第4話 逃げる亡者

 鋭利な刃物を並べたような岩肌を、裸足の足はとうにズタズタになっているにも関わらず、走る。真の闇があたりを支配しており、方向感がまったくつかめない。


 ただ走る。


 大きなでっぱりにつまずき、顔から岩肌に転がってしまう。

 顔を手足も、身体中が切り裂かれている。身にまとう衣服なんてない。

 男なのか女なのか、それを区別する光なんて存在しない闇の世界。


 恐怖。


 それだけが支配し、逃れるために走る。

 身体中が強烈な痛みに見舞われている。しかし立ち止まることはできない。

 あきらめた瞬間に、こんな痛み以上の恐怖が連れ戻しにやってくるのだから。

 逃げた先に、出口があるのかどうかはわからない。


 それでも走る。


 どんなに身体中が切り刻まれたところで、死ぬことはない。

 なぜなら、とっくに三途の川さんづのかわを渡ってしまったのであるから。

 未来永劫責め苛まれる、地獄の世界から抜け出すために走り、逃げているのであった。


 髪は抜け落ち、数本が頭にへばりついている。まぶたのない眼窩がんかには丸い目玉が血走っていた。鼻は業火で焼かれ、黒い二つの穴だけになってしまい、あえぐ口元には唇もなく乱杭歯らんくいばがカチカチ音を立てている。

 浮き出たあばら骨の下部には、風船のような腹がぽっこり突き出ていた。


 亡者は、ただただ走り続けた。


「一生懸命走っているな」


 暗い空間の中、太い男の声が、残響音を残しながら話しかけてきた。


「それはそうでしょう。この機会を逃したら、それこそ気の遠くなるような時間を過ごさねばなりませんからねえ、


 大人に成りきれていない少年の声音が、呼応する。


「地獄には、時間という概念はない」


「そうでした。いまだにあの頃の感覚が抜けておりませんね、私は」


「ふふん。まあ、よいわ。

 しかし、酔狂な考えを持ったものだ。それだけの知恵を抱きながら、志半ばで朽ち果てたときは、さぞかし無念であったろう」


「それが、そうでもないのですよ」


 ボウッ、と闇の中に顔が浮かび上がる。

 やはり少年であった。十五、六歳くらいであろうか。

 長い髪を後ろで束ね、前髪は降ろしている。細い眉の下には、切れ長の目が妖しげな光を帯びていた。


「あの時はたしかに悔恨を残しました。だけどこの世界は刺激がなくてつまらないですね。

 しかし、まさかあなたのような方にお会いできるなんて、思いもしませんでした」


 少年は口元に笑みを浮かべる。


「どんな力が作用しているのかは知りませんが、なにか面白くなってきました。

 わが神の計らいとでも申しましょうか、せいぜい楽しまさせていただきますよ」


 闇に浮かぶ少年は、クックックと喉を鳴らした。


~~♡♡~~

 

 オボロは新しい依頼人との面談のために岐阜県ぎふけんまで一泊出張し、自宅マンションに帰りついたのは翌日の午後八時をまわっていた。

 愛車を自宅マンションの地下駐車場に置き、商売道具をつめこんだトランクケースをガラガラと引きながらエレベーターに乗り込む。

 最上階である三十階のボタンを押すと、ふうっと息をつきながら壁に背をあずけた。


「金持ちを相手にするのは疲れるねえ。無理難題が、何でも通ると思っているから始末が悪い。

 まあ、こっちも商売だし、仕方ないとはいえ」


 チンッ、エレベーターが到着を告げる。

 オボロはトランクケースを転がし出ようとしたとき、ピクンと小さな不快感が頬を射した。


「なに、この感覚? いやあな予感」


 オボロの部屋はエレベーターを降り、渡り廊下を左に進んだ一番奥の角部屋である。

 廊下は広く、それぞれの部屋は玄関前に三メートル四方のスペースが設けられているのだ。

 観葉植物を置いたり、自転車を立てかけたりと、住人が好きなように使用している。

 オボロはゆっくりと足音を消すように、辺りをうかがいながら歩いた。

 あと二歩で自宅玄関前のスペースにつく、その時。


 コンクリートの壁から、ひょっこりと顔をのぞかせたのが、「い、犬っ!」であった。

 愛くるしい真っ黒な目で、ハアハアと舌をだした柴犬がちょこんと座っていたのである。


「な、なぜ犬が」


 全身を硬直させたオボロは顔面蒼白になり、白い顔がさらに白く変わる。


「ど、どこから来たんだ、こいつ。シッ! シッ」


 トランクケースで足元を隠し、革手袋をはめた手で追い払おうとする。

 実際に考えてみれば、角部屋であるということは、目の前の犬をどけるためには自分が立っている廊下から背後におしやらねばならない。

 じっとりと、イヤな汗が額に浮かぶ。


「待てよ、この犬は、もしかして」


 オボロはトランクケースを盾に、恐る恐る遠巻きにして玄関の方へ近づいた。

 そこには思った通り、セーラー服の少女が、体操座りで玄関のドア前にいたのである。


「おお、きみは、サクラちゃん?」


 おかっぱ頭の少女は、伏せていた顔をあげた。大きな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「どうして、こんなところへ? って私の自宅だけど」


 少女、サクラはしゃくりあげるようにつぶやく。


「どこに行っても、だーれもわたしの相手をしてくれないの。わたしとジンタは寂しいから、誰か遊んでくれないかなって、いろいろなところに行ったの。

 でも、誰も遊んでくれなくて」


 サクラは、シクシクと大粒の涙を流し始めた。


「い、いや、きみは産土神っていう土地の守り神だから、普通の人には見えないんだよ。

 私だって、霊媒師じゃないのに、なぜか見えてしまったから。だからあの土地の縛りを解いてあげちゃったんだけど。

 でも、私の住まいがよくわかったね?」


 オボロは膝に手を乗せ、かがみこむようにサクラに話す。

 サクラは泣き顔のまま、コクリとうなずいた。


「この子が、捜してくれたのよ。えらい?」


 指さす先に、ジンタがお座りの姿勢で小首をかたむけている。

 ドキッと、オボロは思わず及び腰になった。


「え、えらいねえ。でも、紐は放さないでよ、絶対に」


「おじさん、わたしと遊んでくれる?」


 サクラは濡れた大きな瞳で、オボロを見上げた。


「おじさんって。

 遊んであげたいのはやまやまなんだけど、私も仕事でいろいろと飛び回らなきゃいけないしねえ」


 お座りの姿勢でおとなしくたたずんでいたジンタが、キューンと鼻を鳴らしてサクラを見る。

 オボロは、思わず後ずさりする。

 サクラは悲しげにうつむき、犬の頭をなでた。


「そうよね。おじさんは、わたしとジンタを自由にしてくれたんだから、それだけでもありがたいのに。

 これ以上迷惑かけちゃ、悪いもの。ごめんね」


 少女は立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。


「どこか、行くあてでもあるのかな」


 オボロはあわてて尋ねる。

 サクラは、無言で首をふった。


「どこか、きみたちが安心して暮らせる土地があればいいのだけど」


 オボロの言葉にサクラはこくりとうなずき、ジンタをしたがえて廊下を歩きだした。

 エレベーターの扉の前でオボロを振り返り、もう一度、ごめんなさいと口にするが声は聞こえなかった。

 オボロはとてつもない罪悪感にとらわれていた。


(私があの時に手を出さなければ、あの子を土地から引きはがさなければ良かったのじゃないか? でもそれではいずれ彼女は消滅していく。それがわかっていたから、憐れみをかけてしまったのだ。

 もしかするとあの子の運命を、私は無理やり捻じ曲げてしまったのか。

 占術師の私が、霊媒師の真似事をしたことが災いとなったのか)


 エレベーターの開いたドアに、うつむいたままセーラー服の少女と柴犬が入っていく。

 かといって産土神であるサクラを、この部屋に住まわすことは難しい。


「いや、動物は一匹だけ、飼える規則はあるんだけどね」


 声にだし、オボロは言った。そう。問題は、お連れの犬であったのだ。

 頭をふり、きびすを返して部屋のドアを開けようとした。


「やっぱり、いたなあ。どこか遠方にでも行っていたのかい」


 やけに馴れ馴れしい声に、オボロは振り向いた。

 茶髪のロンゲに、派手な銀色のスーツの男が立っているではないか。

 先日、牛丼をたかられた長身の男である。

 その両手には、コンビニの袋が握られていた。


「ア、 アンタ、いったいどうして私のマンションを?」


「でへへっ、蛇の道はヘビって知ってるかい。そんなスタイルで町を歩いているやつぁ、そんなにいねえって。

 へえ、おぼろっていう名前なんだ。

 オボロってなんか、お菓子みてえで美味しそうな名前だな」


 男は玄関に取り付けられた表札プレートを見て、ニヤつく。


「で、今度は何の用なんだ。こっちはそうそう相手をしていられるほど、暇人じゃないんだよ」


「またあ、そんなにつっけんどんにするなよう。

 この前はご飯を世話になったからさ、お礼しようと思ってね。ほらっ」


 男はにこやかに微笑みながら、コンビニの袋を嬉しそうに持ち上げる。


「早く部屋に入ろうぜ。お腹、減ってるだろ。私はペコペコだよう」


 オボロの脇をすり抜け、玄関ドアをガチャガチャとし始める。


「い、いや、ちょっと待て! 私は忙しんだ。見ず知らずのアンタを部屋に入れるわけにはいかない」


「ちぇーっ、せっかく一緒にご飯を食べようと思って来たのによう」


 男は唇をとがらし、肘でオボロをつつく。


「いいじゃんかよう、なあなあって。ご飯を食べようよう」


 身長百九十センチ近い超イケメンが、まるで子供のようにオボロに言い寄る。

 いままで様々な人間を相手にしてきたオボロは、常に相手の風上に立つことで主導権を握り、話を自分のペースで持って行けるように先手を打ってきた。

 ところが目の前の男には、完全にペースを乱されてしまうのである。

 オボロは大きなため息をついた。


つづく

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