第2話 送ってもらったからって、あなたに恋した訳じゃないんだから!

 有栖川ありすがわ亜梨沙ありさは大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼へきがん。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 


「では、行って来る」


 龍之介はいつものように会社に出勤です。


 メイド十人、庭師五人、コック三人、警備員二十人が龍之介を見送ります。


 そして今日からはそれに加えて、トーマスも見送ります。


「亜梨沙はどうした?」


 龍之介は姿が見えない愛娘の事をメイド達に尋ねます。


「お嬢様は本日お身体の調子が優れないと仰いまして」


 メイドの一人が言いにくそうに話します。


「朝食でトーストを五枚も平らげて、牛乳を二リットル飲んだのに、調子が悪いのか?」


 それはむしろ食べ過ぎです。龍之介は、また亜梨沙の仮病が始まったと思いました。


「仕方のない奴だな」


 彼は亜梨沙の行ってらっしゃいのキスが欲しかったのですが、


「今日は早朝会議の日だ。時間がない。行って来る」


と言うと、寂しそうにリムジンに乗り込み、邸を出発しました。


「行ってらっしゃいませ」


 トーマス達は声を揃えて言いました。


「お嬢様は本当はどうされているのですか?」


 トーマスは龍之介の見送りをすませると、メイドの一人に訊きました。


「多分、お部屋です。何か嫌な事があったのか、出てらっしゃらないのです」


 メイドはポオッとしながらトーマスに答えます。すでに初日でメイド十人全員がトーマスに惚れてしまいました。


 でもトーマスはそれがわかっていません。


「そうなのですか」


 トーマスは心配そうな顔で応じ、亜梨沙の部屋に向かいました。


 


 その頃亜梨沙は自分の部屋でベッドに突っ伏して、


「ああああ、死にたいィッ!」


と叫んでいました。




 彼女は今朝、朝食をすませてから久しぶりに来たあれを感じ、自分専用のバスルームへと走りました。


 もちろん朝シャンではなく、お通じの方です。


 牛乳二リットルが効いたのか(そんなに早く効きませんね)、快便でした。


「すっきりしたあ! 三日ぶり!」


 亜梨沙は鼻歌交じりにお腹をポンと叩いて大声で言いました。


 その時でした。


「おはようございます、亜梨沙お嬢様」


 廊下の先にいるトーマスが、亜梨沙に気づいて挨拶したのです。


「あああ……」


 顔から溶岩が噴き出しそうなくらい赤くなった亜梨沙は、そのまま自分の部屋に走って行ってしまいました。


 トーマスは、実は亜梨沙の独り言を聞いてはいないのですが、亜梨沙はトーマスに聞かれたと思ってしまったのです。




(ううう……。昨日に引き続いて、私ってば……)


 泣きそうになる亜梨沙です。


(バトラーさんに聞かれたわ……。死にたい……)


 亜梨沙はとても学校に行く気になれません。


 その時、部屋のドアがノックされました。


「誰?」


 亜梨沙は、


(きっとパパがメイドに言って呼びに来させたんだわ、行ってらっしゃいのキスをしに来いって)


と思いましたが、


「トーマスです。お嬢様、お加減は如何ですか?」


「ひいい!」


 亜梨沙はまさかトーマスが来るとは夢にも思わなかったので、思わず顔を引きつらせて叫んでしまいました。


「お嬢様、どうなさいましたか?」


 トーマスの声が更に尋ねます。


「な、何でもないわよ。何の用ですか、バトラーさん?」


 亜梨沙はベッドから起き上がって尋ねました。


「お嬢様のお加減が悪いと聞きまして、お伺い致しました」


 トーマスの声にウットリ聞き惚れてしまう亜梨沙です。


(何て素敵な声なの……)


 そして、ハッと我に返ります。


(でも、聞かれたのよ、今朝……。私の恥ずかしい言葉を……)


 本当は、トーマスを部屋に入れて、もっと近くであの美しいと形容するしかない顔を眺め、まるで天文学的数字で取引されるバイオリンのような高貴な声を聞きたいのです。


「わ、私を笑いに来たんでしょ、バトラーさんは?」


 意味不明の切り出し方をし、墓穴を掘る亜梨沙です。それもかなり深いです。


「お嬢様を笑うなど、あり得ません。失礼があったのでしたら、お詫び致します」


 トーマスの受け答えはあくまで優雅で気品に溢れています。


(どうしよう? どうすればいいの、私?)


 まるで冬ごもり前の熊のように部屋の中をノソノソと歩き回る亜梨沙です。


「いえ、そんな事はないです。どうぞお仕事にお戻りください、バトラーさん」


 亜梨沙はようやくそれだけ言いました。


「かしこまりました、お嬢様」


 トーマスが立ち去ってくれるので亜梨沙はホッとしてベッドに腰を下ろします。


「お嬢様」


 トーマスはまだいました。亜梨沙はビクッとして、


「は、はい」


「私の事は、トーマス、あるいはトムとお呼びください」


 トーマスの声が言いました。亜梨沙は顔を茹で上がったトマトのように赤くして、


(ファ、ファーストネームを呼ぶの!? それって、もっとドキドキしてしまうわ!)


 男女が名前で呼び合うのは家族か恋人同士だと思いこんでいる旧石器時代並みの発想の亜梨沙です。


「失礼致します」


 トーマスは亜梨沙の答えを待たずに今度こそ立ち去ったようです。


(トム。亜梨沙……)


 ベッドの上で相合傘を描いてしまう年齢不詳疑惑が浮上しそうな亜梨沙です。


(あんなに素敵な人が、私の事を笑いに来るはずないし、そんな事を考えるはずないわ)


 結構ポジティブシンキングの亜梨沙です。もう立ち直りました。


「ああ!」


 そして、学校に遅れそうなのを思い出します。


 鞄の中身を確認し、服装をチェックし、部屋を飛び出します。


「また麻莉乃まりの先生のお説教を聞くのはごめんよ!」


 亜梨沙はパンチラをものともせず、廊下を走ります。


「お嬢様、どうされましたか?」


 またしても廊下の先に立っているトーマスです。


「ひいい!」


 亜梨沙は思わずヒラヒラしていた赤チェックのプリーツスカートの裾を押さえます。


「学校に遅刻しそうなの」


 亜梨沙はトーマスの顔がまともに見られず、俯いて答えました。


「かしこまりました、ではお車の用意を致します」


 トーマスは優雅にクルッと背を向けると、廊下を歩いて行きます。


「ええ?」


 亜梨沙は仰天しましたが、すでにトーマスの姿は見えません。


「歩いていたはずなのに、どうしてそんなに早く動けるの?」


 亜梨沙は首を傾げましたが、


「ああ、遅刻はできないわ!」


とまたスカートをヒラヒラさせて玄関を飛び出しました。


「お嬢様、お乗りください、お送り致します」


 するとすでに、玄関の車寄せに亜梨沙専用の白のリムジンが乗り付けられ、後部のドアを開いて待つトーマスがいます。


「さ、お早く。お時間がありませんので」


 トーマスがスッと亜梨沙の右手を取り、リムジンの中に誘導してくれました。


「……」


 亜梨沙はポオッとしてトーマスに触られた右手を見つめました。


「お嬢様、着きました」


 トーマスの声で我に返る亜梨沙です。


 ふと見ると、ドアが開かれ、トーマスが微笑んで立っています。


 その向こうにはいつもの学園の佇まいが見えました。


 そして、親友の桜小路さくらこうじらんが、トーマスを見て口をみっともないほど大きく開いているのも見えます。その周りにも、トーマスに魅入られたかのような顔の女子生徒達がたくさんいました。


「お足元にお気をつけください」


 またしてもトーマスに右手を握られてしまい、ポオッとしてしまう亜梨沙です。


「行ってらっしゃいませ」


 トーマスはポオッとしたまま歩き出す亜梨沙に言うと、リムジンを走らせ、邸に帰って行きました。


「亜梨沙、亜梨沙!」


 ようやく自分を取り戻した蘭が、まだ宇宙を彷徨さまよっているような状態の亜梨沙に声をかけます。


「何?」


 ポオッとした目で蘭を見る亜梨沙です。蘭はすでに戦闘態勢に入った狼の目になっています。


「さっきの殿方、どちら様? 亜梨沙にはお母様が違うお兄様とかいらっしゃらないわよね?」


 蘭が質問しますが、まだ大気圏外の亜梨沙には、蘭の言葉は火星人の言葉より理解できません。


「ねえ、亜梨沙ったら」


 蘭の執念は岩どころか地球を貫く凄まじさです。


「誰の事?」


 少しずつその地球に帰還し始めた亜梨沙が蘭を見ます。


「貴女を車で送って来た方よ。どなたなの? とっても素敵な方ね」


 蘭の後ろには、その答えを聞きたい数十人の女子達がいます。


「ウ、ウチの執事よ。た、大した事ないわ、あんな人」


 蘭にトーマスを好きだと悟られたくない亜梨沙は心にもない事を言ってしまいました。


(うわああ、ごおめんなさああい、トムゥッ!)


 心の中で絶叫する亜梨沙です。血の涙が出そうです。


「貴女の邸の執事なの。フーン」


 悪い魔女のような顔をする蘭です。何を企んでいるのでしょうか?


「有栖川さんのお邸の執事さんなのね……」


 遠くから二人のやり取りを見ていたのは坂野上さかのうえ麻莉乃まりの先生でした。


 彼女の目も、恋する乙女の目です。

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