた蘭が声をかけましたが、亜梨沙は何も言わずにそのまま校舎の中に駆け込み、パンチラさせながら廊下を走って行きました。
「どうしたのかしら、亜梨沙?」
蘭は亜梨沙が泣いていたのに気づいたようです。
「私達が見えてなかったのかな、亜梨沙ちゃん?」
亜梨沙が自分達を無視したように思えた天然娘の桃之木彩乃が寂しそうに首を傾げて言いました。
(ほんの少しだけど、トムも私の事が好きなんだと思ってた。でも、違ってた。全部私の思い込みだったのよ)
亜梨沙はようやく走るのをやめ、階段を昇り始めます。
思い込みだったと思うそれ自体がすでに思い込みだという事に気づかない動揺MAXの亜梨沙です。
(私ったら、本当にバカ……。トムが私を気遣ってくれるのは、私が有栖川家の娘だから。仕事だから。只それだけの事なのよ)
そう思ったら、また涙が溢れ出す亜梨沙です。止め処ない暴想です。
「有栖川……」
肩を落として涙を拭いながら廊下を歩いて来る亜梨沙を見て、早乙女小次郎はキュンとしてしまいます。
(やっぱり有栖川、可愛い……)
小次郎は性格が穏やかで亜梨沙のように凶暴ではない彩乃に乗り換えようと思った自分を恥じました。
「ほら、小次郎、こんな時こそ、有栖川を慰めるんだよ」
親友の高司譲児に背中を押され、フラフラと歩き出す小次郎です。
(ど、どうしよう?)
どんどん近づいて来る亜梨沙を見て、心臓が壮絶なビートを刻み始める小次郎です。
(何て言えばいいんだ、譲児?)
小次郎は親友に助けを求めるために振り返りましたが、譲児はすでに教室に戻っていました。
(譲児ィ!)
血の涙が出そうな小次郎です。
そしてもう一度亜梨沙を見ます。
「よし!」
小次郎は小刻みに震える足を前に出し、亜梨沙に向かって歩き出しました。
「あ、有栖川!」
小次郎はありったけの声で亜梨沙に言いました。
「早乙女君、何してるのかしら?」
亜梨沙の後からやって来た蘭と彩乃が小次郎の声に気づいて立ち止まります。
「小次郎君、とうとう亜梨沙ちゃんにプロポーズかしら?」
頬を赤くして妙な妄想に突入する彩乃です。
「そんな訳ないでしょ? そもそも二人は付き合ってもいないんだから」
蘭が冷静な突っ込みをします。
小次郎は亜梨沙の顔をまともに見る事ができず、俯いてしまいました。
「あ、有栖川、元気のないお前を見るのは辛いんだ。何があったのか教えてくれ。力になりたいんだ。お前の事、好きだから」
小次郎は生まれてから一番の勇気を振り絞って言いました。
もしかすると、将来に
「わあお!」
彩乃はそれを聞いて何故か赤面しました。
「寒い台詞」
蘭はあくまでも冷静に評価しました。
「有栖川?」
小次郎は何のリアクションもしない亜梨沙を変に思って顔を上げました。
「有栖川?」
何故か亜梨沙はそこにはいませんでした。
「えええ!?」
怪奇現象に怯える小次郎です。亜梨沙が手前にあった女子トイレに入ったのを知らないのです。
「残念、早乙女君、亜梨沙は君の告白を全く聞いていなかったと思うよ」
蘭がすれ違いざまに小次郎の肩を軽く叩いて言いました。
「再チャレンジしてね、小次郎君」
彩乃が悲しそうな顔で励ましてくれました。
完全に生命活動を停止しそうな小次郎です。
亜梨沙が飛び出してしまった後、キャサリンはプウッとほっぺたを膨らませて、
「トムの意地悪! お嬢様にあんな話しなくてもいいじゃない!」
目に涙まで浮かべています。当然の事ながら、二人の会話は英語です。
トムは他の女子なら確実に落城している笑顔でキャサリンを見ると、
「お前が私の邪魔をしようとするからだよ」
「だって、私、トムの事が大好きなんだもの! 誰にも盗られたくないんだもの!」
キャサリンは涙をポロポロ零しながらトムに抱きつきました。
「ケイト……」
トーマスは苦笑いをして、キャサリンの頭を撫でます。
「私もお前の事が大好きだよ、ケイト」
「それは妹としてでしょ!? 私は違うの、トムの事、男として好きなの!」
キャサリンが潤んで赤くなった目を上げ、トムを見つめました。
「ケイト……」
トーマスは目を見開きました。そしてキャサリンの両肩に手を添えゆっくりと彼女を放します。
「何を言っているんだ、ケイト? 私はお前の兄だよ? 男として好きだなんて、許される事じゃない」
トーマスはまた優しく微笑んでキャサリンに言いました。
「だって、トムは私と結婚してくれるって言ったじゃない!?」
キャサリンは駄々っ子のようです。トーマスは溜息を吐いてから、
「それはまだ私達が幼い時の事じゃないか」
「それなら、お嬢様との約束だって、幼い時じゃないの!」
キャサリンはスッと立ち上がって大声で言いました。その目は怒りで吊り上がり、トーマスを睨んでいます。
「ケイト……」
トーマスはキャサリンの感情の爆発に驚き、目を見開きました。
「私、その言葉を信じて、ずっと生きて来たのよ。将来トムと結婚できるんだって」
キャサリンは涙でグチャグチャの顔になりながら、更に喚き散らしました。
「あの、どうされましたか?」
キャサリンの声が聞こえたのか、看護師長が扉を開いて顔を覗かせます。
「何でもありません!」
キャサリンが鬼の形相で振り返って言ったので、師長はビクッとしました。
「も、申し訳ありません!」
師長は大慌てで扉を閉め、その場から逃走しました。
「ケイト、お前を傷つけてしまったのなら、謝る。でも、私はお前と恋をする事も結婚をする事もできない」
トーマスは悲しそうな顔で言いました。亜梨沙が見たら卒倒するでしょう。
「トムのバカ!」
ケイトは病室を飛び出し、廊下を走って行きました。
「ケイト……」
トーマスはしばらくケイトが飛び出して行った扉を見ていました。
富士原先生は麻莉乃先生を車の後部座席に乗せて学園に戻って来ました。
駐車場に着いたあたりで、ようやく麻莉乃先生の意識が回復しました。
「あら、私?」
「気がついたかね、坂野上先生?」
富士原先生がルームミラー越しに尋ねました。
「え? 富士原先生? あら?」
麻莉乃先生はどうして自分が富士原先生の車に乗っているのかわかりません。
「有栖川の邸の執事さんの病室に行って気を失ったんだよ。覚えていないのかね?」
富士原先生は呆れ気味に言いました。麻莉乃先生は記憶をフラッシュバックさせて、
「あ、はい、そうでした……」
自分が就業時間中にこっそり学園を抜け出した事に思い当たり、小さくなる麻莉乃先生です。
「理事長先生がお呼びだ。それ相応の覚悟はしておきなさい」
富士原先生は真顔で言いました。麻莉乃先生はまた気絶しそうです。
「ク、クビですか?」
「まさか。そこまで厳しい事にはならないだろう。だが、それも貴女の釈明次第だよ、坂野上先生」
富士原先生は駐車場に車をバックで停めながら言いました。
「はい……」
シュンとしてしまう麻莉乃先生です。
富士原先生はそんな麻莉乃先生を見ても全然ドキッとはしません。
彼はキャサリンの事を思い出していました。
(あの美人、執事さんとどういう関係なんだろう?)
不届きな事を想像している富士原先生です。やっぱり金髪至上主義者でした。
亜梨沙はトイレの一番奥の個室に籠もり、泣いていました。
「亜梨沙ちゃん、具合が悪いの?」
そこへ彩乃がやって来ました。亜梨沙は嗚咽を上げながら、
「違う」
彩乃は亜梨沙の声が変なので首を傾げています。
「風邪引いたの、亜梨沙ちゃん?」
「違う」
このままだとスチャラカな禅問答みたいになってしまいそうです。
「亜梨沙、授業始まるよ。早く出て来なさいよ」
蘭が入って来て声をかけました。
「まだ出たくない」
亜梨沙は涙声で言いました。
「蘭ちゃん、亜梨沙ちゃんはお通じがないのかも知れない」
彩乃が小声で蘭に言いました。蘭は思わず苦笑いしました。
「だったらいいんだけどね」
蘭は、亜梨沙に何かあったのはわかっていますが、それが何なのかまではわかりません。
一計を案じた蘭は、
「あ、何するの、早乙女君、バケツに水なんか入れて? え、ちょっと!」
それを聞いた亜梨沙はビクッとして顔を上げました。
「ダメよ、早乙女君、そんな事をしたら、亜梨沙がずぶ濡れになるわ!」
蘭がそう言い終わらないうちに亜梨沙は個室から飛び出して来ました。
「あ」
そして、蘭に引っかけられたと気づきます。
「さあ、授業に遅れるよ」
蘭は何かを言おうとする亜梨沙を強引に引っ張って、トイレを出て行きます。
「ああ、待ってよ、蘭ちゃん、亜梨沙ちゃん」
彩乃が慌てて追いかけます。
「小次郎君も早くしないと先生に怒られるよ」
優しい彩乃は、生命活動の危機に瀕するくらい固まっている小次郎に言いました。
亜梨沙は時間が経過するにつれて少しずつ元気になって行きました。
そして放課後になり、亜梨沙は邸に帰りました。
「お嬢様、フィッシュアンドチップスをお作りしました」
ロビーで邸のちょび髭のコック長が満面の笑みをたたえて報告しました。
「え?」
すっかり忘れていた亜梨沙です。そのリアクションにコック長の顔が引きつります。
「あはは、ありがとう。きっと美味しいのでしょうね」
亜梨沙は丸っ切りの棒読みと小学生にもわかるような口調で言いました。
(どうしよう? 今更トムのところになんか行けない……)
亜梨沙はコック長がフィッシュアンドチップスを詰めてくれた籐製のバスケットを受け取りながら思いました。
「お帰りなさいませ」
そこにキャサリンが現れました。亜梨沙はもう少しで叫びそうです。
(ケイト……)
恥ずかしくてキャサリンがまともに見られない亜梨沙です。
キャサリンはコック達がいるので亜梨沙をごく普通に見ていますが、
(私のトムは絶対に貴女なんかに渡さない)
心の中では嵐のような怒りが湧き上がっています。
「お嬢様、兄はフィッシュアンドチップスが大好物なのです。是非お持ちになってください」
キャサリンはにこやかな顔で言います。
「え?」
亜梨沙はビクッとしてキャサリンを見上げました。
キャサリンはコック達が厨房に戻ったのを確認してから、
「私、トムに振られてしまいました。トムは貴女の事が好きなのです。彼の思いにお応えください」
「ケイト……」
亜梨沙はキャサリンの笑顔に癒される気がしました。
(やっぱり本当はいい人なんだ)
亜梨沙はホッとしてキャサリンに微笑み返します。
「ありがとう、ケイト」
「どう致しまして」
キャサリンは会釈をすると奥へと歩いて行きました。
亜梨沙は自分の部屋に行き、鞄を置き、バスケットを抱えると玄関へと向かいます。
(ケイトが私を応援してくれている)
亜梨沙はキャサリンが何かを企んでいると思わず、再びトーマスがいる病院へと向かいました。
(フィッシュアンドチップスを渡して、トムに嫌われなさい)
玄関を出て行く亜梨沙を柱の陰から半身だけ出して見ているキャサリンです。
亜梨沙は帰って来た時とは全然違う軽い足取りで庭を抜け、舗道を進みます。
(トム……)
単純な亜梨沙はキャサリンの言葉を鵜呑みにし、ウキウキしながら歩きました。
一方、就業時間中に学園を抜け出していた事がバレた麻莉乃先生は理事長にお説教され、一人で職員室に残り、反省文を書いていました。
(自分でやらされてみて、はっきりわかった。これは体罰に等しいわ)
麻莉乃先生は亜梨沙達に反省文を書かせるのを控えようと思いました。
「麻莉乃先生……」
そんな麻莉乃先生をドアの陰から里見美玲先生が見つめていました。
亜梨沙は病院に着き、トーマスがいる病室の前に来ました。
また鼓動が早くなり、呼吸が荒くなります。
「お嬢様、どうなさいましたか?」
目の前の扉がスーッと開き、トーマスが言いました。
「ひ!」
いきなり現れたトーマスに亜梨沙は思わず飛び退いてしまいました。
「あ、あのこれ、差し入れ。トムの大好物だってケイトから聞いたから……」
亜梨沙はバスケットを差し出しました。
「ケイトから、ですか?」
トーマスは怪訝そうな表情で応じると、バスケットを受け取ります。
「どうぞ、お嬢様」
トーマスは亜梨沙を先に部屋に入れると、後ろ手に扉を閉じました。
「どうぞおかけください」
トーマスは亜梨沙にパイプ椅子を勧め、自分はベッドに腰かけました。
「だ、大丈夫なの、寝てなくて?」
亜梨沙は椅子に俯いて腰を下ろしました。トーマスはキラッと白い歯を輝かせて微笑むと、
「はい。検査は全て終わり、異常は見つかりませんでした。明日には退院できます」
「そ、そう。良かったわね」
本当は雄叫びを上げたいくらい嬉しいのですが、感情を押さえ込む亜梨沙です。
「お嬢様には毎日おいでいただき、大変申し訳ありませんでした」
トーマスはベッドから立ち上がって深々とお辞儀をしました。
「大した事してないから気にしないで」
飛び上がりたいくらい嬉しいのに我慢する亜梨沙です。
「ありがとうございます。それで、大変申し上げにくいのですが」
トーマスはバスケットの中身を確認しながら言いました。
「え?」
亜梨沙はドキッとして思わずトーマスを見てしまいます。
トーマスは悲しそうに亜梨沙を見ていました。
「な、何?」
何だかすごく怖い事を聞かされそうで失神するかも知れないと思う亜梨沙です。
「折角お持ちいただいたのですが、私は子供の頃、フィッシュアンドチップスで食中毒になり、それ以来食べられないのです」
「えええ!?」
亜梨沙は叫んでしまいました。感情が抑え切れなかったようです。
「ケイトはお嬢様に良くない感情を抱いています。それは私が責任を持ってやめさせます。今回の事もケイトがお嬢様に嘘を吐いたのが原因のようですね」
トーマスはそう言って溜息を吐きました。
(ああ、トム、それも素敵ィ!)
亜梨沙はいつものハイテンションな亜梨沙に戻りつつありました。
「今日はキャサリンもいませんから、最後まで私の話を聞いてくださいね」
トーマスにそう言われ、今は二人きりだと再認識した亜梨沙はまた失神しそうです。
「フィッシュアンドチップスは食べられなくなりましたが、その時入院した王立病院でお嬢様に会う事ができました」
トムはもう一度凄まじい笑顔で亜梨沙を見ました。
いつになく至近距離なので命が危ないと思う亜梨沙です。
「王立病院?」
亜梨沙は十年前まで英国で暮らしていました。
でも当時の記憶はほとんど残っていません。
トーマスほどのイケメンに会っているのに覚えていないとは、何と情けない記憶力でしょうか?
「その時、私はお嬢様に言われた事を今でも覚えております。お嬢様は覚えていらっしゃいますか?」
亜梨沙はそう言われて反射的にトーマスの笑顔を見そうになりましたが、
(致死量を超えているわ)
咄嗟に危険を探知し、俯きます。
「お嬢様?」
トーマスは亜梨沙が押し黙っているので、不思議そうな顔で亜梨沙を見つめています。
(トム、もう堪えられないわ! もう限界!)
亜梨沙は椅子から立ち上がりました。
「そんな昔の事を持ち出されても私は落ちないんだから!」
また病室を走り出してしまう亜梨沙です。
「申し訳ありません、お嬢様」
トーマスは駆け去る亜梨沙に深々とお辞儀をしました。
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