第20話 私はあなたの一番だけどあなたも私の一番なんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。


 小さいどころか、えぐれていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。


 ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 亜梨沙はそれに気づいていません。


 更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。


 彼女も金髪碧眼の美女で、亜梨沙を動揺させました。


 キャサリンが亜梨沙に「私はトムの義理の妹」と宣戦布告して来ました。


 そんな中、亜梨沙を庇って転倒したトーマスが重傷を負ってしまいました。




 夕暮れの西世田谷区の国道を赤色灯を回転させ、けたたましいサイレンを鳴らしながら、一台の救急車が疾走していました。


 救急隊員に処置を施され、担架に寝かされたトーマス、その脇で心配そうにトムの顔を覗き込んでいるキャサリンです。


「骨折はしていないようですが」


 救急隊員がキャサリンの美しさに顔を赤らめながら説明します。


 キャサリンは隊員を一瞥して、


「私は本国で医学部に在籍していましたので説明は不要です」


 キャサリンはトーマスの手を握り、脈拍を計測しているようです。


「はあ……」


 救急隊員はキャサリンの鋭い目にビクッとしましたが、


(恋人同士?)


 トーマスを見るキャサリンの熱い眼差しにそんな憶測を展開してしまいました。


 


 その頃、亜梨沙は邸のロビーのソファに項垂れて座っていました。


 メイドや庭師やコック達が彼女を気遣うように遠くから見ていますが、声をかけられる状況ではありません。


 亜梨沙は邸に到着した救急車に乗ろうとしたのですが、


「トムの事は私にお任せください、お嬢様」


 キャサリンが目が笑っていない笑顔で亜梨沙を圧倒し、自分が救急車に乗り込んでしまったのです。


(トム……)


 亜梨沙は自分のせいでトーマスが怪我をしたので、それだけでもショックでしたが、それ以上にショックだったのは、


「貴女のせいよ」


 キャサリンが救急車に乗り込む寸前に囁くように告げたその言葉でした。


(私のせい……)


 それは亜梨沙自身も思っていた事でしたが、改めてキャサリンに言われた事によって胸の奥を鋭いナイフで抉られた気がしたのです。


 亜梨沙は涙も出なくなるほどショックを受けていました。




 外灯に明かりが灯った邸の門の周辺には救急車の出現に驚いた付近の住民が集まっていました。


 蘭や桃之木彩乃、そして早乙女小次郎も駆けつけています。


「亜梨沙に何かあったのかしら?」


 蘭は警備員に話を聞きました。


「トムが?」


 蘭は真相を知って仰天します。彩乃も驚いてしまい、目を見開いたままです。


(いかん、喜んじゃいかん!)


 小次郎は思わずガッツポーズしそうになった自分をいましめました。


 その時、携帯電話が鳴ります。


「ひ!」


 自分の浅ましさを知った神様からの怒りの電話だと思ってしまった小次郎は小さく飛び上がってしまいました。


(何だ、譲児か)


 親友の高司譲児からでした。


「何があったんだ? 有栖川の邸に人だかりができてるみたいだけど?」


 小次郎は譲児がどこにいるのか周囲を探しながら、


「あの執事さんが怪我をして救急車で運ばれたらしいんだ」


 ついニヤけてしまう小次郎です。人としてもうダメです。


「トーマスさんが?」


 譲児はトーマスとは一対一で話をした事があるので、衝撃を受けました。


 蘭がいるのを見て遠巻きに見ていたのですが、人混みをかき分けて姿を見せます。


「何だ、そこにいたのか」


 小次郎は譲児に近づきました。


「お前、トーマスさんが怪我をしたのを喜んでるだろ?」


 譲児はニヤけている小次郎を目を細めて非難します。


「え、そんなつもりはないんだけど……」


 図星なので嫌な汗がたんまりと出て来る小次郎です。最低ヤロウです。


「譲児君……」


 気まずそうに譲児を見る蘭です。彩乃はそれに気づいていないのか、


「譲児君、亜梨沙ちゃんのところに行ってあげましょうよ。きっとションボリしてるから」


 譲児も蘭を見てピクンとしますが、


「そ、そうだな。有栖川、絶対あの執事さんの事を好きだろうからな」


「え? そうなんだ。小次郎君とは別れたんだ」


 彩乃の妄想が暴走し始めます。


 亜梨沙はまた小次郎と付き合っている事になっていたようです。


(今、その言葉はいつも以上に心にズキズキ来る……)


 後ろめたさ全開の小次郎は項垂れました。もう少しで泣きそうです。


 


 亜梨沙はロビーのソファから立ち上がり、自分の部屋に行こうと歩き出しました。


「亜梨沙」


「亜梨沙ちゃん」


「有栖川」


 そこに蘭、彩乃、譲児、そしてバツが悪そうな小次郎がやって来ました。


「みんな……」


 亜梨沙はどうして蘭達が邸に来たのかわからず、驚いてしまいました。


「亜梨沙、大丈夫?」


 蘭自身もトーマスの怪我が心配で気持ちが揺らぎそうなのを堪え、亜梨沙を気遣います。


(亜梨沙を助けるためにトムが怪我をしたのなら、亜梨沙は誰よりも悲しんでいるはず)


 今は恋のライバルの立場を封印し、亜梨沙を励まそうと考えている蘭です。


 小者の小次郎には眩し過ぎて蘭を見る事はできないでしょう。


「私は大丈夫。どこも怪我はしていないから」


 亜梨沙は力なく微笑みました。


「そういう事じゃないのよ」


 蘭はじれったそうに言うと亜梨沙に近づきます。


「あ、蘭ちゃん」


 彩乃が慌てて蘭を追いかけます。


「ほら、こんな時こそ、有栖川を励まさないといけないだろ、小次郎?」


 亜梨沙に近づくのを躊躇ためらっている小次郎を引き摺るようにして譲児は進みました。


「元気出して、亜梨沙。トムは大丈夫よ」


 蘭は亜梨沙の肩にそっと手を置いて慰めます。


「うん……」


 亜梨沙は気のない返事をしました。さすがに親友だけあって、蘭は亜梨沙の異変に気づきました。


「どうしたの、亜梨沙? 何かあったの?」


 顔を覗き込むようにして尋ねる蘭ですが、亜梨沙は更に俯いてしまって何も答えようとしません。


「亜梨沙ちゃん、私達、お友達でしょ? 教えてよ。力になりたいの」


 彩乃が目をウルウルさせて言います。


「う……」


 それを見て興奮してしまう小次郎です。鼻血を垂らしかけました。


「お前な……」


 見境のない小次郎に呆れ果てる譲児です。


「ありがとう、彩乃。何でもないの。ちょっとトムが怪我をしたのに驚いただけだから……」


 亜梨沙はまた力なく微笑みました。彩乃は悲しそうな顔で蘭の方を向きます。


 蘭も亜梨沙がどうあっても理由を話すつもりがないのを知り、肩を竦めました。


「わかった。じゃあ、また明日ね、亜梨沙」


 蘭は後ろ髪を思い切り引かれている状態の彩乃を引っ張って玄関を出て行きます。


「元気出せ、有栖川」

 

 譲児はそう言って立ち去ります。小次郎は譲児について行きかけましたが、


「俺にできる事があったら言ってくれ。少しは役に立てると思うから」


と言い、先に行った譲児のところに走って行きました。


「早乙女君……」


 只のセクハラ魔神だった小次郎の言葉にジンとしてしまった亜梨沙です。


 吊り橋効果が発揮されてしまったら悲劇です。


 


 空が茜色から漆黒に染まり始めて星があちこちで輝き始めた頃、龍之介のリムジンが戻って来ました。


 トーマスの事を秘書を通じて知った彼は驚いて重役会議を抜け、帰って来たのです。


 そして、亜梨沙が夕食も採らずに部屋に閉じ籠もったままなのをメイドから聞き、彼女の部屋へと大股で向かいました。


「亜梨沙」


 龍之介はメイド達から経緯を全部聞いているので、亜梨沙がどんな心理状態なのかもわかっています。


「何?」


 亜梨沙の声は涙声でした。龍之介はすぐそれに気づきますが、


「夕食を食べていないそうじゃないか。メイドやコック達が困っていたぞ」


「今日は何も食べたくない」


 亜梨沙の声はますます涙声の度合いが高くなります。


「わかった。夕食は食べなくてもいいから、パパに顔を見せてくれないか」


 龍之介は猫撫で声全開です。廊下の角で聞き耳を立てていたメイド達は身震いしました。


「いやよ」


 亜梨沙のあまりのつれなさに龍之介の方が泣きそうになります。


「そんな事を言わずに。これからトーマスの見舞いに行くんだ。だから……」


 言い終わらないうちにドアが開き、亜梨沙が顔を出したので、龍之介はビクッとしました。


「トムのところに行くの?」


 真っ赤な目を見開き、亜梨沙は龍之介に尋ねました。


 その可愛らしさに龍之介はノックダウンしそうです。


「そうだよ」


 辛うじて父親としての面目を保ち、微笑んで応じる龍之介です。


「だから早く出かける支度をして……」


 また言い終わらないうちに亜梨沙がダウンジャケットを着て部屋から出て来たので、何となく肩透かしな思いがする龍之介です。


(もっと説得する時間があっても……)


 どうやら感動的な父娘の会話を交わしたかったようです。意外にミーハーな龍之介です。


 有栖川グループの将来が心配です。


「さ、行きましょ、パパ」


 亜梨沙はスタスタと廊下を歩いて行ってしまいました。


「あ、ああ」


 拍子抜けした龍之介は苦笑いして亜梨沙を追いかけました。


 亜梨沙は廊下を歩きながら思いました。


(パパが一緒なら、ケイトも酷い態度はとれないはず)


 亜梨沙は龍之介を利用して、強敵のケイトを退けるつもりです。


 将来が楽しみな策士のようです。


 


 亜梨沙と龍之介を乗せたリムジンはトーマスが入院している病院に向かいました。


 そこは有栖川グループの一角である医科大学付属病院です。


 有栖川グループはラーメンから宇宙開発までを担うスーパー企業なのです。


 リムジンが病院の車寄せに停まると、亜梨沙は運転手がドアを開くのを待たずに飛び出します。


「亜梨沙、はしたないぞ」


 龍之介は太り気味の身体を持て余しながら亜梨沙を追いかけます。


 グループの病院ですから、そこのスタッフは全員、亜梨沙が誰なのか知っています。


「トムはどこ?」


 亜梨沙は揉み手をしながら近づいて来た事務長らしき白髪頭の男に尋ねました。


「外科病棟の三階です。ご案内致し……」


 男がそう言いかけた時、すでに亜梨沙は駆け去っていました。パンチラさせながら。


 今日はワンちゃんかと白髪男は思いました。


「どこを見ている!」


 龍之介が事務長を叱りつけ、亜梨沙を追いかけました。


「も、申し訳ありません!」


 事務長は嫌な汗を滝のように流し、直立不動になってから深々と頭を下げました。


(やはりスカートの丈が短過ぎる。天照寺理事長に言わねばならんな)


 龍之介は以前から亜梨沙のスカート丈が気になっていたのです。


 亜梨沙と龍之介に気づき、すれ違うスタッフ達が驚いてお辞儀をします。


 亜梨沙はそれにいちいち応じず、スタスタと廊下を歩き、エレベーターホールに着きました。


「亜梨沙、速過ぎるぞ」


 龍之介は息が上がっており、顔も真っ赤です。


「パパ、運動不足よ。明日からは会社まで走りなさい」


 亜梨沙は容赦のない事を言い、扉が開いたエレベーターに飛び込みました。


「ああ、おい!」


 閉じかけた扉を強引に開き、龍之介もエレベーターに乗り込みます。


 エレベーターはたちまち三階に到着し、二人を吐き出しました。


 亜梨沙は廊下を見渡し、看護師を発見すると駆け寄りました。


「トムの病室はどこ?」


 亜梨沙の鬼気迫る形相にビクッとした看護師ですが、


「あ、あの、305号室です」


と辛うじて告げる事ができました。


「ありがとう」


 亜梨沙は疾風の如くパンチラさせて駆け去ります。


「すまんな。悪く思わんでくれ」


 龍之介は苦笑いして看護師に詫び、亜梨沙を追いかけました。


 すでに亜梨沙は305号室の前に着いており、イライラした顔で龍之介を待っています。


「パパ、遅いわよ」


 亜梨沙は口を尖らせて言います。


「先に入っていればいいだろう」


 フラフラになりながら龍之介は言いました。すると亜梨沙は赤面して、


「パパを待っていたのよ。何言ってるの!?」


と恩着せがましい言葉を並べ立てました。


 中にキャサリンがいるはずなので、本当は一人で入るのが怖いのです。


 でもそんな事は噯気おくびにも出さない亜梨沙です。


「そうか」


 亜梨沙の真意を知らない龍之介は嬉しそうです。顔がニヤけています。


 そして、ドアをノックします。


「どうぞ」


 亜梨沙の予想通り、中からキャサリンの声が応じます。


「私だ。入るぞ」


 龍之介は扉をゆっくりと動かし、中に足を踏み入れます。


「旦那様」


 キャサリンはベッドの横に立っていましたが、ご主人様の登場に驚き、深々と頭を下げます。


 亜梨沙はキャサリンに会釈をしてから、龍之介の後ろにつき、トーマスのそばに行きます。


 キャサリンは亜梨沙がいるのに気づいてキッとしましたが、龍之介の前では大人しくするしかないようです。


 キャサリンが仕掛けられないのを知り、亜梨沙はホッとしてトーマスを見ます。


「意識は戻らないままか?」


 龍之介は酸素吸入器をあてがわれて眠っているトーマスを見て尋ねます。


「はい。脳波には異常はないようですが、脳震盪を起こしたようです。しばらく安静にすれば目を覚ますと思います」


 キャサリンはトーマスを悲しそうに見て答えました。


「さあ、亜梨沙」


 龍之介はトーマスに様々な器具が取り付けられているのを見て尻込みしてしまった亜梨沙を引き寄せ、トーマスのそばに連れて行きます。


「言うべき事があるだろう、亜梨沙?」


 龍之介は優しい眼差しで亜梨沙を促します。亜梨沙はハッとして龍之介を見上げました。


 龍之介は黙って頷きました。亜梨沙はもう一度トーマスを見ます。


 トーマスは只眠っているだけのように見えました。


「トム……」


 亜梨沙はトーマスに近づいてひざまずきました。


 龍之介とキャサリンはそれを見てほぼ同時に驚きました。


「トム、ありがとう。そして、ごめんなさい。私のせいでこんな……」


 亜梨沙の奇麗な瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちます。


 その時、トーマスの胸が大きく膨らみ、点滴を受けている右腕が微かに動きます。


「トム?」


 亜梨沙は思わずその手を包み込むように握りました。


(温かい……)


 トーマスの手は心地よい温かさでした。


 それを見たキャサリンはムッとしますが、龍之介がいるので何も言えません。


 閉ざされたままだったトーマスのまぶたが震えたかと思うと、ゆっくりと開いて行きます。


「トム!」


 もう一度亜梨沙が呼びかけました。


「あ……」


 トーマスは目を開き、亜梨沙を見ました。


 亜梨沙はドキッとし、息を呑みます。


「お嬢様、おはようございます。どうなさいましたか?」


 トーマスは弱々しく微笑んで言いました。


 亜梨沙の瞳からまた涙の粒が零れます。


「記憶が混濁しているのです。今の状況がはっきりわかっていないのでしょう」


 キャサリンは医学部出身らしくそう言いました。


「トム、聞こえる?」


 亜梨沙は涙を拭って言います。


「はい、お嬢様」


 トーマスはまた微笑みますが、いつもの「破壊力」はありません。


「私はあなたの一番だけどあなたも私の一番なんだから!」


 亜梨沙はそう叫ぶと、ダッと病室を飛び出し、廊下を走り去ってしまいました。


「おい、亜梨沙……」


 龍之介は唖然としてしまい、亜梨沙を追いかける事ができません。


「ありがとうございます、お嬢様」


 トーマスの笑顔に少しずつ光が戻って来て、白い歯が輝きました。


「トム……」


 それを何とも言えない表情で見ているキャサリンです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る