番外編その2 削れる熱

 タイヤからチューブを取り出すために専用のレバーをチューブの空気が抜けてできたホイールとタイヤのゴムの隙間に突っ込んだ。


 それがいつもより少し固く感じるのは冬の寒さのせいでゴムが固くなっているからなのか、そのねじ込む手に入れる力を強める。逆に強すぎるとタイヤ自体にダメージが行くのであくまでも気を使いながらだ。


 レバーは両端の片方がヘラのような先っぽになっておりこれが今、隙間に突っ込んだ方だ。その逆側の釣り針を大きく太くしたような形になっていてこれはホイールの中心から伸びるスポークにはめ込むものだ。


 その使い方に習いテコの原理でタイヤをホイールから外す為に一旦スポークにはめる。そうするとより広がったタイヤとホイールの隙間になんなく2本目が入るのだ。


 そうすればあとは簡単で2本目のレバーを横にスライドしていくだけでタイヤは外れていく。


 朝、開店前に溜まっている修理待ちの修理を済ませてしまおうと思ったのは決して仕事熱心だからなわけでも、修理がたまりすぎて慌てて仕事している訳でもない。


 店内をぐるりと見渡す。まだ明かりを灯しているわけではないので薄暗いが自分で管理する店だ。なんとなくでも店内の様子はわかる。そうしていると自然とためいきが出る。すべては昨日突然現れたSVスーパーバイザーのせいだ。


 お店の売上が前期に比べて悪いのは当然知っているし、それに対してなんとかしなくちゃと色々画策していたのだが、目に見える結果がでることはなかった。それにしびれを切らしたSVがやってきて、なにを始めるかと思えばダメ出しの連続だった。あれはダメ、これもダメ。そんなことばかり言われ続ければ気分が沈まずにはいられない。昨晩もちゃんと寝れた気がしない。家にいてもソワソワしてしまって、いつもの時間より早く出勤してしまい、残っている修理に手をつけ始めたというわけだ。


 静けさの漂い、少し寒気がするその店内は自分が知っているものと少しだけ違う感じがする。それが新鮮に思える。


 車輪が付いたままの自転車の隙間からうまくチューブだけをとりだして、パンクの具合を確かめようと空気を入れる為に、コンプレッサーから伸びる専用の空気入れをチューブのバルブに押し当てて、何も起きないことに疑問が頭に浮かぶ。


 故障のはずはないと思うのだが、とかそこまで考えて朝一番でコンプレッサーの電源を入れていないのに気がついて慌てて立ち上がるとスイッチを入れた。モーター音が店内に鳴り響く。


 普段は賑やかな店内で気にならないその音もこれだけ静かな状況ではよく響き渡る。しばらくは空気を圧縮するために時間が必要なのでぐるりと店内を一周する。


 普段使いのものからスポーツ車まで、様々な自転車が約500台ずらりと整然と並べられた光景はいつみても壮観だ。これを販売していることにそれなりの覚悟もあったし、責任も感じていたというのになぜこうもうまく行かないでいるのか。それがわかればこんなに気苦労を溜めることもないのだろう。


 結局どうしていいかわからないまま一周した。作業場に戻ってきて空気が圧縮されたコンプレッサーから伸びる空気入れをチューブのバルブに押し当てて空気を入れる。


 タイヤという押さえつける存在がいないことでどこまでもチューブは膨らんでいく。より膨らませたほうが空気の抜けている場所は見つけやすいが膨らましすぎると自転車のフレームとホイールに挟まれてチューブがうまく回転しない。


 まあ、だいたいの目処は付いている。適度なところで手を離すとチューブに手をかける。ひと目で大きく穴が空いている箇所はないらしく、空気が漏れる音はしない。それはわかっていたことだ。


 空気が急激に漏れている様子はなかったので昨晩空気を入れて一晩待ってみた。それでも抜けるようならどこかに小さい穴が空いているのだろうと思ってのことだったが、どうやらビンゴだったみたいだ。


 しかし、ここからゆっくりとチューブを水に浸けながらゆっくりと空気が漏れているのを探す。これがまた慎重に見ていかないと見逃す可能性もある。一周して見つからなかったらもう一周だ。なにせ空気が一晩で抜けているのだ。


 どこかに穴はあるはずだ。一定間隔で空気が漏れる箇所を見つけたらそこにマジックでチェックをつける。これを目印にパッチを貼っていく。


 穴の箇所がわかったからといって焦ってはいけないのは、生成されたままのゴムの表面はザラザラしていていくらゴムのりを塗りたくってもしっかりとくっつくことがないからだ。


 そのため、専用の電動ヤスリで表面を削らなくてはならない。入社当時はパンク修理の7割はこの削りで決まると叩き込まれたものだ。


 ゆっくりと表面だけを削れるようにゆっくりと動かしていく。削りすぎればチューブの穴が広がり取り返しのつかないことになる。


 まあ、めったにないことなので慎重になりすぎは良くないが気にしないで行うにはリスキーな作業だ。


 削りかすを一通り雑巾でふき取るとゴムのりを塗っていく。丁寧にパッチよりも少し大きめに。薄く塗ったらそれをドライヤーで先に乾かしてく。張ってからだとうまく乾かずに剥がれの原因にもなるので、先にある程度乾かすのだ。


 パッチを張って少し押し付けてやればパンク修理は終了だ。あとはタイヤに異物がないか確認してもとの形に戻すだけだ。


 少しは気分転換になったような気がする。こうやって自転車を触っている時が一番集中できて心が落ち着く。ずっとこうやって修理をし続けていてもいいくらいだ。


 ただし、時間が迫るのは話が変わるので自由にできたらの話だ。そんなことを言ったってそうなってしまえばそれは仕事ではない。だから、今の状況はしかたのないことなのだと自分に言い聞かせる。


※※※※※※※※※※※


 しばらくしてスタッフたちが出勤してきて、普段通りにお店がオープンした。活気のある店でもないし、朝一番からやってくるのは通学や通勤中に故障した修理の依頼がほとんどだ。たまにある新車の購入はスタッフに任せて修理にいそしむ。


 これが日常。しかし今日はどこか集中できないでいた。それはSVから指示された売上改善案を出さなくてはならないからであり、それの期日が結構タイトだからと言うのだから不安は拭いきれない。


 しかし、今日も今日とてゆっくりと考える時間を作れる忙しさではなくて、自転車の整備と修理をしながらでは考えはまとまらない。


「あのー。忙しそうなところ申し訳ないのですが、自転車の相談してもいいですか?」


 修理に夢中になって下を向いていたのでびっくりして顔を上げる。そこにいたのは20そこらの男性の若者だ。いつからその年齢が若者になったのか、少しだけ頭に浮かんだことを振り払うように接客モードに切り替える。


「ええ。もちろん。案内いたしますよ。どういった自転車をご要望ですか」


 自転車なんて素人目にはどれも同じに見える。こういう問い合わせはよくあるが、彼の場合は少しだけ事情が違うみたいだった。少し恥ずかしそうにうつむいてしまったから。


「いや、そのー、それがですね」


 なにやら言い難い事情でもあるのだろうか、しかしここまできて言い難い事情なんて思い当たらない。単なる恥ずかしがり屋さんなのだろうか。先が詰まっているからと言って遮るのもよくないと思い、彼が何かを言うのを促す様に待ち続ける。


「日本一周に向いている自転車ってどれですか?」


 それを聞いて少しだけ腑に落ちた。確かに知らない人にいきなり言うのは少し勇気がいるのかもしれない。もしかしたら笑われるかもなんて思っているのか。しかし、こちらとて自転車屋の端くれ。そう言う人は何人か見てきたし、傾向もそれなりに分かったりもする。


 それよりなにより、そういうことに興味があった時期が自分にもあったのだ。それは叶うことなく今まで来てしまっている。


「案内しますよ。何人か案内したこともありますので」


 そう告げるとその若者の顔の緊張が和らいだ気がした。


 自転車で長距離を走るのに必要なことはいくつかあるが大事なのは自転車の耐久性だと思っている。通常ママチャリと呼ばれるものは耐久性はある。しかしそれは長年乗り続けることを想定されているのであって、短期間で長距離を走るには向いてるわけではないのだ。


 若者もスポーツ自転車を求めているようだったのでその中で適切な物を順番に説明していった。


 自転車のフレームの素材や、積載量、修理に必要なものまでひととおり説明したところで、若者は大きく息を吐いた。


「あ、ありがとうございます。なんだかイメージ沸いてきて興奮してきました」


 そう真っ直ぐな瞳で自転車を見つめる若者が眩しく見え、少しだけ羨ましく思う。


 この熱意が自分になかったのかと思い返すがそんなことはなかったような気もする。ここまで来る間に徐々に削られていってしまったような感覚だけが残っている。それが自分だけのものなのか同世代のみんなが抱えているのかは気になりはしたけれど、聞く勇気はなかった。


 若者はひととおり必要な物を注文すると嬉しそうに帰っていった。自転車の組み上げを含めキャリアやバッグの取り付けなど、作業を行わなくてはならない。こういった特殊な作業は心躍る。


 そう思えるだけまだ熱は自分の中に残っているのではないか。そう思い、作業に戻る。そうして閉店してから事務仕事をしているとSVからのメールに気づき、開いてから後悔する。打開策をまとめた資料を早く送れとの催促だった。


 家に帰るのはいつのことになるのだろうかと、気が重くなりながら残っている熱が削られていくのを感じる。


 ※※※※※※※※※※※


 それからしばらくは忙しい日々が続いていた。忘れた頃に発注しておいた日本一周用の自転車が納品されたとき。前ほどに熱がこもらなかったのは、なぜだろうと考えようとして考えるのを止めた。深く気にしてはいけないような気がしたからだ。


 納品されたのはクロモリフレームと呼ばれる鉄製の自転車だ。アルミより、カーボンより、丈夫で長距離に疲れにくいと思っている。


 基本的なパーツは付いているが整備はされていないのだ、追加で付けるパーツを含めて整備に取り掛かる。


 自転車の整備は人の命に関わるものだ。その作業は慎重に行わなければならない。それも入社したての時に叩き込まれたことだ。それが日本一周するのであればなおさらのことだ。


 新品のゴムの匂いが辺りに漂うのは単に今整備している新車だけではないのだが、それでも納品したてで段ボールから現れた自転車を触っている時が一番強く匂う気がする。これが苦手な人もいるみたいだけれど、これが何より好きな匂いかもしれなかった。いい匂いだとか嗅いでいたい香りとも違う。胸が躍る匂いなのだ。


 ブレーキ、変速機、ペダルにホイール、空気圧。そのすべてに異常がないか確認しながら作業を進める。毎日行っている作業だ。しかしやはり、遠くまで行くと分かっていると気合は自然と入る。


「それですか」


 頭上から降ってきた声に少しだけ驚き、それでもなんとなく今日現れる気がしていた自分に心躍る。この自転車の相棒である若者がそこにいた。


「これですよ。どこまでも連れて行ってくれる相棒です」


 少しだけ自慢気になってしまうのは何故だろう。買ったのは彼であり、作ったのはメーカーであり、自分は組み上げているだけだ。


「ありがとうございます」


 若者が急にお礼を言ってきて困惑する。まだ納車もしていない。それにお代はしっかりいただいているのだ。お礼を言うのはこっちの方ではないのか。


「ここに相談に来て良かったです!おかけでこんな頼もしい相棒に出会えた」


 若者の顔をまっすぐ見ることが出来なくなって思わず作業に戻ってしまう。胸が熱くなるのを感じる。


「もう少しで終わりますので、待っててください」


 その胸の熱からくる震えが若者に気付かれていないか少し不安に思いながらもそう促す。


「あの、見ていていいですか。きっと何かに役立つと思うので」


「ええ。どうぞ」


 まるで初めて自転車を買ってもらえた子どもの様に作業場の前で目を輝やかせながらこちらを見ている若者を見ているとこの仕事をやっていて良かったと思えてくる。そう思えればもう少し頑張れる気がした。


 仕上げとして自転車を布で磨いていく。しっかりと走るんだぞと願いを込めながら、自分が出来なかったことを成してくれている若者に自分の夢を託すようにゆっくりと。自転車に願いを込める。


「あの。日本一周終わったら、またここにきてもいいですか?」


 そんなことは聞くまでもないと思う。そもそもここは客商売の店だ。断る理由なんてない。


「ええ。その時は日本一周の話を聞かせてください」


 そう答えた時の若者の笑顔は忘れられないだろう。そうして、そんな笑顔がたくさんあることにいまさらながら気づき。ちゃんとここに意味があるのだと、そう思える。


 たとえ熱が削られ切ったとしても、ここにいる意味はあるのだと思うと。削られた分だけ誰かの背中を押しているのだと思うと。


 ちゃんと熱は戻ってくるのかもしれないと、そう思えた。

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