第2話 となりにいれたら

 ゴールデンウィークの初日としては少し暑すぎるくらいの昼下がり。高校受験勉強にと参考書を本屋さんに買いに行こうとしていた道の途中。猫と戯れている同い年の彼をみつけて思わず足が止まった。


 声を掛けようかと瞬巡するが、再び足を動かし始めてしまう。そうしてから真琴まことは少しだけ後悔する。


 猫に向ける無邪気な表情を見て邪魔したくないだとか、なんて声をかけようだとか、高校どこにいくの?だとか、色々なことが頭の中を駆け巡るけれど、結局どれも言葉にはしない。いや、できないでいる。


 彼とは小学校から一緒だったけれど彼のことを真琴は名前以外ほとんど知らない。というのも彼は学校で目立つ様なタイプではなかったし、真琴も自ら話しかけるようなタイプではなかったからだ。小学校最後の学期なんて隣の席だったのにも関わらず、挨拶以外の会話をしたことがほとんどなかった。


 それでもこうやって見かける度に、彼のことで頭が一杯になるのは彼に恋しているからだ。真琴はそう思っている。


 ※※※※※※※※※※※


「ねえ。なんて書いたの?」


 彼は珍しく頭を悩ませながら。そう訪ねてきた。


 小学校の卒業式間近。卒業文集にのせるんだと息巻いて先生が提案してきた将来の夢というテーマ。周りが面白半分で記入していくなかで彼は真摯にそのありふれた課題と向き合っていた気がする。


 突然話しかけられたことに驚いて少しだけあたふたとしてしまう。


「えっと、幼稚園の先生って」


 真琴は児童館に通っていた時期がある。親が仕事で家にいないとき、同じような境遇の子達と放課後に集まってみんなで宿題や、遊んだりしていた。


 そこには憧れの存在が居た。みんなに優しくて、きれいで、ちゃんとみんなをしかったり、ほめたり、学校の先生みたいにイライラもしてなくて、こんな人になりたいと思える存在。


 話を聞いている中で彼女が幼稚園の先生になりたかったと言っていたことがあった。幼稚園の先生を目指せば彼女みたいになれるのかと、思って以来真琴の将来の夢は決まっていた。


「えっ、なるほど。いい夢だね」


 彼はそういうと再び頭を悩ませ始めた。真琴はそんな彼から目が離せなくなっていた。


 いい夢だね。彼としてみればたいした意味も込めていないのかもしれない。でも真琴にはそれがものすごく大きな波紋となって全身に広がった気がしたのだ。


 それからというもの真琴の目標は強固なものとなった。そして彼を見かける度、そのきっかけが思い出されて、複雑な感情に悩まされるのだ。


 ※※※※※※※※※※※※


「あれ?木原さん?」


 その言葉に思わず固まる。振り向きたくても驚きで振り向くことができない。


「木原さんだよね」


 彼が回り込んで真琴の前にやってくる。先程まで猫を触っていた手には少しだけ毛が付いていて、反対の手でそれを振り払っている。そんなどうでもいい仕草でさえ見ているだけで鼓動が早くなるのが分かる。なにか言わなくちゃと考えれば考えるほど言葉はどこかに行ってしまって、もう浮かんでは来ない。


「買い物かなんか?」


「ほ、本屋さんに。参考書を買いに」


 質問にはなんとか言葉を絞り出す。


「そうなんだ、ちょうど僕も行こうとして行こうとしてたから行こうよ。本屋さん。あそこだよね?駅前の大きいやつ」


 えっ。と再び言葉がつまるけれど、彼は歩き始めてしまって、自然と後を追わずにはいられなくなる。


 そうだ。目的地が一緒なだけだ。そう言い聞かせながら心を落ち着かせていく。


 でも、彼のとなりに追い付き。その歩幅に合わせて歩いているとそうも言っていられなくなる。彼はペースを落とし合わせてくれているのだろう。とても歩きやすく、心地よさもある。しかしそれ以上に心臓の鼓動は止まることを知らない。彼を意識すればするほどに早くなる。なにかしゃべらなきゃと。焦る。しかしなんにも言葉は出てこない。先程と同じだ。


「ゴールデンウィークも勉強するの?」


 彼が突然声をかけてくる。たわいもない会話。でもそれがいちいちうれしい。


「私、あんまり成績よくないから頑張らないといけなくて」


「そっかおんなじだね」


 彼は笑いながらそう言うが真琴が彼の成績に合わせるのが大変なのを彼は知らない。彼とおんなじ高校に行けたら、それは真琴にとって喜びのひとつなのだ。でも、彼の行く高校の検討もつかず、彼の成績を追う様に勉強することしかできないでいた。


 そして彼の成績は決して悪くない。常に上位にいるわけでもないが、必死になって勉強している様子もないのにその位置にいるのはずるいとすら思えた。


 彼は何を目指しているのだろう。あの小学校のあの授業で彼はなんの夢を書いたのか。


「幼稚園の先生になりたいのって今も変わらないの?」


「えっ、あっ、うん。変わってない」


 彼と思考が重なった気がしてそれだけでもうれしい。たとえ、二人の中での接点がそこしかなかったとしてもだ。


「あのとき書いたやつ、結局文集に載らなかったから、みんながなんて書いたのかわからないんだよね」


 彼はにこりと真琴の言葉に返事をした後に、残念そうにそう言い始めた。

ページ数が足りなくなったとか、ほかのクラスとの足並みをそろえるとか。いろいろなことを言っていた気がする、が真相はわからない。


 彼がなんて書いたのか今なら聞けそうな気がした。


 でも、彼の残念そうな顔が気になってしまって言葉が出てこない。彼はあの時、書いた夢で知りたい物があったのだろうか。


 いや、見当はついている。ちょうどその夢を書いた時期に彼と噂になった女子がいた。今は別々の中学になったけれど、家は近所だった気がするし、彼と彼女が一緒に帰宅しているのを何度か見たことがある。当時は羨望のまなざしで見ることしかできなかった。


 そこまで考えたところで、その憧れの状況にいる今が突然、実感となってわいてくる。そうなって初めて真琴は彼が好きなのだと言う事実に自信が持てるのだ。


「あ、あのさ。よかったらどこの高校いくつもりなのか教えてもらってもいいかな?」


 だからなのだろう。言いたくても言い出せなかったことが、自然と声に出た。


 ※※※※※※※※※※※※


 ふたりの後姿を眺めながらこれは昔の記憶だと真琴は確信する。なぜなら彼と彼女はランドセルを背負っている。自分もだ。


 クラスでは目立たない彼と、去年転校してきた目立ちたがり屋な彼女が一緒にいる理由は家が隣だからだ。気づいたときにはふたりの関係は出来上がっていて、ふたりの間に入る隙間なんてないなぁと真琴は思った。


  そしてそのどうしようもない芽生えたばかりの気持ちを先生に伝えるのだ。大好きな児童館の先生に。


 ふたりのことを話すと先生はそれは辛いねぇと言ってくれた。


「でもそれでも好きになっちゃったんでしょ?そればかりは仕方ないね」


 先生も同じような経験があると言ってくれた。


「いつか一緒に歩けるといいね」


 そう励ましてくれた。


 単純だけれどそれだけで、憧れは強くなった。先生みたいになりたいと強く思うようになったのはそのころからな気もする。それだけ真琴の中でも先生の存在は大きいとも言える。


 やっぱり、夢は叶えないと。そう誓ったあの頃を思いだす。


 そこで目が覚めた。


 ※※※※※※※※※※※※


「あー。真琴おねえちゃんだー」


 ゴールデンウィーク明け。真琴は児童館へと足を運んでいた。見慣れた子ども達が一斉に集まってくる。


「あれ。真琴ちゃん。久しぶりじゃない」


 詩織さんが奥から出てくる。真琴が通っていた頃からちっとも変わらない。20代前半に見えるけれど、真琴が最初に詩織さんを知ったのが7年以上前なのを考えるとそんなことはないだろう。だって詩織さんはそのころからずっとここで仕事をしている。


「今日はありがとうね」


 大体の子どもが家路についたころ。一段落した詩織さんがお茶を持ってきくれた。


「あ。いえ。久しぶりに来たくなっただけなので」


 ここに通っていた頃はこんなに丁寧な言葉遣いをしていたわけではないのだが、いつからだろう、なんとなく軽口ではいられないのは。


「なんか悩みでもあるの?」


 それなのに詩織さんは何にも変わることなく、真琴のことなんて全部お見通しのような発言をしてくる。


「なんでそう思うんです?」


 できればしらを切り通したい。そう思うのは正面からその話題に触れてほしくないからか。


「だって真琴ちゃん、悩みがあるとすぐここに来るじゃない?でもそっか、違ったかぁ」


 わざとらしく視線を逸らす詩織さんはきっと触れてほしくないのにも気づいている。やっぱり全部お見通しなのだ。かなわないなぁと心の底から思う。そして同時にあこがれる。この人のようになりたいと。そう思う。


「詩織さんってどうやって進路決めました?」


 だから気になる。どうやって彼女はこうなったのかと。それが知れたら一歩踏み出せる気がするのだ。


「あら。悩みってそっちなの。当てが外れたわ」


 一体なにかと思っていたのか。気にはなるが触らないほうが良さそうだ。きっとその考えは当たっていて隠しているあの事が知られてしまう。知られたくないわけではないが上手く説明できる気がしないので、できれば隠し通したい。


「うーん。進路なんて決めた記憶ないかな。行ける所なんて少なかったし。真琴ちゃん今度高校だっけ?」


「そうです」


 それからしばらく詩織さんは考え始めた。ちょっと意外な姿だ。詩織さんはもっとブレずに生きてきたのだと勝手に思い込んでいたから。


「そうだよねぇ。あの頃は楽しくてしょうがなかったし、いろいろ考える暇なんてなかったなぁ。行ける高校でみんながいて、近所だっただけな気がする」


 だからそう、答える詩織さんが少しだけ信じられなくて、理想という名の勝手な想像が少し揺らぎ始める。


「幼稚園の先生になりたかったのは?」


「あー。それね。多分高校入ってからだと思う。それも進路悩んで結構最後まで決まらなかったなぁ」


 詩織さんは懐かしそうに話しをしている。しかし、あんまり話が頭に入ってこない。


「そう……だったんですか……」


 言葉が続かない。整理ができない。そんなはずはないと自分の中でリフレインする。


「あっ、そうだ。思い出したついでに伝えとくね。私今度、ここ辞めることになったんだ。多分今年度いっぱい。まだ先のことだけど、真琴ちゃんには言っておくね」


「えっ。どうして」


 矢継ぎ早に詩織さんから出た言葉が真琴の頭の中を駆け巡る。


「えっと。それがねぇ」


 もったいぶるように詩織さんは目が泳ぐ。それは詩織さんにしてはあまりにも幼い仕草で。少し不釣り合いに見えた。


「結婚することにしたんだ」


 ドカンッ。そんな音がなったのかと思うくらいの衝撃が訪れた気がした。


「お、おめでとうございます」


 かろうじてお祝いの言葉を出すことくらいはできた。でもそれだけだ。もう頭の中はぐちゃぐちゃだ。


「あ、あの。今日はもう帰ります」


 気が付くとそんなことを口にしていた。詩織さんは不思議そうな顔をしていたけれど、気を付けてねと。送り出してくれた。


 これまで揺らがなかった自分の中の何かが揺らいでいる。そんな気がした。


 ※※※※※※※※※※※※


 家に帰ると静かな空間が出迎えてくれる。聞こえてくるのは冷蔵庫の駆動音くらい。この静けさが苦手になったのはいつからだろう。いや、わかりきっている。児童館に通い始めたころからだ。


 あのにぎやかな空間に慣れてしまうと、この静けさが耐えられなくなってくる。そうでない人もいるのだろうけれど、真琴はひとりは嫌なのだとそう思う。ごちゃごちゃした頭の中をどうにかしたくて、洗濯機を回し始める。動き始めた駆動音と回り続ける洗濯物が自分の頭の中と似ている気がして少しだけ心を落ち着かせてくれる。


 勉強を頑張らなくちゃと、ぼんやりと思う。彼の目指す高校はとてもじゃないけれど真琴の成績では無理だとしてもだ。


 そうなのだ。あの質問の後。彼の志望校を聞いてから彼の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。本屋に行きオススメの参考書を選んでもらったり、お互い頑張ろうと励ましの言葉を貰ったのに、現実味が湧かない。なんだか別の世界の住人なってしまったような感覚。それくらい彼の目指しているものは高く遠い場所だった。


 あれから数日たった今でも心の整理ができずに、学校であいさつを交わした時も自分でない誰かが話してるかと思うくらい浮ついていた。


 それにもうひとつ。詩織さんのことがことある度に思い出されては消えた。


 詩織さんは最初から詩織さんであるはずもなく、悩み、成長していた。それにこれからも先に進もうとしている。真琴にとって結婚なんてまだ先の話で想像も及ばない世界の話だけど、詩織さんはその世界に飛び込もうとしている。先生でなくなった詩織さんは果たして詩織さんなのだろうかなんて自分勝手なことも思い浮かぶ。


 詩織さんの人生は詩織さんのものだなんて当然なことが理解はできる。でも納得はできないでいた。どうしようもない思いが頭の中をぐるぐると回り続ける。行き場のない思考。


 いっそのこと、この洗濯物のようにかき回してほしい。そう思う。


 ※※※※※※※※※※※※


 真琴はそれからしばらくは地に足がつかない日々を過ごした。毎日がなんとなく過ぎていく。それでも受験に向けての勉強だけは続けた。まるでそれしかすがるものがないかの様に。児童館にも足が向かなかった。理由ある訳じゃない。なんとなくだ。これまで気にしていなかったことが引っ掛かってしまい躊躇しているとは思う。ただ、それがなんであるか真琴自身もわからない。


 学校でも彼の姿を見かけるとなんとなく違う道を歩くようになった。それも児童館とおんなじ気持ちだ。


 なんだっていうのだ。そう呟く。


 自分とは一体なんだったと言うのか。答えのでない事ばかり頭をぐるぐると回り続ける。


「あっ、真琴おねーちゃん!」


 何度か聞いたことのある声が放課後、帰宅途中の真琴の足を止めた。


「あっ、えーと」


 それは児童館で何度か会っている子だ。おぼろげだったが名前を呼ぶと嬉しそうに笑った。合っていたようで少し安心する。


「ねえ。今度いつ児童館くるの?」


 無邪気にそう言ってくれることに素直に驚く。そして目の前の子が見上げる瞳に心当たりがある。


 それは自分自身だった。詩織さんにあこがれていた自分。それを必死に見つめていた自分。つい先日までそのまなざしを詩織さんに向けていた自分。


「いつでも呼んでくれたら行くよ」


 気が付けばそんなことを言っていた。詩織さんにどんな顔して会えばいいかわからないとか、家に帰って勉強しなきゃとか、いろんなことがそうじゃないと告げているのに。その言葉に嘘はなかった。


「ほんと!?じゃあ明日!」


 また、急な提案だ。しかし言ってしまった以上、行かないとな、と思う。それに不思議とそれは嫌ではなかった。


 嬉しそうにその場を離れるその子を見送る。明日のためにも早く帰って勉強しなくては。そう考えてから。ふと、前を向いている自分に気が付く。


 ああ。なんてことはないのかもしれない。あのまなざしがあれば前に進める。それくらいあの場所が好きで、あの場所にいる子どもたちが大好きなんだ。だからあの場所を作れる努力をしようと思う。真琴にとってそれは変わらない事実。子どもの頃からの夢。


 ただ詩織さんも一緒だったらいいなと思う。結婚しても、子どもを産んでも変わらずにあの場所にいる詩織さんを見たいと思った。それはとても自分勝手な願望で、そこに彼がいたらなって、都合のいい妄想もしたりする。


 やらなくてはならないことは山積みで。望む将来なんて得られないのかもしれないけれど、とりあえずは一歩進んでみようと真琴は、そう思う。

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