番外編その3 窮屈なもの

 突然世界がひっくり返ったかと思ったら空が一瞬だけ見えて、そこから腕に衝撃が走った。転ぶことに慣れていたからか自然と受け身を取っていたらしく、地面に叩きつけられた割には身体は痛くない。


 それでも立ち上がってから随分と現状を把握するのに時間が掛かってしまったのは、転倒したという事実を受けいられなかったからだ。


 眼下に倒れている自転車を起こす。会社に遅れるし、考えても嫌な方向に思考が向かいそうだったのですぐさま乗ろうとして、その異変に気がつく。前輪がパンクしていて、さらには後輪の変速機の向きがおかしいのだ。


 やっちまった。

 遅刻確定。

 なんでこんなことに。


 ネガティブな言葉が浮かんでは消えていく。日本一周をともにした相棒の無惨な姿に身体を動かす気が起きない。


 それに。


 転がったままの相棒がもう疲れたよ。そう言ってるみたいでいたたまれなくなった。



※※※※※※※※※※※



「頼んでた部分の修正箇所、終わりましたか?」


 スケジュールの完了日はまだ先の話なのに、上長がそう質問してきた。こういう時はなんだかんだあって別で頼みたい仕事が降りてきたときだ。

 こちらの作業がちょっとだけ早く終わっているのに気がついているのだろう。ちくいち管理されているのにも関わらずある程度放って置かれているのがわかって嫌になる。


「もうちょっとで終わりそうです。単純なコードミスでしたよ。テストのパターンが漏れてたみたいです」


 もう終わっているのだけれど、確認したいことがあるのでそう断っておく。修正内容をわざわざ伝えたのは、安心させるためでもあるし、降りてきた案件を受けますよ。とアピールするためでもある。


「ああ。よかった。一緒に再テストと報告書もお願いします。それでなんですが、今後のテスト計画の見積もりをお願いできます?」

「えっ。はあ。この案件入ったばかりでわからないことが多いんですが僕でいいんですか?」


 めんどくさいこの上ない仕事を振られそうになって必死に断りたいのも相手には伝わっているだろう。荷が重いのもきっとわかっているのだ。それでも頼らざるを得ないのだからきっと反論の言葉も無視される。


「ええ。今回のテスト計画もそうでしたがきちんと仕事をしていただける人なので安心して任せられます」


 そう笑顔で返されるけれどそれは体よく使いたいがためのおべっかに過ぎないのだろう。


「そういえば、スーツの袖が破れているみたいですが大丈夫ですか」

「ああ、ちょっと転んじゃって……大丈夫です。今日だけですので」


 明日のお客さんとのミーティングはそんなんじゃ困るよと言いたいのだろうことは理解できる。しかしそれを遠回しに言ってくるあたりも性に合わない。もっとちゃんと言ってくれればいいのに。まあ、言ったら言ったで問題にされることも多いだろうから仕方のないことなのかもしれない。


 コンプライアンスなんて言葉が聞こえ始めたのはいつからだろう。社外に対してではなんく社内に対してだ。パワハラ、セクハラ。ハラスメントだらけのこの場所で一緒に仕事をしているとしても相手の機嫌を伺い続けなくてはならない。下請けの身からすればやりやすい方なのだろう。やることをやっていればキツイことは一切言われないし、現実味のない仕事が割り振られることもない。それでもふとした時に思うのだ


 窮屈だな。


 そう感じ始めたのは仕事に就いてどれくらいたったころか。もう覚えてはいない。それに比べて……いや。良くないクセだ。すぐにあの頃を思い出してはその居心地の良さに浸ろうとする。


 あの自由で希望に満ちていた世界はもう自分の中には見当たらない。それは違うだろと何度も言い聞かせてきた。あの時間が特別なだけだ。これが普通だ。その考えは今も変わることはない。


 自転車で日本一周なんてしなければよかったのかもなんて自虐な言葉が浮かぶ。それは今日壊れてしまった相棒の自転車のこともある。なんだか積み上げてきた物が崩れてしまった気がした。


「ではよろしく頼みますね。期限は一週間ですので」


 その言葉で受け取った資料に目を通すと、とりあえず普通に残業し続ければ期限内に終わりそうな気配はある。要件定義から洗い出さなければならないテストケースを上げていく。計画段階では細かいところは後にして大まかに出さなければならないテスト結果の一覧を作る。要件を満たしているかそれを注意深く作成すれば文章自体は前回のものを使いまわせば基本的に問題はない。


 とは言え間に会議は入るし、お客さんからの突発的な要件追加もあり得る。つまりはできるだけ早めに終わらせなくてはならない。そうして早めに終わらせると今日のように次の仕事を割り当てられる。その繰り返し。それが普通。


 でも。普通ってなんだ。



※※※※※※※※※※※



 ある程度資料をまとめ上げて帰宅しようしたときにはもう周りにだれもいなかった。仕事を頼んできた上長もだ。こういう時はたまにある。でも早く帰れるに越したことはない。いつ帰れなくなる日々がまっているかわからないのだから。そうしてビルを出て駐輪場でようやく相棒の無惨な姿を思い出す。

 ああ。そうだった。壊れてるんだった。自転車屋に持っていけば直して貰えるのだろうか。そもそもこんな時間にやっている訳ないのだし週末に持っていくしかない。


 仕方なく歩いて帰ることにするがその道程はそれなりに遠い。満員電車が嫌だからという理由と自転車と離れたくないからと言う理由で自転車通勤にしたのを後悔する。


 後悔。


 なんで後悔しているんだ。自然とそう思考が向いていることに気がついて愕然とする。自然とそんな風にして普通になろうとしているのだ。自転車で日本一周なんてしなきゃよかったと本気で思っているのか。


 やけに重くなった自転車はタイヤに空気が入っていないからであり、変速機が曲がったことでチェーンに摩擦が起こり上手く回らないからだ。それだけのはずだ。でも、気分とともに足取りは重く、相棒は前に進むことを拒んでいるようにすら感じる。


 担いだほうが早いのかもしれないが明日もある。疲労が貯まることはこれ以上避けたい。ゆっくりだけれどゆっくり帰るしかない。そう思ったときだった。


「なあ。兄ちゃん、何かに巻き込まれたのか。スーツもチャリもそんなボロボロでよ」


 もう夜も遅いというのに通りに明るい店があってそこから顔を出していたおじさんが声をかけてきた。驚いて思わずじろじろと見てしまう。


 お店は大きくなくておじさんひとりがいて棚がいくつかあるだけで窮屈に感じるお見せは個人でやっているお店のようだ。辺りに散らばっているパーツや工具に見覚えはある。


「もしかして自転車屋さんですか」

「あ。なに言ってんだ。もしかしなくてもチャリ屋だろ」


 なぜだか機嫌を損ねてしまったようだ。そうは言っても自転車らしいものはどこにも見当たらない。


「あー。ディレーラーこんなにしちまって。エンドも曲がってんじゃないのか。まあクロモリだからなんとかなるだろうけど。直すあてでもあるのか」


 ない。相棒を買った店はとうに無くなってしまった。店長がどうなったのかも知らない。それも仕事を始めてから気にする余裕がなくなったからだ。


「ないです。直せますか」

「わからん」


 わからんって。自転車屋で初めて言われた。


「でも、やるだけやってみよう。ずいぶんと愛着もあるみたいだしな」

「わかるんですか」

「そんな何年も乗り続けているチャリなんてなかなか見たことないね。日本一周でもしてきたか」


 なんで直せるかわからないのにそれはわかるのだ。


「なんだ図星か。まあ、その割には最近手入れしてないみたいだけどな。大方、仕事に追われて日本一周のことを後悔し始めたあたりだろ」

「なんでそんなこと言えるですか」


 図星続きでつい語気が荒くなってしまう。


「なんでって。まあ、同類ってことだよ。多分だけどな」


 同類って、どこの部分のことだろう。少し考えるけれど分かったところであんまり意味がない気がして考えるのを止めた。


「修理お願いしていいですか。お金は気にしなくていいので元に戻してやってください」


 自転車に乗り続けているのでどれくらいの金額が要求されるのかはある程度分かっているつもりだ。アップグレードをしない限り膨大な金額を請求されることはない。


「あー。まあいいか。置いてけよ。代わりのチャリを貸してやろうか。それともしばらく乗るのを控えるか」


 考えても見なかった。明日の会議に遅れるわけにも破れたスーツで向かうわけにもいかない。電車で行ったほうが無難だ。


「ええ。代車は大丈夫です。よろしくお願いいたします」

「ああ。ちょっとはこいつを迎える準備ができてから来な」


 自転車屋の言ってる意味がわからなかった。どういうことだろう。


「それってどういう……いや。じゃあ、お願いしますね」


 どっちでもいい。自転車が直るのであれば、考えることではない。



※※※※※※※※※※※



 久しぶりの満員電車はやっぱり人混みに揉まれなくてはならなくて気分がいいものではない。自転車で広い道路を走っている爽快感と比べてはいけないと分かってても違いすぎる。


 窮屈だな。


 どうしてもそう思ってしまう。人がひしめき合っている電車の中だからではない。こうやって決まった時間に決まったルートで、ひしめき合いながらも通い続けなくてはならない。そうさせている社会がだ。


 いや。そうやって社会に適応できない自分に言い訳をしているだけだ。みんなはこの社会に適合している。それが普通なのだ。それに適応できなくてはこの先、生きていくのが辛いのは自分自身だ。それはなにかを成し遂げたところでなにも変わりやしない。


『後悔し始めたあたりだろ』


 昨日の自転車屋さんの言葉が頭をちらつく。


『迎える準備ができてから来な』


 こうやって満員電車に揺られながらではきっとこの先も準備はできない気がした。だったらあの自転車屋に置いてもらい続けるのも良い気がしてくる。


 そんなことを考えていたらビルに着いていていた。自転車だとどうしても時間ギリギリになりがちだが電車の都合に合わせたら少し早く着きすぎてしまった。


「あっ。おはようございます。今日はよろしくお願いしますね」


 早い時間でもオフィスに入るなりこちらの姿を上長が声を掛けてくる。その顔色は悪くすでに眠そうだ。昨日早く帰宅した分、今朝早く来て資料作りをしていたのだろう。入ってきた人をすぐに見つけるのも誰かが遅刻しないかを心配し続けているのだろう。気配りができると言えばそうだが、やっぱり窮屈さじみたものを感じてしまう。


 極端なことを言えば誰かひとりくらい欠けたところで会議に支障なんてないし、内容が変わることもない。そんなものだ。しかしそんなものに囚われ続けているしそれを避けて通ることもできない。それが普通だからだ。


「そういえば自転車で日本一周したって本当ですか」


 上長が突然そんな話を振ってきて驚いて始業の準備をしていた手が止まる。


「お客さんの中に自転車好きがいるらしくてその話をしてもいいですかね」


 質問で聞いてきてはいるが上長の中では決定事項なのだろう。少しでも場が和むのであればそれもいいかと思う。でも今はタイミングが悪いなと思う。後悔なんて言葉は口にはしないけれどネガティブな発言をしてしまいそうなのは間違いない。


「ええ。大丈夫ですよ。でもお手柔らかにお願いしますね」


 これも仕事だと割り切るしかない。自虐な笑いに変えれば場も和むだろう。


「わかりました。努力します。でも一体全体なんで日本一周しようと思ったんですか」


 その質問は何度も受けたことがあった。鉄板と言っても良い。でも明確な答えなんて自分の中にもありはしない。ああ。でも日本一周中に純粋な眼差しでまっすぐ見つめられながら答えたことがあった。恥ずかしさよりも先に言葉が出たのは少年がそれだけなにかを求めているように見えたからだ。


「なんでですかね。自分でもよくわからないんですよ」


 そう答えると上長は不思議そうな顔をし始める。なんとなくでやることではない。でも。なんとなくだからこそやりたいことはやったほうがいい。当時はそう思っていたのだ。


 あの少年は元気だろうか。もしかしたら同じように日本一周なんてしてやしないかと思うと少し気がかりだ。


『やって後悔はしてないよ』


 あの時、たしかにそう答えた自分が思い出されてちょっとばかり後悔する。その言葉が後押しになってしまったら申し訳ないと思ったから。


「でもそんなものかもしれないですね。人生と同じですよ。明確になにかを成し遂げなきゃ生きていけない人なんてごく僅かですから。みんななんとなくですね」


 上長がふっ、と笑って心がスッと軽くなった気がした。


「そう思われるんですか」

「ええ。そう思いますよ。よかったらこんど日本一周した時の話をゆっくり聞かせてください」


 そんなふうに朝の時間を過ごしたのは初めてで、新鮮な気持にもなる。


「そろそろ会議始まりますので。よろしくお願いします」


 そんな時間はほんの僅かだけれど、窮屈のなかにもあるのだと初めて気がついた。



※※※※※※※※※※※



「なんだ。流石に早すぎやしねぇか。そんなすぐに直らないのは分かってだろ」


 自転車屋のおじさんはこちらも見るなり悪態をついてくる。客商売、そんな感じで大丈夫か。と思わないでもないがこんな感じだからいいと言う人もいるのだろう。昨日は置いていなかった自転車が置いてあったりする。


「そういうわけじゃないんですけど。気になってしまって。直りそうですか」

「まあ、そんなにひどくはなかったよ。ディレーラーがないからその到着待ちだし、つけてから実際動かしてみないとエンドが真っ直ぐかも判断できない。でもまあ、ほかはとりあえず終わってるから。見るか」


 こちらの答えも聞きもしないうちにからおじさんは動き始めていて、店の奥から見慣れた自転車を持ってきてくれる。


「キレイにしてくれたんですね」


 元は白かったフレームも水垢や油汚れで薄汚れてしまっていた。それが今は光を反射するくらいピカピカだ。


「まあ、ついでだからな。パーツ外さなきゃ届かないところもあるし基本だよ基本。シロウトには難しいだろうがな」

「自転車の修理って教えてもらうことってできますか」


 そうお願いしようと思ってここを訪れたわけではない。でも、キレイになった相棒を見ていたら自分で出来るようにしなきゃと思った。


「今度はなんだ。急にそんなこと言い出して。こっちは商売でやってんだ。簡単に教えるわけ無いだろう」

「そっか。そうですよね」

「まあ、でも今からこいつを直す。それをおまえさんがどこでどう見てようと勝手だ。一応客だからな」


 もしかして見て覚えてもいいってことなのだろうか。


「じゃあ、そうさせてもらいます」


 日本一周中に会った少年のことを思い出していた。確かに後悔をしていないって言葉がウソになってしまったけれど。それだけじゃない。今はそう思える。


『楽しいこともあるし、辛いこともある。寂しい時だってあるし、嬉しい事もある。人生と同じだ』


 あの時、少年にそんなことも言った気がする。だから日本一周してすべてがよかったなんてことはないし、すべてが無駄だったわけでもないのだ。


「なあ。おまえさんはみたい景色は見れたのか」


 おじさんが手を動かしながらそう聞いてくる。


「ええ。見れました」

「見たくない景色もか」

「ええ。そうですね」

「まっ。そんなもんだわな」


 そう。そんなもんだ。


 窮屈でも。


 後悔しても。


 普通でも。普通じゃなくても。


 どこまでも行った先になにがあるのかがわからない以上。


 そんなもんなんだ。


 そう思えたらちょっとだけ窮屈なこの生き方が広がった気がして。


 隣で修理を待ち続けている相棒も。また一緒に走ってくれそうな。


 そんな気がしたんだ。

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夢旅 霜月かつろう @shimotuki_katuro

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