第6話 せこいエンマ

「アンタ、気は確かか? 自分で何を言っているのか、わかるかい」


 オボロは床からゆっくりと立ち、男から離れるように椅子を引くと腰を降ろした。


「ふむ。その顔は、疑っているな」


「当たり前だろ! いきなり『俺は地獄の閻魔大王えんまだいおうだー』って言われて、さいですかあ、なんて納得するヤツなんかいまい。

 しかもだ、エンマさまっていえば」


 オボロは立ち上がり、テレビを設置している本棚を物色する。

 古びた厚い一冊の本を取りだして、パラパラとページをめくった。


「あっ、これこれ。これをみなよ。閻魔大王ってのは、こういうお姿なんだよ」


 それは国内の重要文化財を記した事典であった。

 開かれた、モノクロのページを指さす。

 京都府きょうとふにある宝積寺ほうしゃくじ閻魔堂えんまどうの写真と共に、閻魔王坐像えんまおうざぞう眷属像けんぞくぞうが大きく写しだされている。


 閻魔王坐像と記された箇所に、頭には左右につばの出た大きな帽子を、ゆったりとした道服に身を包み手にはしゃくを持つ、見るからに恐ろしげな表情の像が印刷されている。


「いいかい、アンタ。よおく見な。

 エンマさまっていえば、こういういかにも地獄の大王! っていうお姿なんだぜ。

 そんな茶髪にメッシュまで入れて、ギンギンの派手なスーツに金のネックレスまで光らせた野郎が、閻魔大王だっ、なんて叫んでも誰が信じるよ」


 オボロは一気にまくしたてた。それに対して、男は答える。


「あのな、最初に会ったときにこう言ったはずだ。人を見かけで判断すると、大変なことになるぞ、とな」


「ああ、覚えているさ。だがな、仮にアンタが閻魔大王だとすれば、人じゃない」


「ふふん。へらず口ってえやつか。まあいい。確かに、私は人ではないからな。

 地獄の裁判官は、私を長として組織されているのだ」


 男は腕を組んだまま、胸を張る。

 オボロは辞典を閉じ。サングラスのブリッジを指で押し上げた。


「それにだ。閻魔大王なら、なぜこんな地上に居るのだ。

 天国か地獄かわからないけど、成仏した魂を相手にしなきゃならないのではないのか。

 しかも小学生にフクロ叩きにされ、意地汚く飯はたかるわ、コンビニで廃棄する握り飯をもらってくるわ、そんなせこい大王さまに私たちは死んだら裁き受けるなんて。

 アンタが裁判官なら、死んでも死にきれないぜ!」


 男はオボロから視線をそらす。


「ご飯くらい食べたっていいだろう、せっかく地上界に出張してきてんだから。

 多少羽根を伸ばすくらいで、文句いうなよな。

 それに私は、この地上界ではいかなる殺生せっしょうもできないんだ。でなけりゃあ、あんな餓鬼ども屁でもねえ。

 まあ、私の記憶中枢に要チェックしたからよ。あの餓鬼どもがいずれ三途の川さんずのかわを渡って来たときには、それ相応のお返しをさせてもらうし。ウフフフッ」


「アンタは子供か! エンマさんが仕返しなんてするのかっ」


「するさあ。あったりまえじゃーん」


 オボロは頭をかかえた。


「おかしい、絶対なにかが違う。

 前歯に海苔をつけて、笑いながらせこい意趣返しを考えている閻魔大王。

 私がおかしいのか、それともこいつが病んでいるのか」


 ふとオボロは先日の一件を思い出した。


「ところで、なんであのとき、私の前から逃げ去ったんだ? エ・ン・マさん、さあ」


 男の目が大きく見開いた。急にキョロキョロと目を動かし、挙動不審になる。


「ば、ばか! 声がでけえよ。

 見つかったら、どうするんだよう」


「ハアッ?」


 男から、急激に畏怖感が消えていく。

 コンコン、と何かを叩く音がオボロの耳に聞こえた。


「いま、何か音がしなかったかい」


 オボロは男を見る。

 いつのまにか足音を忍ばせ、男は背を屈めるように玄関に向かっているのを発見する。


「おい、どうした。帰るのかい」


 男は必死の形相でオボロを見ながら、人差指をたてて口元にもっていく。

 コンコン、オボロはその音が、ベランダから聞こえているのに気付いた。


「なぜベランダから、ガラスをノックする音が?

 ここは、三十階だよ」


 何の気なしに、閉め切った分厚いカーテンを、シャッと開いた。


「ィ!」 


 オボロは悲鳴を上げることすら忘れ、全身の毛を逆立てるように立ちすくむ。

 ガラスの向こう側に、長いザンバラ髪を振り乱した、若い女性の恨みがましい顔が浮いていたのであった。

 オボロは生まれて初めて、気絶するという醜態をさらしてしまったのである。


つづく

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