第21話 そんな言葉に騙されるほど私はウブじゃないんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。


 小さいどころか、えぐれていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。


 ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 亜梨沙はそれに気づいていません。


 更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。


 彼女も金髪碧眼の美女で、亜梨沙を動揺させました。


 キャサリンが亜梨沙に「私はトムの義理の妹」と宣戦布告して来ました。


 亜梨沙を助けようとして重傷を負ったトーマス。


 お見舞いに行った亜梨沙はまた意味不明の事を言い放ち、駆け去ってしまいました。


 


 トーマスが有栖川グループの系列の大学病院に入院した次の日の事です。


 興奮してあまり眠れなかった亜梨沙は目の下に濃いくまを作り、父龍之介の見送りに現れました。


「大丈夫か、亜梨沙?」


 龍之介が亜梨沙を案じて尋ねます。


「大丈夫よ、パパ。私はまだ十七歳だから」


 亜梨沙は精一杯見栄を張って微笑みました。


 それを聞いて、最年長のメイドと庭師達が傷ついたのを亜梨沙は知りません。


「では、行って来る」


 龍之介は亜梨沙にキスしてもらうと、リムジンの後部座席に乗り込みました。


 トーマスと彼に付き添ったキャサリンがいないと、有栖川邸の朝は華やかさが激減しています。


(トム……)


 亜梨沙は小さく溜息を吐きました。


(今日は学校が終わったら、そのまま病院に行こう)


 亜梨沙は心の中で決意しました。


 


 亜梨沙は龍之介の見送りをすませると、すぐに鞄を肩にかけて庭を走ります。


 今日はヒヨコさんか。亜梨沙のパンチラを心ならずも見てしまった庭師の一人が思いました。


 亜梨沙自身は自分がそこまでパンツを見られているとは思っていないので、走り方を変えようとか考えてはいません。


 龍之介が昨夜スカートの丈について何か言いかけたのですが、亜梨沙は全く聞いていませんでした。


 彼女はトーマスの事で頭がいっぱいだったのです。


 邸の門をくぐり、舗道に出た亜梨沙は速度を緩める事なく、天照学園高等部に向かってペースを保って走ります。


「おはよう、亜梨沙」


 その先で蘭と桃之木彩乃が待っていました。


 二人共何か訊きたそうな顔をしています。嫌な予感がした亜梨沙は逃亡を企てました。


「おはよう、蘭、彩乃」


 亜梨沙は二人に挨拶を返し、そのまま走り去ります。


「ちょっと亜梨沙、待ちなさいよ」


 蘭が慌てて追いかけます。


「ああん、待ってよお、亜梨沙ちゃん、蘭ちゃん」


 彩乃も驚いて二人を追いかけました。


 そんな三人を後方で早乙女小次郎が見ていました。


「ああ、悩むなあ……」


 小次郎は腕組みをし、首を横に激しく振りました。


「何を悩んでいるんだ?」


 その横に親友の高司譲児が立ち、尋ねます。


「有栖川はあの執事さんが好きなんだろ? だったら、桃之木の方が可能性があるかなと思ってさ」


 小次郎は大真面目な顔で言いました。譲児は呆れ顔になり、


「お前、本当に頭が悪いな。桃之木はジョニデ命なんだぞ。どちらかと言えば、桃之木の方がハードル高いだろ?」


「そうか? 所詮外国の俳優なんて高望みし過ぎだから、桃之木もいつか目を覚ますかも知れないと踏んだんだが、ダメかな?」


 小次郎はあくまでポジティブシンキングです。


 もし桃之木が目を覚ましても、お前のところまで降りて来るとは限らないぞ。


 譲児はそう思いましたが、さすがに小次郎が可哀想で言えません。


「まあ、お前の好きにすればいいさ」


 譲児は肩を竦めて歩き出しました。


「おう、もちろんそうするつもりさ」


 小次郎はニッとして譲児を追いかけました。


 


 トーマスが大学病院に入院した事は坂野上麻莉乃先生にも伝わっていました。


(バトラーさん、大丈夫かしら?)


 居ても立ってもいられない麻莉乃先生です。


 当然の事ながら、美津瑠木新之助先生もその情報を入手していました。


(麻莉乃先生、まさかあの金髪執事のお見舞いに行くつもりでは……)


 新之助先生はいつになく鋭い推理を展開します。探偵の方が向いているかも知れません。


(こうなったら直接対決して……)


 トーマスとフェンシングで戦っている妄想をする新之助先生は探偵事務所開業の前に検査入院した方がいいかも知れません。


 新之助先生が麻莉乃先生を見ているのを職員室の隅から睨んでいるのは、眼鏡からコンタクトレンズに変えた三年の錦織瑞穂です。


 そのせいでクラスの男子には人気急上昇ですが、同学年には興味ゼロです。


(先生ったら、この前はあんなに嬉しそうだったのに!)


 瑞穂は新之助先生と教室まで一緒に廊下を歩くのが何よりの楽しみなのです。


 最近では、新之助先生も瑞穂を待っていてくれるような気がしていたのです。


(男って奴はそんなものなの!?)


 怒りで拳が震える瑞穂です。


 更にその瑞穂を廊下の角から見ているのが、彼女のクラスメートの寺泉学です。


(瑞穂ォ……)


 結局映画の鑑賞券を渡せないままで無駄にしたヘタレです。


(美津瑠木、いつかぶちのめす)


 学も新之助先生とフェンシングで対決する妄想をしました。


 同じ病棟に入院の必要がありそうです。


 


 亜梨沙は校舎に辿り着いた時に、蘭と彩乃にトーマスの入院先を訊かれました。


(それを教えたくないから、早めに出たのに……)


 そんな亜梨沙の考えを見事に見抜いたのは蘭で、彩乃は何となく早く来ただけでした。


「どうせ今日、お見舞いに行くんでしょ? 一緒に行こうよ」


 蘭が提案します。亜梨沙はギョッとしましたが、ダメとは言えず、困ってしまいます。


「そうね。小次郎君も譲児君も誘って行きましょうよ」


 彩乃の危険球が投下されました。亜梨沙と蘭が同時に彼女を見ます。


「あれ? どうしたの、二人共?」


 まるで気づいていない彩乃はニコニコして尋ねました。


「はあ……」


 亜梨沙と蘭は同時に大きな溜息を吐きました。


「執事さんは有栖川大学付属病院に入院してるのか」


 すっかり亜梨沙達の会話を盗み聞きした小次郎はニヤリとして呟きます。


「お前、まさか悪さするつもりじゃないだろうな?」


 譲児が白い目で小次郎を見ます。すると小次郎は嫌な汗をたくさん掻き、


「な、何を言い出すんだよ、譲児。そんな事考えてる訳ないだろ? 純粋にお見舞いに行きたいだけだよ」


と棒読みの言い訳をしました。呆れ返る譲児です。


 


 その頃、トーマスに付きっ切りで病室にいたキャサリンはベッドの脇のパイプ椅子でついウトウトしてしまいました。


「ケイト、もう大丈夫だから、邸に帰りなさい」


 トーマスはベッドを操作して身体を起こしながら言いました。


 二人の時は当然の事ながら会話は英語です。


「え?」


 キャサリンはハッとして目を開けました。


「私、寝てたの?」


 キャサリンはとても恥ずかしそうに尋ねました。亜梨沙を睨む時と別人のような乙女なキャサリンです。


 トーマスはキャサリンを気遣う優しい笑顔で、


「いや、ちょっとウトウトしていただけだよ」


「良かった。トムに寝顔を見られるの、恥ずかしいから」


 キャサリンは頬を赤らめて言いました。トーマスは苦笑いして、


「お前の仕事は私の付き添いではないはずだよ、ケイト。二人揃って、有栖川様のお邸を空けていては、旦那様に申し訳ないだろう?」


「そうだけど……」


 キャサリンは悲しそうに口を尖らせ、トムを上目遣いに見つめます。


 普通の男なら、たちまち落ちてしまうくらい強烈なキャサリンのウルウルな眼差しですが、さすがお兄さんです。


 トーマスは全く何ともないようです。


「ケイト」


 トーマスは真顔でキャサリンを見つめ返しました。


 キャサリンは真っ赤になって俯き、


「ごめんなさい、トム。お邸に帰るわ」


「いい子だ」


 トーマスはまた笑顔になります。


「また夜に来るわ、トム」


 キャサリンはトーマスの頬にキスして、病室を出て行きました。


 トーマスは小さく溜息を吐きました。


 


 放課後です。


 亜梨沙は項垂れています。


 蘭はムッとしています。


 譲児と小次郎は二人の様子が妙なので首を傾げています。


 彩乃は一人でニコニコしています。


 そして、麻莉乃先生は蘭を挑発するような目で見ています。


(どうして麻莉乃先生まで一緒なの?)


 亜梨沙と蘭はそれぞれの心の中で同じ事を思いました。

 

「大学病院ならここから歩いて行けるから、ちょうど良かったわ」


 麻莉乃先生は蘭の敵意を受け流して言いました。


「さあ、行きましょう」


 麻莉乃先生は大きなファー付きの毛皮のコートを翻して歩き出します。


「亜梨沙ちゃん、蘭ちゃん、行かないの?」


 能天気な彩乃の問いかけに同時にキッとして彼女を睨む亜梨沙と蘭です。


(こいつが麻莉乃先生を誘ったのか?)


「どうしたの?」


 でも彩乃には二人の怒りの眼差しも届かないようです。


「麻莉乃先生もいいなあ」


 小次郎は麻莉乃先生の後ろ姿を舐めるように見て呟きました。


「バカだな、お前は」


 小次郎は呆れて先に歩き出します。


 亜梨沙はメンバーの脚力を計算していました。


(麻莉乃先生は未知数だけど、どう見ても運動は苦手そうだし、彩乃は論外だし、蘭も長距離を走るのは苦手だから……。早乙女君と高司君はもし来たら口止めすればいいか)


 全員を振り切る作戦を決行するつもりの亜梨沙です。


「ごめんなさい!」


 亜梨沙は麻莉乃先生に詫びると、ダッと駆け出しました。


「あ、有栖川さん!」


 麻莉乃先生が亜梨沙を呼び止めようとしますが、亜梨沙はパンチラ全開で駆け去ってしまいました。


「亜梨沙!」


 蘭は亜梨沙の企みを瞬時に見破りました。


(あいつ、トムの病室を知られたくないのね!)


 しかも有栖川グループの病院ですから、令嬢の亜梨沙の命令は絶対なのです。


 病院の人は誰も教えてくれないでしょう。


「待ってよ、亜梨沙ちゃん!」


 彩乃が慌てて追いかけようとしますが、蘭は、


「大丈夫、彩乃。手はあるわ」


と言って悪い魔女のような顔でニヤリとしました。


(ちょうどいいわ。麻莉乃先生を帰らせるいいチャンスね)


 小次郎は亜梨沙のパンチラをよだれを垂らして見ていましたが、


(蘭さん、顔が怖いよ)


 譲児は蘭の裏の顔を見た気がしてゾッとしていました。


「先生、亜梨沙は私達に来て欲しくないみたいです。諦めて帰りましょう」


 蘭は微笑んで麻莉乃先生に提案しました。麻莉乃先生は亜梨沙が駆け去った方角を見たままで、


「そうね。出直すしかないようね」


と言って溜息を吐きました。


(バトラーさんのお見舞いをしたかったのに……。有栖川さん、後でお説教よ)


 麻莉乃先生はフッと笑いました。怖い女がもう一人いました。


「ではまた明日ね」


 麻莉乃先生は横断歩道を渡り、通りの反対側のバス停を目指しました。


「よし、邪魔者は一人消えたわ」


 蘭はまたニヤリとします。譲児はまたゾッとしました。


「蘭ちゃん、どうするの?」


 彩乃が途方に暮れた顔で尋ねました。


「亜梨沙の家に電話するの」


 蘭は携帯を取り出して言いました。


「蘭ちゃん、頭いいね。麻莉乃先生にも教えてあげましょうよ」


 天然炸裂の彩乃です。蘭は一瞬固まりましたが、


「それはまた後でね」


と受け流し、亜梨沙の家に電話します。


 電話はワンコールでメイドの一人が出ました。


「桜小路です。トーマス・バトラーさんが入院している病棟と病室を教えてください」


 蘭は単刀直入に切り出します。


 しばし間があって、メイドが言いました。


「申し訳ありません、桜小路様。どなたにも教えないようにとお嬢様から言いつかっております」


 メイドの答えを聞き、蘭は項垂れました。


(亜梨沙め、手回しがいいわね……)


「わかりました。ありがとう」


 蘭は携帯を切り、きびすを返しました。


「帰ろう、彩乃。今日は亜梨沙の作戦勝ちだわ」


「ええ?」


 彩乃はびっくりして歩き出した蘭を追いかけます。


(亜梨沙、今日のところはトムとの逢瀬は貴女に譲るわ)


 蘭は晴れやかな顔になりました。


「俺は一人でも行くぞ。有栖川の匂いを辿ればわかるはずだ」


 収まりがつかない小次郎が鼻息荒くそう言うと、


「お前一人を行かせる事は断じてできないよ」


 譲児ははやる小次郎の襟首を掴み、引き摺るようにして蘭を追いかけます。


(俺としても、蘭さんとトーマスさんを会わせたくないから、ちょうどいいんだよ、小次郎)


 言う事を聞かない犬のように逆らう小次郎ですが、所詮非力です。


「ほら!」


 グイッと譲児に引っ張られ、遂に諦めました。


 


 亜梨沙は蘭達が追いかけて来ないのを確認すると、フウッと息を吐き出し、病院の待合室を奥へと歩いて行きます。


 スタッフが亜梨沙に気づき、会釈してすれ違います。


 亜梨沙は昨日とは違って幾分余裕があるので、微笑んで会釈を返しました。


(ケイトは邸に戻ったって聞いたから、一安心ね)


 亜梨沙は邸のメイド達に誰にもトーマスの事を教えてはいけないと言った時、キャサリンが帰っている事も確認したのです。


「あ……」


 亜梨沙は廊下を陽気な調子で進んでいてある事に思い当たります。


(という事は、病室にはトムしかいないの?)


 それはそれでドキドキしてしまう亜梨沙です。


 急に歩調が遅くなります。それどころか、止まってしまいました。


(狭い病室で二人きり……)


 顔が完熟トマトのように赤くなる亜梨沙です。


(バカだ、私。誰かと一緒に来れば良かった……)


 自分の浅はかさに項垂れる亜梨沙です。


(どうしよう?)


 今更蘭に連絡して来て欲しいとは頼めません。


 小次郎なら喜んで来るでしょうが、亜梨沙の頭の中には彼は残念ながら存在していないのでした。


 その時、トーマスの病室から担当の看護師が出て来ました。


「おお!」


 亜梨沙は素早く看護師に駆け寄ると、


「ちょっといいですか」


「え、あの、お嬢様、何ですか?」


 亜梨沙は強制的に看護師を病室に戻らせ、自分はその後から中に入りました。


「お嬢様」


 トーマスはベッドを起こしていたので、その破壊力のある笑顔をこちらに向けています。


 亜梨沙は看護師を盾にしてその直撃をかわしました。


「お嬢様、どうなさったのですか?」


 看護師も職業柄イケメンには一般人よりは耐性があるようですが、トーマスの笑顔攻撃にはクラクラ来ているようです。


 彼女はこのまま病室にいるとトーマスに告白してしまいそうだったので、脱出して来たのです。


「ああ……」


 看護師は亜梨沙の替わりに笑顔の直撃を受け、倒れかけました。


「ああ、大丈夫?」


 亜梨沙は彼女を支え、パイプ椅子に座らせました。


 看護師は朦朧もうろうとしているようです。


「お嬢様、またおいでいただき、恐縮です」


 トーマスは申し訳なさそうに言いました。


「き、気にしないでよ。元はと言えば、私のせいなんだから」


 亜梨沙は俯いて応じます。まともに見たら、倒れそうだからです。


(トムの笑顔は完全復活だわ)


 嬉しいような恐ろしいような亜梨沙です。


「いえ、お嬢様のせいではありません。私のミスです。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」


 トーマスは深々と頭を下げました。亜梨沙は直視はしていないのですが、クラッと来ました。


「だったら早く戻って来てよね。そうじゃないと、私、毎日わざわざここに来なくちゃならないでしょ?」


 亜梨沙の精一杯の強がりです。するとトーマスはまた破壊力抜群の笑顔になり、


「そうですね。お嬢様にお会いするために日本に来たのに、いつまでもここにいられませんね」


「え?」


 トーマスの不思議な言葉に亜梨沙はつい彼を見てしまいます。


(ああ、トム、私を強く抱きしめてェ!)


 心の中で多重音声で叫ぶ亜梨沙です。


「できるだけ早く退院致します、お嬢様」


 トーマスは白い歯をキラッとさせて言いました。


「そんな言葉に騙されるほど私はウブじゃないんだから!」


 亜梨沙は爆発しそうなくらい速く動いている心臓を押さえながら、またしても心にもない事を言い放ち、病室を飛び出してしまいました。


かしこまりました、お嬢様」


 トーマスはもう一度優雅にお辞儀をしました。

 

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