第22話 そんな事を信じるほど私はおバカじゃないんだから!
有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。
亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。
ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。
そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。
その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。
金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。
誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。
亜梨沙はそれに気づいていません。
更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。
彼女も金髪碧眼の美女で、「私は義理の妹」と語り、亜梨沙を動揺させました。
亜梨沙を助けようとして重傷を負ったトーマス。
蘭達を振り切ってトーマスの病室に行った亜梨沙は、彼から思ってもみない事を言われます。
「お嬢様にお会いするために日本に来たのに、いつまでもここにいられませんね」
その言葉に心臓が壊れそうになった亜梨沙はまた意味不明の事を言って駆け去ってしまいました。
次の日の朝の事です。
亜梨沙は龍之介を送り出し、ロビーに戻ったところで、意を決して床掃除をしているキャサリンに声をかけました。
「ケイト」
キャサリンは手を休めてニコッとして振り返り、亜梨沙に近づきます。
全身から湧き上がるオーラのような迫力に思わず
「何でしょうか、お嬢様?」
キャサリンは他のメイドの目があるからか、ごく普通に応じました。
先程までのオーラは急速に消えてしまいます。
亜梨沙は少しだけホッとし、
「教えて欲しい事があるんだけど」
「何でございましょう?」
キャサリンは亜梨沙に更に顔を近づけて尋ねます。
「ト、トムの好きな食べ物って何?」
亜梨沙はドキドキしながら言いました。もう少しで身体が震えてしまいそうです。
キャサリンは周囲を見渡し、ロビーに誰もいないのを確認してから、
「そんな事を私がお嬢様に教えるとお思いですか?」
と言って、ニヤリとします。亜梨沙は怖くて泣きそうです。そして、漏らしそうです。
「ダメ、ですか?」
亜梨沙はつい敬語になってしまいました。するとキャサリンはまたニコッとして、
「私をそれほど意地の悪い女だとお思いなのですか? そんな事はありませんよ、お嬢様」
キャサリンの笑顔とその言葉がどうしても素直に聞けない亜梨沙です。
(本当なの?)
疑いの目で見ているのを察したのか、キャサリンはクスッと笑い、
「トムはフィッシュアンドチップスが大好物です。子供の頃からそればかり食べていましたよ」
「ありがとう、キャサリン」
亜梨沙はキャサリンが教えてくれるとは思わなかったので、感激してしまいました。
「どう致しまして。兄を見舞ってくださったお礼です」
キャサリンは会釈すると床掃除に使っていたモップを持ち、ロビーから奥へと歩いて行きました。
(ケイトを誤解していたわ。本当はいい人なんだ)
亜梨沙は自分の疑い深い心を恥じました。
「よし!」
亜梨沙はその足でキッチンへと走りました。
「学校から帰ったら、トムに差し入れで持って行きたいから、フィッシュアンドチップスを作って」
亜梨沙はコック達に頼みました。
「畏まりました、お嬢様」
ちょっと太めでちょび髭を生やしたコック長が微笑んで応じます。
「お願いね!」
亜梨沙は笑顔満開で言い添えると、また駆け出し、玄関から庭へと出ます。
気持ちが高揚し、足取りも軽くなり、鼻歌も飛び出しました。
(トム、喜んでくれるかな?)
感激したトムが亜梨沙を抱きしめてくれるところまで妄想した時、
「おはよう、亜梨沙」
「おはよう、亜梨沙ちゃん」
蘭と桃之木彩乃が現れました。
つい二人を恨みがましい目で睨んでしまう亜梨沙です。
「何よ、亜梨沙その怨念が籠ったような目は? 昨日、私達を置き去りにして病院に行ったくせに」
蘭がすかさず反応し、言いました。亜梨沙はハッとして睨むのをやめました。
「あれはその、えーと……」
亜梨沙はバツが悪くなり、二人から目を逸らせて歩きます。
「蘭ちゃん、亜梨沙ちゃんを責めないで。私達が邪魔しようとしたんだから」
彩乃は蘭ほどトーマスにご執心ではありませんから、そんな事を言い出します。
「わかってるわよ」
蘭は彩乃の天然な仲裁に苦笑いしました。
「じゃ、邪魔なんて事ないわよ、彩乃。今日はみんなで行きましょう」
亜梨沙は振り向いて言いました。彩乃は何故か涙ぐみ、
「無理しなくていいのよ、亜梨沙ちゃん。執事さんと二人きりでお話ししたいんでしょ?」
と更に天然攻撃を続けます。亜梨沙は彩乃の無意識の爆弾投下に赤面して、
「な、何言ってるのよ、彩乃! 私は別にトムと二人きりになんかなりたくないわ」
亜梨沙は心の中でいつものように叫びます。
(嘘よォ、トムゥ! 貴女と二人きりでどこかに旅したいくらいよォ!)
二人きりになると目も合わせられないのに、そんな無茶な事を思い描く意味不明な亜梨沙です。
蘭は亜梨沙の反応を見て思いました。
(わかり易いわ、亜梨沙)
そんな三人のやり取りを離れて見ている早乙女小次郎はソワソワしていました。
「みんなって、俺も入っているのかな?」
小次郎は隣にいる親友の高司譲児に尋ねました。
「さあね」
譲児は肩を竦めて応じると、歩き出します。
「入ってるって言ってくれよ、譲児ィ」
ここにも一人、妄想癖のある小心者がいました。
亜梨沙達が通う天照学園高等部の職員室です。
亜梨沙のクラス担任の坂野上麻莉乃先生は授業時間の合間に抜け出して、こっそりトーマスに会いに行こうと企んでいました。
(狭い病室で二人きり……。バトラーさんは私の魅力に抗し切れず……)
いけない妄想を繰り広げる教師失格の麻莉乃先生です。
ついニンマリしてしまいます。
(麻莉乃先生、宝くじでも当たったのかな?)
それを離れた席から眺めている美津瑠木新之助先生です。
そして、ハッとします。
ドアのところから三年の錦織瑞穂が睨んでいるのに気づいたのです。
(怖い……)
新之助先生は麻莉乃先生を諦め切れませんが、積極的な瑞穂にも心が動いています。
(教師として生徒と恋愛関係に落ちるなんてダメだ)
新之助先生のちっぽけな理性が言いました。
(しかし、一向に振り向いてくれそうもない麻莉乃先生より、健気な錦織の方が確実だ)
国語の先生なのに計算高い新之助先生です。
「先生、授業に遅れますよ」
瑞穂は意図的に麻莉乃先生の前を通り、新之助先生のところに行きました。
麻莉乃先生も掠めるように目の前を通った瑞穂を目で追いました。
「急いで、先生」
瑞穂はグイッと新之助先生の腕を取り、引っ張って行きます。
(美津瑠木先生ったら、生徒とそんな関係なの? 最低)
麻莉乃先生は新之助先生と目が合ったのでニコッとしながらもそんな事を考えていました。
もはや望みは1パーセントも残っていない新之助先生ですが、気づいていません。
(麻莉乃先生が俺を見て笑ってくれた)
ポジティブシンキングしています。
「先生!」
瑞穂は麻莉乃先生が新之助先生を軽蔑しているのも知らず、敵意剥き出しで睨むと、職員室を出て行きました。
(何、今の?)
麻莉乃先生は瑞穂にライバル視されている事を知りません。
麻莉乃先生にデレデレしながらも、瑞穂の積極的なアプローチにもニヤニヤしてしまうエロ教師と成り果てた新之助先生を、廊下の角から見ている人がいました。
しばらく影が薄くなっていた保健室の魔女の里見美玲先生です。
(あの筋肉バカは三年女子にシフトしたか)
里見先生もまだ麻莉乃先生を諦めていませんでした。
(麻莉乃先生は私がした事を誰にも話していない。それはもしかして……)
里見先生は、麻莉乃先生が後一押しでこちらの世界に堕ちると考えていました。
(麻莉乃先生……)
里見先生は廊下を歩いて行く麻莉乃先生をジッと見てから、クルリと
亜梨沙は教室に着くと、再びトーマスとの甘い妄想を繰り広げます。
今度こそ、キスまで行こうとした時、
「はい、席に着いて」
麻莉乃先生の登場で妄想劇場は幕引きとなりました。
悔しくて麻莉乃先生を睨む亜梨沙ですが、何故か麻莉乃先生はこれでもかというくらいのドヤ顔で亜梨沙を見ていました。
(何?)
亜梨沙は麻莉乃先生の企みを知りませんから、何故麻莉乃先生が勝ち誇った顔をしているのかわからないのです。
(有栖川さん、残念ね。貴女は私の敵ではないわ)
麻莉乃先生は心の中で勝手に勝利宣言をしていました。
妄想クイーンかも知れません。
(ホームルームが終わったら、次の授業までしばらく空き時間になるわ)
麻莉乃先生はニヤッとしました。
(あの女、何か企んでいるのね?)
勘のいい蘭は麻莉乃先生の不敵な笑みに裏を感じていました。
その頃、トーマスはようやくベッドから出られるようになり、廊下を歩いていました。
「おはようございます」
彼が白い歯を
トーマスが入院している事は有栖川医科大学付属病院中に知れ渡り、看護師だけでなく、事務員、学生、果ては女性患者までがその顔を一目見ようと訪れています。
「きゃああ!」
トーマスが歩くのを見ただけで卒倒する人もいました。
しかしトーマス自身はそれに気づいていません。
トーマスが廊下を歩いていると、不自然な姿勢で近づいて来る看護師がいます。
「バトラーさん、ちょっといいですか?」
それはその病棟の看護師長でした。トーマスはまた白い歯を輝かせて、
「おはようございます、師長さん。何でしょうか?」
師長は笑顔の直撃をかわすために身を屈め、トーマスに接近しました。
「あの?」
それをトーマスは不思議そうに見ています。
「まだ廊下を歩くのは早いと思われますので、病室にお戻りください」
師長は俯いたままで言いました。
「そうでしたか。今日は気分がいいので、病室から出てみたくなったのですが。申し訳ありませんでした」
トーマスは気品溢れるお辞儀で詫びました。
「と、取り敢えず、病室にお戻りください」
師長はクラクラしながら言いました。
「はい、師長さん」
トーマスはニコッとして応じ、自分の病室へと歩き出しました。
(ごめんなさい、バトラーさん。貴方に廊下を歩かれると、たくさんの女性が危険な目に遭ってしまうのです)
師長はトーマスの後ろ姿を見ながら、何故か泣いていました。
麻莉乃先生は天照学園を抜け出し、病院に来ていました。
「作戦開始」
麻莉乃先生は悪い魔女のような顔になり、廊下を歩いて来る白髪頭の事務長にロックオンします。
「おはようございます」
麻莉乃先生はいつも以上に胸元を開け、胸の谷間を強調して事務長ににじり寄ります。
「お、おはようございます」
事務長の視線は麻莉乃先生の胸元に釘付けです。
「お尋ねしたい事があるんですけど?」
麻莉乃先生は事務長に吐息がかかるほど顔を近づけて言いました。
「は、はい、何でしょうか?」
事務長は胸の谷間を探索したままで応じます。
「こちらに入院しているトーマス・バトラーさんの病室はどちらでしょうか?」
麻莉乃先生は潤んだ瞳の上目遣いで事務長に尋ねました。
事務長は卒倒寸前です。ですが、彼はまだ有栖川グループの人間である事を辛うじて覚えているらしく、
「大変申し訳ありませんが、お教えする事はできません」
すると麻莉乃先生はそれを予期していたかのように事務長の腕にしがみつきます。
「ダメなのですか?」
そのせいで胸が事務長の腕を圧迫しました。
事務長は爆発するかと思うくらい赤くなりました。
「さ、三階の305号室です」
事務長は麻莉乃先生の「反則技」にKOされ、遂に教えてしまいました。
「ありがとうございます」
麻莉乃先生は離れ際に事務長の顔を撫でて行きました。
(三階の305号室ね)
麻莉乃先生は足早にエレベーターに近づきました。
「バトラーさん、待っていてくださいね」
麻莉乃先生は頬を紅潮させ、エレベーターで三階に行きます。
そして扉が開くのを待ちきれないのか、強引に開き、廊下を走りました。
(ここね!)
麻莉乃先生はトーマスがいる病室の前に着くと、更に胸元を開き、コンパクトを取り出してお化粧のチェックをします。
(完璧)
麻莉乃先生は笑顔全開になり、ドアをノックしました。
「どうぞ」
中からトーマスの麗しい声が聞こえます。
「失礼します」
麻莉乃先生はウキウキしながらドアを開きました。
「バトラーさん、お加減は
麻莉乃先生はそこまで言って固まってしまいました。
トーマスとキャサリンがキスをしているのを見てしまったのです。
麻莉乃先生はキャサリンを知りませんので、何が起こったのか把握する間もなく気を失ってしまいました。
「トム、この人、どなた?」
キャサリンはトーマスと挨拶のキスをしていただけでしたので、何故麻莉乃先生が気絶したのかわかりません。
「お嬢様の学校の先生だよ。お見舞いに来てくださったみたいだね」
トーマスは微笑んで答えました。するとキャサリンは、
「先生? 水商売の女に見えるけど?」
トーマスは苦笑いしました。
一方、天照学園では、麻莉乃先生が姿を消してしまったので、騒ぎが起こり始めていました。
「どこに行っちゃったのかしら、麻莉乃先生?」
彩乃が相変わらずのウルウル瞳で呟きます。
蘭はその時麻莉乃先生がどこにいるのか気づきました。
(ホームルームの時、亜梨沙を得意そうに見ていたのはそのせいだったのね)
するとその時、亜梨沙の携帯が鳴りました。
邸からです。
「何かしら?」
亜梨沙は思い当たる事がないので、首を傾げて出ました。
電話はメイドの一人からで、麻莉乃先生がトーマスの病室で倒れているという連絡でした。
「どういう事かしら?」
亜梨沙は携帯をしまいながら、蘭に言いました。蘭は肩を竦めて、
「さあね」
ととぼけました。
亜梨沙は事情を生徒指導の富士原美喜雄先生に話しました。
「大勢で行くと目立つから、私と有栖川だけで迎えに行こう」
富士原先生の鶴の一声で麻莉乃先生救助隊のメンバーが決まりました。
落選した蘭が恨めしそうに亜梨沙を見ますが、亜梨沙は気づかないフリをしました。
(麻莉乃先生だけじゃなくて、蘭も病室に入れたくないもん)
亜梨沙もしめしめと思ったようです。
富士原先生を弾除けとして使い、トーマスのところに行く。
それが亜梨沙の作戦でした。
気絶した麻莉乃先生を運ぶために富士原先生の車で病院に向かったので、亜梨沙達はすぐに病院に着きました。
病院で気絶したのですから、病院にそのまま入院させればいいのではと富士原先生は思いましたが、天照寺妃弥子理事長の言いつけですから逆らえません。
「失礼します」
亜梨沙は富士原先生に隠れるように病室に入ります。
富士原先生はキャサリンに気づき、顔が赤くなりました。
「仕事中に抜け出して、病院で気絶するとはどうしようもないな、全く」
美人に弱いはずですが、麻莉乃先生には別に赤面しない富士原先生は金髪至上主義者でしょうか?
「重いな」
富士原先生は麻莉乃先生を背負うと、先に病室を出ました。
「あ、先生!」
トーマスとキャサリンがいる部屋に一人残されるのが怖い亜梨沙が追いかけようとしますが、
「お嬢様、話をお聞きください」
トーマスが呼び止めました。亜梨沙はそのせいで動けなくなってしまいます。
ぎこちなく振り返ると、キャサリンがムスッとした顔でこちらを見ており、トーマスが微笑んで見ています。
ある意味ホラー映画より怖いと思う亜梨沙です。
「ケイトが妙な事を言ったようですね」
トーマスが言いました。キャサリンはますます剥れます。
「え?」
亜梨沙は意味がわからず、キョトンとしてしまいます。トーマスはニコッとして、
「ケイトは私の実の妹です。義理の妹ではありません」
「え?」
亜梨沙はハッとしました。
(その事? でもどうして……)
「ケイトはお嬢様に嫉妬しているのです」
トーマスがそう言うと、キャサリンは今度は赤面しました。
「トム、その話はやめて……」
彼女は何故か恥ずかしそうにしました。亜梨沙はそんなキャサリンを見て驚きました。
「昨日も申し上げましたが、私はお嬢様にお会いするために日本に来たのです。ケイトはそれを知って私を追いかけて来ました」
トーマスがそこまで言うと、キャサリンは泣きそうな顔で、
「トム、お願いだからその話はやめてよ……」
亜梨沙はまだトーマスとキャサリンのやり取りの意味がわかりません。
「十年前、私はお嬢様と会っているのです。その時の約束を果たすために日本に来たのですよ」
トーマスは穏やかな笑みを浮かべて亜梨沙に言いました。
亜梨沙の頭の中を意味不明の妄想列車が走り抜けて行きます。
もう何が何だかわからなくなりそうなのです。
「そんな事を信じるほど私はおバカじゃないんだから!」
亜梨沙は得も言われぬ緊張感に堪え切れなくなり、病室を飛び出してしまいました。
「申し訳ありません、お嬢様」
トーマスはゆっくりと頭を下げ、キャサリンを見ました。
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