夢旅

霜月かつろう

第1話 みちの先

 少し長くなり始めた日の長さを象徴しているかのようにいつも通りの下校道で太陽が丁度、目に飛び込んでくる。


「みけ、今日はいるかなぁ」


 だれに向けるでもなく綾香あやかは地面に言葉を落とした。


 どうかな。そう答えたものの人懐っこいみけのことだ。きっといるに違いない。


「「……」」


 不自然な沈黙がふたりの間を流れる。ほんの一瞬だった気もするし、みけを見つけて綾香が駆け出すまで、ずっとだった気もする。


 それでもふたりの間に不自然なところはなく、端からみれば不自然な沈黙が、自然なのだといわんばかりに気にすることなく歩いていた。


「もうすぐ卒業だね」


 みけを愛でながら沈黙を破って綾香の口から洩れた。その言葉は統也とうやの中で波紋のように響いた。そっと隣にいる綾香の横顔を覗く。黄昏時の陽光にほんのりと紅くそまった綾香の顔をつい見続けてしまう。


 それと同時に自分の顔も紅く染まっていることに少し感謝する。おそらく、でも認めたくはないが統也の頬は黄昏時とは関係なく紅く染まっているだろうから。


※※※※※※※※※※※


 綾香が隣に引っ越してきたのはちょうど一年くらい前のことだ。


 6年生になる直前。しばらく空き家だった隣が騒がしかった。興味本位で部屋の窓からのぞいてみると統也の母親より少し若く、化粧気がある女の人と統也と同じくらいの女の子がトラックから荷物を降ろしていた。


「統也。あんた手伝ってきなさい。どうせ暇なんでしょ?」


 知らぬ間に部屋に入り込んでいた母親からそう言われた時はなんで俺がとも思ったが、ラッキーとも思った。なんてことはない、隣に越してきた女の子を近くで見たかっただけだ。


「ありがとうね、統也君」


 荷物を降ろし終わって、引っ越してきた佐藤さんからお礼を言われたのはすでに日が傾きかけたころだった。


「いいのよ、どうせ暇してるんだから」


 統也が照れている間に母親が横からそんなことを言う。余計なことを言わないでよと思うのは、反抗期だからか。統也自身よくわからないでいる。


「統也君は何年生になるのかな?」


「あ、えっと6年です」


 初めて自らの口から6年目と言う言葉を発して実感する。小学校の最高学年。少しだけその重圧とあと一年しかないという感慨深いものがこみあげてくる。


「あら、じゃあうちの綾香と一緒じゃない。よろしくね。ほら挨拶しなさい」


 そう佐藤さんに促されて出てきた女の子は夕日に照らされて、ほんのり染まり柔らかい印象を受けた。そして同時にその表情に見惚れていた。一目ぼれと言うわけではない。クラスにもっとかわいい子はたくさんいる。しかし、目が離せないでいる。


「よろしく」


 しかし、予想を裏切るように発せられた言葉はその印象とは裏腹にぶっきらぼうな一言だけ。その一言で印象ががらりと変わる。


 見た目はかわいいけど、中身はかわいくない。それが佐藤綾香の第一印象だ。


 しかし、そんな第一印象は新学年が始まってすぐに崩れ去った。


「えー。うそ。そうなの?」


 クラスの女子の中心で話題を振りまいている綾香をぼんやりと横目で見て初めてあったときの態度は何だったのかと思う。


 転校のあいさつからしてはきはきとしっかり笑顔を振りまいていた綾香はすぐにクラスのみんなから質問攻めにあった。綾香はそれに戸惑うことなくしっかりとちゃんとウケる用に答えていた。その結果があの囲い取材だ。


 まるで別人じゃないか。古くなったランドセルを肩にかけながら統也は席を立つ。始業式も終り今日は帰るだけ。とくに遊ぶ予定もないし本屋でもよって帰ろうと考えていた。


「あ、統也君帰り?一緒に帰ってもいい?」


 綾香からの突然の誘いにクラスがどよめく。何人かはこちらをにらんでいる様な気すらする。男子も。女子も。


「家が隣なの。それだけよ」


 毅然とそれに答える綾香にクラスがそうだよなと納得する。


「いこ」


 なにがなんだかわからずに呆然としていた統也を連れて綾香はクラスを出た。


 車通りも少なく畑が広がり、そうかと思えば住宅が立ち並ぶ帰り道を綾香は無言で歩いている。さっきまでの態度はなんだったのだろう。どっちが本当の顔なのか分からなくなる。


「ねぇ。どうして一緒に帰ろうと思ったの?」


「そうしたいから」


 有無を言わさない返答に統也は言葉を失った。だけど悪い気もしなかった。綾香の声に機嫌の悪さみたいなものは含まれてなかったから。


「私、転校多いの……だからああいうの慣れてるんだけど。やっぱり、ちょっとね」

 無理してるのかもしれない。疲れちゃった。綾香はそう続けた。


 綾香も悪いとは思っていたのか次にやってきたのは弁解だ。それに対してなんと返していいか分からなかった。


 何を話していいのか分からないまま家の前まで歩いた。一歩手前の綾香の家で綾香がさよならと言って家の扉を開けた。


「明日も一緒に帰ってもいい?」


 扉を引きながら振り返った綾香の表情に統也は固まってしまった。


「あ、うん。いいよ」


 どんな表情でそう返したか覚えていない。呆けていた気もする。


「ありがとね」


 家のとびらが閉まると同時に綾香がそう言った気がした。


 統也はしばらく綾香が入って行った扉を見つめていた。


※※※※※※※※※※※


「統也?どうしたの?」


「えっ、ああ、ちょっとね。卒業まであっという間だったなぁって」


 昔を振り返ってたなんて恥ずかしくて言えず適当に言葉を濁した。あの時の事どう思ってるなんてもっと恥ずかしくて聞けやしない。


「ふにゃぁあ」


 そんな思考を遮るようにみけが鳴く。お前そんなに野太い声だったか?


「そーだよね。みけもこんなに太っちゃうくらいあっという間だった」


 そうか、みけは太ったのか。それでそんな声に。


「綾香は結局この道では無口なままだったな」


 みけの顎をなでながら綾香は少し驚いたように見えた。


「そんな風に思ってたの?でも、そうかもしれないね。この道では無理しなくて済むから」


 その言葉に今度はこちらが驚かされる。だってあれから1年近くの月日が流れている。そして毎日の様に綾香は笑っていた。だからそんな風に言われると戸惑う。


「まだ、クラスでは無理しているの?」


「そんなことない」


 そう切り返した綾香の表情から本気が伝わってくる。


「学校はほんっとに楽しかったー」


 そこから崩れる笑顔に、心臓が一層早くなるのを感じる。この毎日のように見ていた笑顔に慣れることはまだ、ない。もしかしたら一生慣れないのかもしれない。


 この笑顔を最初に見たのはいつだったけか。


※※※※※※※※※※※


 あれはたぶん久しぶりに下校した時だったからゴールデンウィークが明けた5月の始め。ようやく上着を着ることなくトレーナーだけで通えるくらいあったかくなってきた頃だ。


 相変わらず会話はなく、沈黙だけが綾香との間を流れていた。それでも綾香の様子がこれまでより少し暗い気がして、気になってちらちらと横目で眺めてしまう。


「ねぇ。統也は休みの間どこかいった?」


 突然の質問に背筋が伸びる。


「えっ、ああ。それがさ自転車を買ったんだよ」


 自転車。綾香はそうぼやくように不思議そうにつぶやく。


「なんで?」


「簡単に言うとひとめぼれだな」


 何かのスイッチが入ったかのように突然と綾香が笑いだす。


「統也ってさ。ときどきすごいロマンチックなことまじめな顔で言うよね」


 ケラケラと笑い続ける綾香に少しだけ腹が立ってくる。


「そんなに笑うなら。もう話さない」


 こういう自分が好きになれない。子どもっぽい反応というか、もっと大人になれたら違うのかと思う。


「ごめん。ごめん。もう笑わないからさ。それで、なにに惚れたのよ」


 涙目になりながら言われても説得力はないがとりあえず促されたままに続けることにした。


「ロードバイクっていうやつ」


「えっ、あのスピードが凄い出るやつでしょ?高いんじゃないのあれ」


 綾香の指摘はもっともだった。隣の自転車よりゼロが一個多かった。


「だからそれは買ってない。安いのがあるんだって。なんかクロスバイクって言ってた」


 聞いてもよくわからなかったけれど、ランクが一回り劣るらしい。


「何が違うの?」


「さぁ。ただ、一番はハンドルかなぁ。ハンドルがまっすぐなんだ。ロードバイクはハンドルが下にぐにゃって曲がっているけど。クロスバイクはこうまっすぐ」


 身振り手振りをしながら説明をしてみる。


「ふーん」


 綾香はいまいちピンと来ていないようだ。それはそうだろう。こちらだってうまく説明できないのだから。


「乗ってみたの?」


「少しだけ。でも気持ちよかった。すごいスピードでるんだ」


「そっか。いいなぁ。私はどこもいけなかったから少しうらやましいかも」


 それで元気がなかったのか。今日の教室はゴールデンウィークの話題で持ちきりだった。確かに綾香は聞き役に徹していた気がする。


「どこにも行かなかったの?」


 深く聞いていいのか悩んだけれど思い切って聞いてみた。綾香のほうから話しかけてきたからかもしれない。


「お母さんが仕事だったから。いつものことだから……」


 にゃぁぁ。


「猫?」


 綾香の言葉を遮って足元から鳴き声がした。見ると三毛猫が綾香の足に寄り添っていた。その姿を確認して思わず後ずさる。


「かわいいぃ。えっ、統也なんで離れてるの?もしかして怖い?」


「えっ、そんなことないよ……」


 不意に綾香は猫を抱きかかえるとこちらに突き出してくる様に向けてきて。


「うわぁっ!?」


 思わず、後ろに跳び退き転びそうになる。


「えっ。そんなに」


 綾香が少し呆けた後に勢いよく笑いだした。それはもう抱えていた猫が苦しそうにしているくらいに。


 そんなに笑わなくてもいいと思う。


 しばらくして、猫が綾香の腕からするりと抜け出してどこかへいってしまった。それでも綾香の笑いは止まらず、その様子をじっと見ることになる。いや、正直に言おう。その無邪気な笑顔に見とれていた。飽きることがないと思えた。ずっと見ていたい。心からそう思えた。


※※※※※※※※※※※


「ねぇ。みけ。もう少しで会えなくなるね」


 あの頃と比べて野太い声のみけを撫でている綾香からそんな言葉が聞こえてきた。


「ん?」


 中学の通学路は今と大差がなく、みけがいるこの辺りは毎日通るはずだ。


「あっ、いや。そんなことないよね。私ったら何言ってるんだろう」


 あからさまの嘘。綾香とは思えないほど動揺をしているのがわかる。でもそう言っている以上、追及はできなかった。


「ふにゃぁあ」


 みけが大きく欠伸をしたかと思うと、すっと立ち去った。


 バイバイ。


 綾香が小さく見送っている。その表情はどこか悲しそうだった。


「いこっか」


 また静かに歩き始めた。しかし、先ほどまでとは違う沈黙が流れる。気まずい。綾香もそれは感じているようで無言を突き通している。先ほどから悪い考えが頭の中をぐるぐると回っている。


 なんでみけと会えなくなるんだ。たぶん理由はいくつか考えられるけど答えはひとつしかなくて。


「なぁ。今日学校でさ。将来の夢ってやつ書いたじゃん。あれってなんて書いたのか教えてよ」


 その答えから逃げるように話題を振った。


「それは聞いた統也から話すのが礼儀ってもんでしょ」


 綾香はそう返してきてくれて、まだもとに戻ったわけではないけれど、少しだけ空気が軽くなった気がした。


「俺はあれだよ。自転車で日本一周って」


 昔から将来を想像するのが苦手だった。何かになる想像ができなかった。


「くっ、あはは!ダメ我慢できない。笑っちゃう」


 だから綾香の反応を見て少し肩を落とすがそこまで気を落としちゃいない。


「だからさ、統也ってなんでときどきそんなにロマンチストになるの」


 でも綾香は無邪気に笑っていて。落としていた肩が元に戻る。


「たまにさ。気分が乗らないときとか落ち込んだ時に自転車に乗るんだ。目的地なんて決めずに。行ける所まで。すっげー頭がすっきりするんだ。何に悩んでたか忘れるくらい。でさ、思うんだよ。スッキリした頭でさ。このまま何の縛りもなく進み続けたらどこまでいけるんだろうって。何が見えるんだろうって。だから日本一周」


 綾香はすっかり笑っていた顔が真面目に戻っていて、いいじゃん。とだけ言って少し笑ってくれた。


「でさ。綾香はなんて書いたんだよ」


「えー。秘密」


 指を一本立てて唇に添えるその姿は少しだけ、さみしそうに見えた。


※※※※※※※※※※※


「えー。家が隣だからだけだよ」


 クラスメイトに綾香が追及をされていた。夏休みに入るちょっと前。ほぼ毎日一緒に帰っている姿が噂になり始めていた。からかう様子も少しありつつ。それでも綾香と統也が釣り合うわけなんてない。そんな声が一番多かった気がする。


 だからそう答える綾香の表情も少しだけ困っている感じがしたんだ。


「一緒に帰るの辞めようか」


 そう提案したのは綾香ではなかった。


 根負けしたと言ってもいい。弱虫と言われればそれまでた。それでも、綾香の困っている表情はもう見たくないと思った。


「辞めないよ。一緒に帰るの」


 でも、そう返ってきて。


「なんでさ」


 そう聞き返すしかなくて。


「えー。秘密」


 指を一本立てて唇に添えるその姿は少しだけ、嬉しそうに見えたんだ。


※※※※※※※※※※※


「なぁ。中学行くようになっても一緒に帰れるんだよな」


 綾香のその仕草に昔を重ねて。そのときよりも少しだけ元気がなく見えた。だから勇気がでた。


 耐えきれずに目をそらしそうになるけれど、綾香のほうをずっと見る。しかし、綾香からは返事はなく。妙な時間だけが流れた。


「うん!やっぱり言っとくね。私、私立の中学に入学が決まったの。だから、統也と一緒に帰れるのは卒業までのあと少しなの。そしたらみけともサヨナラ。会いには来るけど回数は減っちゃう」


 意を決したようにたたみかける綾香は強がっているようにも見えた。


 しかし、そんなことを気にしている余裕はなく。頭の中を渦巻いていたもやもやがそのまま心臓の辺りまで降りてきて感情を煮えたぎらせる。


「なんで、なんでだよっ!」


 言ってから、綾香の悲しそうな顔を見てから。しまったと思った。綾香が望んでいることじゃないことくらいわかるのに。こんなのわがままでしかないことくらいわかるのに。


「母さんがね。私立以外許さないって。これから先働けるようにしっかり勉強しなさいって」


 綾香は困った表情を浮かべながら事情を説明してくれているけど、ちっとも頭に入ってこなくて。


 そんな綾香を見てられなくて。駈け出した。


 苦しかった。なんで苦しいかもわからなかった。隣に住んでいる綾香に会えなくなるわけじゃない。毎日顔を見ることだってできる。そんなに悲しいことじゃない。でも、なんでだろう。なんだか裏切られた気持ちになるのは。自分の心が整理できないのは。


 家のドアを乱暴に開けるとランドセルを放り投げる。そのまま自転車に向かった。母さんの声が聞こえてくるが聞こえないふりをする。どこに行こうかなんて決めずにペダルに体重を駆ける。渦巻いている感情を押しつけるかのように。


 いつもはある程度でスッキリするのに。どれほど漕ぎ続けてもスッキリしない。呼吸が乱れ続けている。わざとそうしてるんだ。自分が何に動揺しているかを隠すように。


 土手沿いにあるサイクリングロードをひたすらに漕いだ。日はすっかり沈み。辺りが暗くなり自転車のライトとよわよわしい街頭を頼りに限界まで漕ぎ続けた。次第になんにも考えられなくなり、自転車から降りた。


 酸素が脳にいきわたって少し吐き気がしてきた。


「酸欠だ。深呼吸しな」


 突然知らない声が聞こえてきて驚いたけど言うとおりにする。


「水分も足りてないだろ。飲むか?」


 街頭の明りが当たっているベンチに男の人がいた。たぶん20代。隣には大きな荷物が乗った自転車がある。それにあれは買えなかったロードバイクだ。恐る恐る差し出されたペットボトルを受け取った。


「嫌なことでもあったか。俺も昔はそうしてた気がするな」


 今度は薄く笑われた。でもあんまり嫌な気はしない。大人しく肯定する様に首を縦に動かした。


「あなたも嫌なことがあったからそうしているの」


 本気でそう思っているわけじゃない。からかわれたから返しただけだ。ペットボトルもお礼を言いながら一緒につき返す。


「はは。違う違う。今は旅をしているんだ」


 たぶんそうだろうと思った。そうであって欲しいと思った。なんでかは分からない。でも、背中を押してくれてるような気にさせてくれる。


「目指せ、日本一周ってな」


 将来の夢で書いたことをやっている人が目の前いにる。それは不思議な感覚だった。


「楽しい?」


 自然とそう聞いていた。何のことはない好奇心が警戒心を勝っただけだ。


「うーん。どうだろうな。楽しいこともあるし、辛いこともある。寂しい時だってあるし、嬉しい事もある。人生と同じだ」


 良いことを言っている様でふんわりごまかされた気がする。


「ただな。やって後悔はしてないよ」


 そう口にする彼は遠くを見つめる。その表情は統也には複雑すぎてうまく言い表せられない


「それにしてもいい自転車乗ってるな。自転車好きか?」


 彼もなんとなく統也を同類と思ったのかもしれない。


「自転車乗ってるとどこまででも行けそうな気がするから」


 彼はそれを聞いて満面の笑顔を浮かべる。


「いいね。どこまでだって行けるさ。知らない景色も、見たことあるような景色も全部見れる。だからこそ夜に乗るのはオススメしない」


 そう笑った。たぶん、もう暗くなっているからこれ以上進むなと言いたいらしい。大人は回りくどい。はっきり言えばいいのにと思う。


「もう帰るよ」


 そう答えると彼は満足そうだった。


「ねえ。どこまでも行った先に何があると思う?」


 答えを求めているわけじゃない。彼の見ているものを知りたかった。


「さあな。それがわからないからひたすらに漕いでるんだと思うよ」

 彼も捜しているのだ。なにかわからない答えを。見つけられないのも知っていながら。それはなんとなくわかる気がした。


「すっきりしたみたいだな。いい顔になった。気をつけて帰れよ」


 あなたもとは言えなかった。彼が自らの居場所に帰るのはいつになるのだろう。想像すらもできなかった。でも日本一周をするならそれも考えなければならないのかもしれない。


「この辺りはイノシシでますから気を付けてくださいね」


 最後に思いっきりのいたずらをしてやった。嘘じゃない。ほんとに出る。でもさすがにここまで人里には降りてこない。


「げっ。まあクマよりましだな。サンキュー。気をつける」


 それを聞いてより過酷な旅だったのかと想像をふくらます。わくわくしている自分に統也は気づき、綾香の顔が浮かんでは消えた。ペダルに足を乗せ来た道を戻る。


「またな少年!がんばれよ!」


 彼からのエールはペダルをより一層強く押し進めた。言われなくてもと思った。


 帰り道は思ったよりもずっと遠くて。自分がどれほどがむしゃらに漕いでいたのかと思った。冷静に見渡す景色は知っているようで知らない街並みが続く。暗い景色に家の明りがついている。こんなに近くなのに知らない場所がある。まったく知らない場所にはなにがあるんだろうと想像しながら帰った。


 家で母親は怒りもしなかった。とりあえず風呂に入って来いと言われ入った。体が小刻みに痙攣していた。体を洗って湯船につかるころにはそれは止まっていた。無我夢中でご飯を食べた。おいしかった。多分これまでで一番。


※※※※※※※※※※※


 翌日。クラスで綾香を見かけた。綾香は少し困った顔をしていたが、いつも通りあいさつをしたら、少しだけいつもに戻ってあいさつを返してくれた。


「ねえ。昨日のことなんだけど」


 休み時間に綾香のほうから声をかけてきた。その先を促すようにジッと見つめる。


「一緒に帰るの辞めようかなって」


 何を言うかと思えば昔、自分が口にした言葉だった。だから。


「辞めないよ。一緒に帰るの」


 そう返す。


 綾香が驚いた顔をする。昔、自分が言ったのにな。と思う。


「なんで」


 それも真似するのなら。


「えー。秘密」


 綾香は途端に笑顔になる。こちらの意図がやっと伝わったらしい。


「統也。ありがと」


 絶対にクラスでは見せない笑顔をはじめてクラスで見せ、そう言った。


 この笑顔が見れるのがあの帰り道だけだったから。困惑してたのかもしれないなとぼんやりと思った。でもそうじゃなかった。あの空間以外でもこの表情がみれるなら。


 そんなに悲しいことじゃないのかもしれない。


 この笑顔を見れるように頑張るだけだと、統也は密かに誓った。

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