番外編その1 ゆめの跡
「マジッで信じられない」
詩織はマジの所へひたすらに感情を込めて言ってやった。それだけのことをアイツはしたのだ。当然だろう。
辺りを見渡すが人の気配はなく自分一人であることを確認すると足元に置いてあったダンボールを軽く蹴飛ばす。少しだけベコっとへこんだダンボールを見て後悔する。
こうやって暴力じみたことを行うだけで心が痛むのは親に感謝すべきなんだろうがスッキリしないのはいかがなものか。だったら最初からしなければいいのにと後悔までする。
けれど、マジで蹴ることなんて出来ないのもわかっている。そんな性格だ。もっと直球で彼に当たっていけていればこんなことにはなってなかったのかと、考えてもどうしようもないのにぼんやりと考えてしまう。
「やんなっちゃうっ!……というかどーしよー」
小さく呟いてしまう。絞り出したようなその言葉に返事なんてあるはずもない。
悪いのはだれがなんと言おうと旦那だ。思い出すだけでもいらいらが甦ってくる。
結婚して3年。子どもはいない。29歳。旦那は34歳。結婚するに辺り、勤めていた児童館を辞めて稼げる事務仕事に転職した。子どもたちと関わる仕事をしていたかったけれど、お金のためだと割りきりもした。式は挙げられないにしても、安定した暮らしをしたい。そう思っての事だった。
思考が過去形になっていることに気づいて、ため息を吐き出す。
「かっこよく見えたんだけどなぁ」
失敗だったと。思いたくはない。人としては今でも旦那を愛しているし、他に目移りしている訳でもない。それは向こうもおんなじはずだ。それでも、一緒に生きていくには限界を感じる。
※※※※※※※※※※※
「転職することにしたから」
昨晩のことだ。いきなり旦那の口から飛び出した言葉を受け入れることができなかった。いや、理解できなかった。もともと定職に就いていた人ではない。20代のほとんどをフリーターとして過ごし、合コンで知り合ったときは夢は歌手になりたいとか言っていた。まだ若かった詩織にとってそれは魅力的に見えたのだが、当時20半ばのフリーターのセリフとしてはないな。と今ならばそう思う。
それでも旦那は誠実に詩織のことを大切にしてくれたのだとは思う。結婚を踏み切れないでいた時、ちゃんと定職に就くよ。そう言って、バイトをやめ、ちゃんと稼ぐんだと転職をしてくれた。そのことで結婚に踏み切れたのは事実だし、彼もその仕事を腐らずに続いていた。
やっぱり俺、夢をあきらめきれないんだ。結婚して3年たった3か月前にそう言われたときは、少しうれしい気持ちもあった。貯金もたまり始めていたし、余裕もあった。夢をあきらめきれない旦那を応援しようとその時は思ったんだ。
流石に稼ぎがなくなるのは暮らしていけないので、少しでも音楽に近い仕事に就いた。コネでもなんでも作って、頑張るものだと思っていた。
それが3カ月も持たないとは思いもしなかった。
※※※※※※※※※※※
机に戻り、仕事に取り掛かるけれど、考えるのはお金の計算ばかりだ。仕事ではない、生活のだ。
貯金の半分は歌のレッスン料にすでに消えていた。どうしても必要なことだからと前もってレッスン料を渡したのだが、その教室にももう通っていないらしい。なんでも、講師の言っていることがむかつくとの事。
レッスン料を返してもらえと詰め寄っても、顔も見たくないの一点張り。詩織が直接連絡もしたが、来なくなったのはそちらの事情で、返す義務はない。と突き放されてしまった。聞くと契約書を交わしたわけでもなく、どうしてもとお願いされて引き受けたらしい。つまり、レッスン料は差し出されたものであり返ってくるものではなかった。
忙しい合間を縫って時間を作ったのに文句を言って出て行った失礼な人は知りませんと、捨て台詞まで聞かされてしまった。
どうやら新しい仕事先も同じような理由で辞めてしまったらしい。やれ、あいつらはわかっていないだの、無駄な仕事を押し付けられるだの、俺の才能を理解しないだの。結婚したことを後悔したくなるようなセリフの連発に詩織は頭を抱えることしかできなかった。
一瞬実家に逃げ帰ることも考えたが、あまり歓迎ムードでなかった結婚を押し進めた手前、そんな理由で帰るのは流石にできないでいた。
「どうしよう……」
返事を期待してるわけではないが、だれか助けてくれないかと思わず口に出してしまう。
何に反響するわけもなくその言葉ははかなく消えていく。いっそ別れてしまおうかとも思うが、旦那のことだ、結婚するために就職した時間や、新生活の為の資金を請求しかねない。はて、もともとそんなやつだったか、そんなやつと私は結婚してしまったのだろうか。と自問自答をする。
そんなやつだったが。出会った頃は楽しかった。特にでかれることもしなくてもお互いの家に遊びにいって世間話や未来の話をするだけで十分だった気がする。デートの思い出も多い。でもそれも全て結婚するまでだった気もする。
おこづかいが少ないからとデートは断られ、そもそも少ない、お互いの休みはすれ違いで終わることが多くなっていった。
あれ?これはもう終わりなのでは。そうすこしでも考えてしまった途端、暖かい涙が頬を伝わった。
※※※※※※※※※※※
あれから散々だった。仕事にならず、目の前のデスクの同僚からギョッとされ、それが伝播し、あらゆる人から心配された。
仕事が辛かったらすぐに言うんだよ。と優しく声を掛けてくれた直属の上司はまるで腫れ物をさわるみたいな扱いだった。仕事のことじゃないんですと言うとホッとしたのと同時にすこしいらっとしたみたいで、プライベートをあんまり仕事に持ち込まないようにね。なんて言われてしまった。
うわべだけの人間関係。こういうときに児童館にいたら子どもたちにどれだけ癒されていたのかを思い知る。
会いたいなぁ。ぼんやりとそう考えていたら足が自然と児童館へと向かっていた。知ってるこはみんな大きくなって離れているだろうし、職員の入れ替わりも激しいところだ。変にうろうろしていたら不審者にすら思われるかもしれない。そう思いながらも長年居場所にしていた、その場所へと向かった。
「お疲れ様でした!」
近くまで来た時、聞き覚えのある声が聞こえてきてすこしホッとする。
「真琴ちゃん?」
詩織が声を掛けた相手は小さい頃からここに通いつめていたよく知る女の子だった。
「えっ!詩織先生!どうしたんですか!元気でした?」
当時と変わらず先生と呼ばれるのが妙にくすぐったくて、懐かしい気持ちになる。
駆け寄ってくる真琴はずいぶんと大人になった印象を受ける。それだけ年数が経っているのだと実感した。特に問題なく元気だと伝えると、真琴は笑顔をさらに明るくする。
こんなにまぶしかったけな。
昔から笑うと花咲いた様に明るい笑顔だった。あまり笑うことが多いわけじゃない分、それはより魅力的に見えた。
「詩織先生。私、合格したんですよ」
何にかと思ったら詩織も通った大学に合格したらしい。もうすぐ大学生なんだ。早いなと思わないでもない。
これで、詩織先生の後輩です。と嬉しそうにする真琴になんともいえぬ感情が込み上げてきて、泣いてしまいそうになる。昼間も泣いたばかりなのに涙腺が弛くなっている。
真琴ちゃんが思ってるほどしっかりした大人じゃないとか、上司がイヤなやつでさぁとか、旦那がもうダメでさぁとか、愚痴ばかり吐き出しそうになって、必死に堪える。真琴にそんなことを言う必要はない。そんなことを言って真琴の表情を曇らせたくはなかった。
憧れを抱く対象に自分がなっていることはうっすらと気がついていたが、会わなくなってしばらくしても、こうやって変わらず、まっすぐ見つめられるのは不思議な気分になる。いや、会わないでいたからこそ、憧れ続けて貰えているのかもしれない。現状を知ったら真琴はどう思うのだろう。
失望してしまうかもしれないな。そう思う。うだつの上がらない旦那にしがみつき、彼のわがままに振り回されている自分を知ったら真琴はきっと憧れはしないだろう。
「おめでとう。ここまで来たら夢叶うね」
真琴の夢は幼稚園の先生になることだ。かつての詩織とおんなじ。
でも、幼稚園の先生になった先で、詩織は上手にやっていけなかった。先輩とも、園長とも。若気のいたり。そう言ってしまえれば楽なのに。そうでないこともよく知っている。その閉じられた世界に文句はあるが、介入はしない。そう決めて、児童館で働き始めた。自分は逃げたのだと、ずっと、後悔しながら。
「ありがとう。先生のおかげです」
そう素直にお礼を言える真琴が羨ましくすら思えてくる。私はなにもしていないんだよ。そう言いたくなる。
でも、心のどこかで救われていた。
自分が一番嫌いな時期に憧れてくれる人がいるのだ。ならば、その時期は決して間違っちゃいなかったと。必要な時間だったんだと、教えてくれる。
「こちらこそありがとう」
自然とそう口にしていた。
「なにがです?」
真琴は不思議そうな顔になる。そりゃそうだ。詩織自身口にした言葉に驚いているのだから真琴になんのことだか分かるはずもない。
「うんん。なんでもない!私もがんばるね!」
そう、自分に言い聞かせるように大きな声を出してみた。
今どれだけ辛くても、未来が見えなくても。後に必要な時間だったと思えるように過ごせばいいのだ。
まずは旦那にそれを分からせてやらねばならない。ちゃんと理解できるだろうか、いや、そういう問題ではない。後悔しないようにやれることをやれば良い。
「詩織先生やっと笑いましたね。そっちの方がかわいいですよ」
お世辞でも嬉しいことを言ってくれる後輩を生意気だとからかいながら、詩織はここに来てよかったと心から思った。やれることはまだあるはずだ。後悔するのはそれからでも遅くない。そう自分に言い聞かせながら。
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