第3話 きみの温度

「手。貸せよ」


 幸太郎こうたろうの言葉に綾香あやかは素直に手を伸ばしてくる。自分より一段と小さくてか細い指の隙間と隙間に自らの指をからめていく。


 冷たい手だな。幸太郎はぼんやりとそんなことを思う。初めて触ったときはもっと暖かかった気がする。


 地方としては一番栄えている街に幸太郎と綾香は来ていた。土曜日の朝早くから電車を乗り継いでだ。馴染みのない街に訪れるのは、初めてでは無いものの新鮮味に溢れ、綾香との時間を大切なものへと変えてくれる。幸太郎はなによりもその感覚が好きだった。


 今日の綾香は制服姿と違って私服だ。これも新鮮味を与えてくれる。


 そのはずだった。


 綾香と付き合い始めてからそろそろ半年だ。週末にはこうやってデートも重ねてきている。けれど、どうしてだか、最近幸太郎の心は満たされない。


「なぁ。楽しいか?」


 こんなこと聞くもんじゃない。こうしているだけで楽しいんだ。綾香だってそう思っているはずだ。そのはずなんだ。そう自分に言い聞かせる。


 それに。


「えっ、どうしたの急に。……もちろん楽しいよ」


 少し不思議そうな顔した後に綾香はそう返してくれる。その顔はもちろん笑顔だ。


 それでもやっぱり幸太郎は何かが足りないと感じる。


 幸太郎の記憶の笑顔とはどこか違う。幸太郎が知っている綾香はもっと輝いていた笑顔を見せていたはずだ。


 幸太郎の記憶の中の綾香は。そう、もっと。


※※※※※※※※※※※


 小学6年生になったその日。転校生として転入してきた綾香は、とても社交的で明るくて、その日のうちにクラスの人気者になっていた。地方とは違う、都会な感じがする女の子だった。


 クラスの中心で話題を振りまく綾香に見惚れていたのは確かだし、これが恋なのかなんて思春期真っ盛りの男子らしく、悩んだりもした。


 しかし、恋のライバルも同時に付き物だった。


 名前は忘れた。クラスメイトのなかで目立つこともなく、かといって影に隠れている訳でもない普通のやつ。家が隣というだけで綾香と登下校をともにしていた。それだけならまだ嫉妬しなかったかもしれないが綾香はどうやらそいつとの下校を楽しみにしているように感じていた。


 おそらく嫉妬なのだろう。その日はクラスメイトと一緒になって二人の関係をからかっていた。他の連中も積極的ではないもの、だれも止めようとしなかったから多少なりとも同じ気持ちだったのかもしれない。


 裏を返せばそれだけ二人の関係が羨ましく見えたのだろう。それでも、綾香はそいつと一緒に帰宅するのを止めようとはしなかった。まるでそれが自然な関係だと主張するように。次第に周りの熱も収まっていき、どちらかと言えば二人を見守るムードにすらなっていたように思う。


 とにかくそれが気に入らなかった。だからといってなにか行動に移したわけでもなく、悶々としたまま過ごした。中学に上がっても変化は少なくだれかに目を奪われることもなかった。ただただ、小学生のその記憶だけが鮮明に頭のなかに残り、燻り続けていた。


 だから、高校入学してその校舎に綾香の姿を見つけたときは心が少しだけ跳ねた気がした。そしてそこには彼の姿もなく、他に寄り付いているような男の影もなかった。そこからはもうアピールの日々だ。押しすぎて引かれる心配もあったけれど、後悔したくなかったから必死にアピールした。それが功をそうしたのかわからないが、高校二年生の夏。告白は成功した。


 それでもそこからの交際が上手く言っているのかと問われるとそんなことはない。そう。幸太郎は答える。


※※※※※※※※※※※


「映画、面白かったね」


 デートで遊びにいく場所も最近では限られてきた。今日も話題になっていた映画を観た。無難な選択だとも言える。それでも綾香は笑顔でいてくれる。


 今は、スタバで季節限定の飲み物を二人でシェアして飲んでいる。楽しくはある時間だ。しかし、この焦燥感はなんなんだろう。今よりもっと。綾香を幸せにしなくてはならないと言う焦りを感じる。そのためにもっと早く、大人にならなくてはと。


「ねえ、今日の映画みたいな将来の夢って幸太郎はないの?」


 綾香の突然の質問に現実に戻される。


「将来の夢?」


「そう。今日の映画の主人公たち見たいに譲れないものって言うか。将来やりたいこと」


 まさか綾香からそんなこどもみたいな事を聞かれると思わなくて少なからず動揺した。


「そんなの必要ないだろ。このまま普通に大学行って、就職して、奥さんをもらって、こどもを育てて。それだけだ」


 本当にそれだけだ。やりたいことは特にはない。でも頭は良い方だし大学も就職も困りそうにはない。無難に就職して結婚して……その相手が綾香だったら言うことはない。


「ふぅん。じゃあさ、小学校の卒業間際に書いた将来の夢ってなんて書いたの?」


 言われてみればそんなものを書いたような気もした。あの設問になんの意味があったのか当時から疑問であったけれど改めて考えてみても思い付かない。


「綾香はさ。なんて書いたんだよ」


 当時の事を思い出すまでの時間稼ぎだ。本当に聞きたかったのではない。


「えー。私のはあとで。先に幸太郎教えてよ」


 この会話を昔もしたような気がするのは気のせいだろうか。それも踏まえて記憶を探っていく。将来の夢。そうか。


「早く大人になりたい。そう書いた」


「えっ」


 綾香は少しだけ驚いたかと思ったらうつ向いてなにかを考え始めた。


 そう。早く大人になりたかった。責任とか、自由とかよく分かっていなかった当時ですら、大人というなにか特別なベールで覆われた者になりたかった。


「ほら。俺は言ったぞ。次は綾香の番だ」


 そう促すとやっと、うつ向いた顔を挙げてうっすらと笑った。その笑顔がいつも以上に綺麗に見えてドキッとした。なんと言うか大人な顔をしていた。


「それはね。秘密」


 人をからかうように綾香はそう言ってから声に出して笑い始めた。


 なんだよと思いながらも楽しいと思えた。それに綾香はこう続けたのだ。


「ねぇ。あのお願い。今日なら聞いてあげてもいいよ」


※※※※※※※※※※※


 高校生がこんなにも多感な年頃だとは思っていなかった。入学して一年は正直中学生の気分が抜けなかった。それも二年目になると周りは恋だの愛だのセックスだのと色恋沙汰の話題で盛り上がり始める。


 彼女が出来たと公言していた幸太郎はそういった話題の中心に近い位置にいた。周りより一歩先にいる。だれもがそう思っていたし、幸太郎はそう思われるように無理をして振る舞っていたからだ。だから……。


「なあ今日こそホテル行こうぜ」


 そう綾香に詰めよって、綾香の嫌がる顔を見るのも初めてではなかった。


「いかないよ」


 しかし綾香は頑としてそれを承諾はしなかった。はっきりとした意思表示。そこに揺るぎなどなく幸太郎は半ば諦めていたのだ。まあだからこそ、冗談の様に毎デートの度に誘えたのだ。


 それが……。


※※※※※※※※※※※


 冗談ではなく世界が変わった気がした。空はいつもより高く見え、街行く人たちはどこかうつむいていて自信がないようにすら見える。


 特別なことをした感覚はある。しかし行為その物はあっさりとしていて、夢中なのもあいまって気がついたら終了していた。満足したのか、満足させられたのか。全くわからない。それでも晴れやかな気分で太陽の下を歩いているのだけは自信を持って言える。


「俺さ。一生綾香の事を守るから」


 自分でもクサい台詞なのは分かっている。恥ずかしい事を言っているし、たかが高校生の分際で何ができるのだと思っている。それでも、それを叶える為の努力はできる限りするつもりだし、できなくても何とかするつもりでいる。


「そうだね。そうなったら嬉しいかな」


 けれど、当の綾香はあっさりとしている。


「なんだよ。もっと真剣に受けとれよ」


 それもこれも自分が子どもだからいけないのだと幸太郎は思う。大人になって経済的にも地位的にもしっかりしていれば綾香はこんなにあっさりしないはずだと。そう強く思う。


「素直に受け取ってるよ。私は幸太郎の初めての彼女なんだから」


 そんな言葉にすら胸踊る。早く大人になろう。幸太郎は強く。強くそう願った。


※※※※※※※※※※※


 昔の夢を見た。それは夢を見ていると分かる夢だった。綾香が遠くからこちらを眺めている。その場所にいきたいのにいくら走れどその距離は縮まる気配がない。綾香はどこか悲しそうな顔をしているように見えた。


 待っててくれすぐにそこに行くから。


 そう叫んだけれど綾香はこちらを一瞥するとさらに遠くへと行ってしまう。


 目が覚めた。昨日の今日でなんて夢を見てしまうのか。幸太郎は焦りを感じながら週明けへの学校へ行く準備を始めた。


※※※※※※※※※※※


 それは夢を見た直後の事だった。幸太郎にとっては降って湧いた様な話だった。


「私ね。都内の大学にいくことにしたの」


 学校の放課後。二人で歩いている時に綾香が急にそう切り出した。


「今日進路希望の紙出したでしょ。そこに書いたの」


 綾香の希望する大学は都内のだれもが聞いたことがあるような大学名だった。幸太郎の成績ではもちろん綾香の成績でも合格は難しいレベルだ。幸太郎は近くの大学を第一希望に記入していた。なんとなくだ。あとで綾香と答え合わせでもすればいいと思っていた。でも綾香は違った。


「だから夏休みも塾に通うことにしたの。あんまり会えなくなると思う」


「なんで?」


 感情が溢れてくるのを自分で押さえられそうになかった。


「理由は言っても分からないと思う」


「なんでだよ!そんな遠くの大学に行くって、俺とはどうするつもりなんだ」


 それが知りたかった。相談もなく、都内に行ってふたりの関係はどうなるのか。昨日の事はなかったことになるのか。


「わからない。でも別れる事になると思う。お互い遠距離は負担でしょ。お互いの時間を有意義に使うためにもその方がいいと思っている」


「じゃあ、このまえの事はなんだったんだよ!同情か!?そんなに俺が情けなく見えたのかよ!そんなに飢えていると思っていたのかよ!なぁ!」


 塞き止めていた感情がドッと溢れだした。自分では止めることができない。綾香の顔がどんどん悲しいものになっていく。それでも感情は止まることなく奥から、湧き続けた。


「そんなんじゃないと思う。ただこれ以上は無理だと思ったの。お互い依存しあって、背伸びしあって、無理し続けるの……嘘をつき続けるのが」


「嘘ってなんだよ」


 語気が強くなっているのが自分でもよく分かる。


「幸太郎が私の事好きって」


「そんなの……」


「嘘なのよ」


 必死に否定しようとした言葉は綾香の言葉に打ち消されて喉から発せられることなく飲み込む。


「私と幸太郎はお互いに利用しあっていただけ。昨日の大人になりたいて言葉で腑に落ちたの。都合がよかったのよ。幸太郎は大人になりたかった。それに釣り合いそうな人間を選んだだけ。私もそれを心地よいと感じていたし、お互い様。利用してた。でももうそれもおしまい。これ以上は続けられない……ううん。続かない」


 綾香は幸太郎の感情に負けないと言わんばかりに思いの内を吐き出しているように見えた。


 その思いは理解できないもので頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのがわかる。綾香の言葉を脳が整理してくれない。まるでするのを拒むかのように。


「だから別れるって。そんなの納得できるかよ」


 なんとか絞り出したのはそんな情けない声だった。


「……今すぐ別れるって話じゃないの。私は夏休みは勉強に専念するし、大学も都内に行く。それでも幸太郎が私と付き合うって言うならたぶん止めない。でもそうならない予感があるの。幸太郎は私を待ってはくれない」


「そんなこと……」


 ないと。断言できなかった。口だけならいくらでも言える。でもそれを実行できる展望がこの場で思い付かなかった。それも大人になれていないから……。いや言い訳だ。親を説得して、バイトをして独り暮らしをして、勉学にも励んで、その未来を実現させると言うだけの覚悟をしてこなかったから。


「ほら帰ろ」


 そう言って綾香は手を差し出してくる。黙って握る。綾香はグッと握り返してくる。その手は記憶のどんな時よりも暖かく感じた。それがなによりも悲しかった。


※※※※※※※※※※※


 夢をみた。おそらく昨日みた夢の続きだ。綾香は他の男と一緒に歩いていて幸太郎はそれを遠くから眺めていた。男といったって小学生の子どもだ。その男といる綾香はなぜか今の姿で、その男に嬉しそうに話しかけていた。ちくりと胸がいたんだ。夢ですらその場所にいられないんだと素直に消沈する。


 そういえばその男にだけ見せる笑顔が綾香にはあったような気がする。それは卒業間際立った。綾香の様子が普段と比べて元気がなかったので気になっていたので覚えている。その男と何やら話をしていた。教室であんまり話をしているところをみたことがなかったので注視していた。なにやら言い合った後、綾香はみたこともない笑顔を見せたのだ。


 その笑顔を鮮明に思い出したところで目が覚めた。


 やらなければならないことがあるのかもしれない。幸太郎はとりあえず跳ねている寝癖を直すところから始めた。


※※※※※※※※※※※


「なあ」


 幸太郎の宛もない問いかけに綾香は顔を少しだけそちらへ向けた。綾香の手はやっぱり少しひんやりとしていて心地がよかった。


 それは久しぶりに二人で学校からの帰り道だった。夏休みももう近く、セミの声が喧しく聞こえてくる。あれから何度か綾香とは下校を共にしデートを繰り返している。そこにぎこちなさがないといえば嘘になるが、以前とそう変わらない距離感ではあると思う。それも互いにあの日の話題をなかったことにするように出さなかったからだ。でも今日は違う。


「どうしたの」


 不自然な間に綾香がしびれを切らして切り返してくれる。


「俺、都内の大学に行くことにした。綾香と一緒のところは無理だけどさ」


 綾香が驚いた顔をしている。当然だ。


「どうしたの急に」


「なんか置いていかれる様な気がして嫌なんだ」


「私の後を追うってこと……」


 綾香は心配そうな顔をする。そんな顔をして欲しいわけじゃないのに。どうして笑顔にすることができない。それがより決意を強固なものにさせる。


「別れるよ。卒業するときに」


 それは都内に行くと決めた時に一緒に決めた事だった。


「やっぱりさ」


 それから必死に両親を説得した。自分で学費や生活費も稼ぐし、迷惑はかけないからと。当然の様に地元の大学に行くものだと思っていた両親の説得は思ったよりも難航した。いきたい大学の説明もし、やりたいことをでっち上げもした。そうまでして都内への進学にこだわったのは綾香の事ではなかった。


「俺は早く大人になりたいんだ。都会の方が早くなれる気がするから。それに綾香がいなくなるならこの街にも未練ないしな」


 最後の言葉は笑顔でいったつもりだったが上手くできている自信はなかった。


「そっか」


 そう言って綾香は笑顔になる。心配事がなくなってスッキリしたような笑顔。それは記憶の奥にある、あの思い出の笑顔に近い気がした。


 なにも変わっていないことはわかってる。


 でも、その現実を見ないふりして進むことしかできない。


 俺はやっぱり子どもなのだ。早く大人にならなくてはいけない。幸太郎はそう心から願った。

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