第10話 あの子にドキッとしたからって、別にあなたに言い訳するつもりはないんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 ちなみに亜梨沙はそれなりに美少女です。でも胸が小さいのを気にしています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 でも誰にも言えずにいます。


 ところが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 でも、亜梨沙はそれに気づいていません。




 クラスメートの高司譲児が、


「執事さんに会って話がしたいんだけど」


と言い、亜梨沙の邸にやって来ました。


 トーマスと譲児の笑顔攻撃の間にいた亜梨沙は、もう少しで失神しそうになりました。


 亜梨沙は譲児がトーマスにどんな話があるのかわかりませんが、どうしてもいけない妄想が始まってしまいます。


(まさか、まさか本当に高司君、トムに告白?)


 頭が爆発しそうになる亜梨沙です。でも、何食わぬ顔で応接間に入る勇気はありません。


(どうすればいいの……?)


 ドキドキしながら、亜梨沙は自分の部屋に向かいました。


(やっぱり凄く気になる!)


 亜梨沙は部屋に入ると、制服を脱ぎ捨てました。


「げ」


 ふと胸を見ると、心なしか小さくなった気がしてしまいます。


『ほらほら、そんなに強く押さえつけたら、ない胸がもっとなくなるぞ、有栖川』


 セクハラ魔神の早乙女小次郎に言われた言葉を思い起こし、落ち込む亜梨沙です。


 でも、完全に気のせいです。


 


 当事者のトーマスと譲児は、応接間のソファに向かい合って座っていました。


 トーマスが淹れた紅茶の香りが部屋全体に広がっています。


「お話とは、どのような事でしょうか?」


 トーマスはキラッと歯を光らせて譲児に尋ねます。


(これが学園中の女子を虜にした笑顔か。蘭さんもこの笑顔に……)


 譲児には、亜梨沙が妄想したような趣味はありませんが、トーマスの笑顔には思わずいけない感情が芽生えそうです。


 譲児は蘭を落とす前に自分がトーマスに落ちてしまっては元も子もないと思い、紅茶を一口飲んでから、


「実は、好きな子がいるのですが、その子が別の男性に夢中で、全然僕の事を見てくれないのです」


と単刀直入に切り出しました。


「そうなのですか」


 またトーマスはニコッとします。


「貴方ほど眉目秀麗な方が、私如きにそのような悩み事をご相談になるとは、身に余る光栄です」


 トーマスの言葉は、他の誰かが言ったら、確実に嫌味に聞こえるのでしょうが、譲児には最上の謙遜に聞こえました。


(さすが執事さんだ。言い回しの機微が卓越してる)


 譲児は、変な意味ではなく、トーマスの事が好きになりました。


「そんな事はないですよ。実際にバトラーさんは、僕らの学園の女子達を虜にしているではないですか」


 譲児は話を進めるためにそう言ってみました。トーマスが女子達の事をどう思っているのか、知りたかったからです。


「とんでもないです。そのような事はあり得ません」


 トーマスは恥ずかしそうに言います。譲児は仰天しました。


(この人、全然自分の凄さに気づいていないのか!?)


 無意識のうちに女性を虜にしているとしたら、トーマスから得るものはないと譲児は感じました。


(ダメだ。この人には勝てない。この人のこの雰囲気は、生まれ持ったものだ。俺には真似できる事ではない)


「それでも、私の方が年上ですから、何某なにがしかのアドバイスを差し上げられるかも知れません」


 トーマスは真っ直ぐに譲児を見ました。譲児はもう少しで、


「好きになってもいいですか?」


と訊いてしまいそうです。


「どんな事でしょうか?」


 譲児は身を乗り出して尋ねました。トーマスはまた微笑んで、


「自分を飾らない事。ありのままの自分を見せる事です」


 ごく当たり前の事を言われ、譲児はドスンとソファに戻りました。


(やっぱりこの人は天然なんだ……)


 トーマスは更に、


「気になるご婦人には、どうしても自分を飾って見せたくなるものです。しかし、ご婦人方はそのような男の小細工を簡単に見破ってしまいます」


 譲児はギクッとしました。思い当たる事があるからです。


(俺はいつも、精一杯背伸びして、蘭さんに話しかけていた。それを蘭さんは全部見透かしていたのか?)


「これは私の経験ですから、高司様のケースに当てはまるかわかりませんが、お心に留めていただければ幸いです」


 トーマスの言葉に譲児は我が身を振り返り、嫌な汗が出て来ました。


「高司様?」


 トーマスは譲児が黙ったままなので、心配になったのか、声をかけました。


「あ、すみません、ボンヤリしていました」


 譲児はハッと我に返り、苦笑いをして応じました。


 そして立ち上がります。トーマスもそれに応じて立ち上がりました。


「ありがとうございました、バトラーさん。非常に参考になりました」


 譲児はトーマスと握手を交わします。


「力になれたのでしたら、光栄です」


 トーマスはギュッと譲児の手を握ります。譲児は思わず赤面しました。


「それから、私の事は、トムか、トーマスとお呼びください」


 トーマスは微笑んで言いました。またしてももう少しで落ちそうになる譲児です。


「はい。では、僕の事も、譲児と呼んでください」


 譲児も精一杯の笑顔で言いました。


(あ、これがいけないのか。自然体でないとな……)


 反省する譲児です。


かしこまりました、譲児様」


 トーマスは微笑んで応じました。


 二人は応接間を出ました。トーマスが譲児を先導して玄関に向かっていると、意識を回復したのか、坂野上麻莉乃先生が客間から出て来ました。


「坂野上先生、お加減はもうよろしいのですか?」


 トーマスが笑顔で近づきます。譲児はトーマスの立ち居振る舞いを見て、


(なるほど、トーマスさんにはまるで下心が感じられない。あくまでも紳士的だ)


と感心します。


「ああ、バトラーさん。まだ少しふらつきますの」


 麻莉乃先生は明らかに急に具合が悪くなったようにトーマスにしな垂れかかります。


「大丈夫ですか、坂野上先生?」


 譲児が驚いて駆け寄りました。


「え、高司君?」


 麻莉乃先生はその時ようやく譲児に気づき、慌ててトーマスから離れました。


(まずい……。今のはまずい……)


 麻莉乃先生は焦りました。


(私の教員人生が……)


 クビになって、場末のスナックで飲んだくれている姿まで妄想してしまいます。


 それくらいでクビになるのなら、学園前でトーマスを誘惑した時点でクビになっているはずです。


「も、もう大丈夫ですから、バトラーさん。では、ご機嫌よう」


 譲児の出現で、撤退を余儀なくされた麻莉乃先生は、逃げるように邸を出て行きました。


「お気をつけて」


 トーマスはお辞儀をして言いました。


(麻莉乃先生、トーマスさんに迫るために来たのか。凄いな)


 譲児は麻莉乃先生の執念を感じました。


「あら、譲児君、もう帰るの?」


 私服に着替えた亜梨沙が戻って来ました。


 ローズピンクと黒のボーダーのニット地のロングパーカーを着ています。


 一応黒のデニム地のショートパンツを履いているのですが、パーカーの裾が長いので、何も履いていないようにも見えます。


 譲児は思わずいつもはニーハイソックスに隠れている亜梨沙の生脚を見てしまいます。


「な、何、高司君?」


 譲児がジッと自分を見ているので、ドキドキしてしまう亜梨沙です。


(ああ、ダメよ、譲児君、私はトム一筋なんだから……)


 また妄想世界を開放する亜梨沙です。


「いやあ、有栖川の私服、初めて見たからさ。可愛いなと思って」


 譲児は別に他意なくそう言いました。


「あ、ありがとう……」


 亜梨沙はパプリカも逃げ出すほど赤くなって言いました。


(可愛いなんて、初めて言われた……)


 亜梨沙は一応高等部の男子達の憧れの対象ですが、大富豪のお嬢様という大きな肩書きが邪魔して、今まで告白された事がありません。


 当然の事ながら、男子と付き合った事もありません。


 父龍之介は、亜梨沙には甘いのですが、男女関係には厳しく、亜梨沙に届いた男子からの手紙をことごとく破り捨てていました。


 その事も、亜梨沙が恋に不慣れで臆病になってしまった原因です。


 ですから、面と向かって「可愛い」と言われた事はないのです。同年代の男子には。


「じゃあ、帰るね。今日はありがとう」


 譲児は亜梨沙の手を取って握手をして来ました。


 ドキッとしてしまい、ハバネロも驚くくらい赤くなる亜梨沙です。


「う、うん、どう致しまして」


 亜梨沙はそれだけ言うと、引きつり笑いをしました。


 譲児は微笑んで見ていたトーマスに顔を向け、


「トーマスさん、今日はありがとうございました」


「いえ、こちらこそ、あまり力になれず、申し訳ありません」


 トーマスと譲児の微笑み合戦にまた意識が遠のく亜梨沙です。


「ここでいいですから」


 譲児は玄関を出たところで亜梨沙とトーマスに言いました。


「じゃあ、また明日な、有栖川」


 譲児は亜梨沙に手を振って庭を歩いて行きました。


「うん」


 亜梨沙は顔の火照りを感じながら、手を振り返しました。


 譲児が門のところまで行った時、


「ねえ、トム」


 気になったので、早速切り出す亜梨沙です。


「はい、お嬢様」


 トーマスが亜梨沙を見ます。


(うわ、やっぱり高司君よりトムの方が……)


 亜梨沙はこの数十分でもう死んでしまうそうなくらいイケメンパラダイスを体験しています。


「高司君と何を話したの?」


 亜梨沙は堪え切れずにトーマスから視線を外して尋ねます。


「譲児様は、お好きなご婦人がいらっしゃるのだそうです。その事でお悩みのご様子でした」


 トーマスは門の方を見て答えました。


「そうなんだ」


 亜梨沙もトーマスと同じ方向を見ます。


(蘭の事ね)


「どんな悩み?」


 亜梨沙はチラッとトーマスを見ましたが、トーマスが亜梨沙を見ているので、また視線を逸らします。


「それは例えお嬢様にでも申し上げられません」


 トーマスは深々と頭を下げます。亜梨沙はその仕草にドキッとしながら、


「そ、そう」


と応じました。


 


 有栖川邸を出た譲児は、家へと向かいます。


(考えてみたら、有栖川って、誰とも付き合っていないんだよな)


 そう思いますが、親友の小次郎が血の涙を流す姿が浮かび、考えを振り払います。


「それは人としてダメな事だよな」


 蘭を諦め、亜梨沙に乗り換えるのは、亜梨沙にも小次郎にも失礼だと思う譲児です。


 譲児は、亜梨沙に振り向いてもらえない小次郎が、思い余って天然爆弾娘の桃之木彩乃に乗り換えようとした事を思い出し、苦笑いします。


「やっぱり俺は蘭さん一筋だ」


 譲児が亜梨沙に乗り換えなかったのは「胸」が原因なのは内緒です。特に亜梨沙には。

 



 その譲児の思い人の蘭は、また自分の部屋でチワワのルルを相手に特訓です。


「ルル、ほら、ご馳走よ」


 高等部指定のジャージに着替えた蘭はビーフジャーキーを手に持ち、部屋の隅で唸るルルに言います。


「ルルゥ……」


 蘭は泣きそうです。


(いろいろな本を読んだのに、どうしても懐いてもらえない……)


 蘭は床にペタンとしゃがみ込みました。


「ねえ、ルル、どうしたらいいの、私は?」


 涙で潤んだ瞳でルルを見る蘭です。クラスの誰にもそんな弱気な顔は見せた事がありません。


「ううう……」


 蘭は床に両手を着き、ポロポロと涙を零しました。すると、


「クウウン……」


 ルルが唸るのをやめて、蘭に近づきます。そして彼女の右手をペロペロと舐め始めました。


「え?」


 蘭はびっくりしましたが、ルルが初めて近づいてくれた事に感激しました。


「ルルゥ!」


 抱きしめようとしましたが、


「グルル!」


 また唸り出して離れてしまうルルです。


「ああ……」


 蘭は項垂れました。


 


 亜梨沙とトーマスは譲児の見送りをすませて、邸の中に入りました。


「譲児君ね、蘭の事が好きなの」


 亜梨沙が言いました。するとトーマスはびっくりしたようです。


「そうなのですか?」


 亜梨沙はトーマスのそのリアクションがまたガンと心を直撃したので、真っ赤になりました。


(ああ、驚いた顔も素敵よ、トムゥ!)


 心の中で雄叫びを上げる亜梨沙です。


「私は、てっきり、譲児様はお嬢様の事をお好きなのではないかと思っておりました」


 トーマスの発言は、ギガトン級の破壊力がありました。亜梨沙は気絶しそうです。


(そ、そんな事ないわ! 高司君は、蘭が好きなのよ!)


 トーマスと譲児に挟まれてイケメンパラダイスな自分を妄想してしまう亜梨沙です。


「お嬢様も、譲児様を?」


 トーマスが微笑んで亜梨沙を見ました。


 先程の譲児とのやり取りを見ていれば、誰でもそう思ってしまうでしょう。


 亜梨沙は心臓が秘孔を突かれたように破裂するのではないかと思いました。


(違うのよ、トム! 私が好きなのは、貴方! 貴方なのォ!)


 それが言えない亜梨沙です。


「あの子にドキッとしたからって、別にあなたに言い訳するつもりはないんだから!」


 またしても意味不明な事を口走り、駆け出す亜梨沙です。


「申し訳ありません、お嬢様」


 トーマスは深々と頭を下げました。


 いつものように、通りかかったメイド五人が揃って気絶しました。

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