第2話 オボロ、サクラと出会う

 オボロはN市の自宅マンションを出ると、隣接する東郷町とうごうちょうの依頼人の屋敷に、愛車であるトヨタFJクルーザーで向かっていた。ツートンダークグリーンの四輪駆動車である。

 依頼人がとんでもない山奥に住んでいる場合もあるため、四輪駆動車が必要不可欠なのだ。


 約束の時間は午後九時。

 相手は土地持ち資産家である。もちろんなじみの顧客からの紹介であった。

 鷲ノ山甚平わしのやま じんべいと名乗る新規客に、オボロは電話でアポイントを取った。


 依頼内容は面談時に、ということでオボロは占術に使用する七つ道具を入れたトランクケースを積んで、N市内の自宅マンションから出かけてきたのである。

 まだ夏物でも過ごせる季節であるが、オボロは黒いシルクのハットをかぶり、黒い革のコートを羽織って愛車のハンドルを握っている。下は黒いスーツに黒いシャツだ。

 帽子から銀髪が無造作にコートにかかっており、とっくに夜のとばりがおりているにもかかわらず、丸い黒のサングラスを掛けたままであった。ハンドルを握る両手には、黒の革手袋をはめている。


 東郷町は工場街でもあり、国道沿いには大小さまざまな工場が立ち並んでいる。一方で町の周囲は山に囲まれており、田畑には収穫前の農作物が青々と実っていた。


 オボロは搭載しているナビを頼りに依頼人の住む自宅へ、国道をはずれハンドルを山の方へ向けた。

 大きな屋敷であった。田圃道を走りながらハイビームにした灯りに、徐々に近づく。

 土塀に囲まれた依頼人の自宅は、およそ千坪はあろうか。瓦屋根の築百年は越していそうな母屋に、納屋、蔵までが見える。

 オボロはクルマを敷地内に入れた。


「うん?」


 全身が総毛だったのだ。いやな感じではなく、むしろ襟元えりもとを正さずにはおられない神々こうごうしさを感じ取っていた。


「そういえば、ずっと以前にもこんな気配を感じたことがあったな。いったいいつ、どこでだったか。思い出せない」

 オボロは咳払いをすると、庭先でクルマを停めた。


~~♡♡~~


 古い柱時計が午後九時の時報を、五分遅れでゼンマイ仕掛けの鐘を鳴らす。

 居間は畳敷きの床に革張りの大きなソファセットが置かれ、オボロは上座の位置に腰かけていた。

 十五畳ほどの居間には、桐箪笥きりだんすや木箱型の大きなオーディオセット、国境を度外視した人形たちを飾った棚、マイセンやバカラなどの超高級な食器をこれみよがしに並べた食器棚が置かれている。

 見事な金細工で飾られた仏壇が、部屋の角に設置してある。

 薄い黄色の土壁には数々の賞状がかけられてあり、この家のご先祖と思われる遺影がモノクロ写真として額に入れられ、横に並んでいた。

 いわゆる田舎の金持ちが好む、居間の風景である。


 一枚板で作られた、にかわ色のテーブルをはさんで、オボロの向かい側には紺の作務衣さむえを着た小さな老人、鷲ノ山がちんまりと座っていた。

 シワに埋もれた顔は、長年の農作業で太陽にあぶり続けられたのであろう、焦げ茶色に近い。禿げ上がった頭部も、袖からのぞく腕も日焼けしている。


「先生、今日は遠路はるばるようお越しいただきましたなあ。あいにく連れ合いはとうに旅立っておりますんで、なんもお構いできなくて申し訳ないが」


 オボロは会った瞬間に顔相、声相からどんな人物かを判断していた。


(御年八十二歳、プラスアルファ二歳。細い目の上には長い眉毛が垂れ下がっている。鼻根から鼻背、鼻尖が顔の大きさに比し長い。口角の角度、オトガイ唇溝のしわ。

 それに、枯れていながらもよく通る声、か)


「いえ、どうぞお構いなく。今回は竹本さまからのご紹介ですからね。きっちり仕事をさせていただきますよ」


 オボロは言った。


(なかなかどうして、大した人物のようだ。意志が強く、曲がったことが嫌い。裏表をはっきりさせないと気が済まない。清濁あわせ飲むなんてしない気質。ただ気になることがある。

 この老人、まさか)


 鷲ノ山は禿げた頭をぺこりと下げる。


「どうぞ、よろしゅうお願いいたします。

 最初に申し上げときますが、この老いぼれ、実は腹ん中にがんを持っておりましてな」


(やはり、そうか! 死相が観えたのは間違いなかったな。もって、あと三ヶ月ってところだろう)


 オボロは口には出さず、老人の話を聞くためかソファの肘掛けに腕をのせ、とがった顎を手の甲で支える。

 帽子、マントは玄関先で脱いだが、丸いサングラスはかけたままである。


「竹本とはN大学の同窓でしてな。やっこさんは学生のころから、いつかは一国一城の主になるんだと公言しておりました。かなり苦労もしちょったんですが、一代でいまの会社を興し初志貫徹しましたわな」


「そのようですね。私も数年前に、社長の座を誰に譲るかという問題で、鑑定を依頼され初めてお会いしました。

 私の占術から導き出された、ご長男ではなくご次男に会社を任せれば会社はさらに拡大発展する、という答えの通りにされたのです。

 結果ご存じのように、あの会社は今では業界でも指折りの存在になっております」


「そう、先生のおっしゃる通りです。

 わしは大学をでて商社に入りましたがの、そのころ親父が亡くなり、泣く泣くこの家と百姓を継がざるをえませんじゃった」


 鷲ノ山は半笑いを浮かべ、壁に飾ってある先祖の遺影を見上げた。


「あなたがそのまま商社にお勤めであれば、間違いなく社長の椅子に座ることになっていたでしょう」


「それは、やはり先生の占いで?」


「はい。

 私はあらゆる占術を修めています。手相、星占い、タロットカード、易経えききょう風水ふうすい奇門遁甲きもんとんこうなどなど。水晶や動物も使うし、亀甲きっこう占いもやります。

 ようは依頼された内容により、私の持つ技術を使い分けるのですよ。

 まあ一般的な、月並みな占い師は自分の得意とする方法だけを使い、鑑定する相手をそれに合わせるという稚拙な占術しかできません。

 それではまぐれ当たりはあるものの、的外れな結果しか導きだせやしません。だから、ぼんやりと言葉をぼかすのです。

 私は依頼人と徹底的に話し合います。その上でさきほど申しましたように、最適な占術法を選択いたします。

 今のは余興ではないですが、サービスとしてあなたのお顔の相から占ってみましたよ」


 鷲ノ山は細い目をさらに細め、笑みを浮かべる。


「そうですかのう。わしも竹本とまでは言わぬが、世界を舞台に飛び回りたかったですわなあ」


 オボロは相槌をうつわけでもなく、まっすぐに老人を見ている。サングラスに隠された表情は、読み取ることができない。


「それはいいとして。先生もお忙しいじゃろうから、話をはじめさせていただきますかな」


 鷲ノ山はコホンと咳払いをする。


「さっきも言いましたように、わしにお迎えがくるのは間近でしてな。問題は先祖から譲り受けたこの土地をどうすべえかなと、悩んどりました。 

 いずれこの周りも開発の手が及んで、小さな田畑ではありますが相当な値段がつきますじゃろ。わしの老いぼれた頭でざっと計算しても、十数億円は下りますまい。

 ご先祖さんらが戦争や災害から奇跡的に守り抜いた、大切な土地でございますわ。

 本来なら、わしの子供に亡きあとを守ってもらいたかったんじゃが」


 鷲ノ山の顔がくもった。


「あいにく、わしら夫婦は子宝に恵まれんかった。そうなると、この家や田畑は血のつながりのある親戚縁者にわたることになりますが。

 はははっ、お笑い下され。やっこさんたちはわしの死を、手ぐすね引いて待っておるんですわい。

 誰もこの土地を守ろうとせん。さっさと売り飛ばして、目先の金に換えてしまうのは火を見るよりも明らかなんですな。

 いっそのこと、お国に寄贈してしまったほうが清々しますわい」


 オボロは深く語らぬ老人の悔しさを、感じとっていた。


「しかし、そんなことをしようもんなら、弁護士をたててこの土地の相続権を守るんでしょうからな。

 そこでどうしたもなかと、竹本に相談がてら話をふったところ、先生を紹介されましたんじゃ」


「なるほど。お話はわかりました。

 ところで先ほど、この土地はあらゆる時代を乗り切って守られてきた、そうおっしゃいましたね?」


「さよう。代々のご先祖のご加護というんじゃろうか。

 はるか昔、ちょんまげの時代ですわ。何日も日照りが続き、いわゆる大飢饉に見舞われたときのことらしいのですがな。

 実に不思議なことに、この田畑だけには実りがあったというのですわ。ご先祖さんは独り占めすることなく、収獲できた作物はそれこそただ同然で周囲の村人にわけ与えたと、わしは幼いころに爺さんから聴かされました。

 爺さんもまた、ひい爺さんから教えられたということでしたな。そのために、この村では餓死者がでなかった、と」


「ふむ、なるほど」


 オボロは何か考えるように、宙を見据える。

 沈黙が居間を包み込んだ。柱時計のゼンマイの音が、やけに大きく響く。


「ここの敷地に足をふみいれた時に、やけに神聖な気持ちになりました。

 私は占術師だが霊媒師ではない。それでも思わず頭を垂れなければ、失礼になると感じました」


「ほ、ほう」


「この土地はおっしゃったように、ご加護によって生きている。

 草花は肥料や水を絶やさぬよう愛情をもって育てれば、花を咲かせ心に安らぎを、実をつかせて身体に滋養を提供してくれる。

 大地も同じではないかと、思います。

 代々ここに住まう人間が、丹精をこめて大地を生かしてきた。だから大地は恩返しのために、どんなときにも実りを与えてくれた。こう考えるのもひとつでしょう」


 オボロの言葉に、鷲ノ山は大きくうなずく。


「先生の言われることに、合点がいきますわい。なるほど、そう考えるとやはりこの土地は、これからも愛情を持って耕してあげたいものですなあ。

 だが、もうこの土地を育む子孫はいない。わしの代で終わりですじゃ。あの世でご先祖さんたちに、詫びても詫びきれん」


「それは、違いますよ」


 オボロはあっさりと鷲ノ山の言葉を否定する。


「ち、違うとな」


「あらかじめ定められた、運命なのです。

 この土地の、寿命と考えてみませんか。そう、生きとしいけるものには、必ず天命があるのです。

 あなたに子供ができなかったのも、運命です。もしかすると、この大地はまもなく訪れるであろう命脈が尽きることを、知っていたのかもしれません。

 あなたがこの土地の、最後の生育者なのです」


「土地の寿命ですかな。わしで、最後か」


「そうです。

 占術によって、運命の流れを変えることはできます。しかし、変えてはいけない宿命だってあるのですよ。

 あなたはがこの土地の、最期を看取ってあげるのです」


 老人の細い目に、小さな光が灯った。


「しかし、先生。わしの寿命は」


「いま言ったはずです。変えちゃいけない宿命もあれば、占術によって流れを変えることができると。

 私は医者ではありませんから、あなたに延命治療をほどこすことはできない。でも歩いていかれる道筋の角度を、少しかえて差し上げることは可能なのです。

 それで少しでも寿命をのばすのですよ。

 その角度を変える手段が占術であり、私はそれを生業なりわいにしております。

 勘違いしないでいただきたいのは、角度を変えるからといって、この先十年生きられますと言っているわけではありません」


 鷲ノ山は思わず手を合わせて、オボロを拝む。


「先生、この老いぼれに時間をいただけるのか! ありがたい、いや、本当にありがたい」


 オボロはあごを手にのせたまま、足を組んだ。


「では、さっそく道筋を変えるためにはどうすればいいのか、鑑定するとしましょうか。

 さて、この場合はどの手法が良いかな」


 オボロはソファの横に置いた、大きなトランクケースを開けた。

 鷲ノ山は見るとはなしに、中に視線を落とす。

 ケースの中は仕切りがいくつもあり、カード類、筒、水晶玉、何冊もの書物、得体のしれない動物の革などが入れられている。素人には、なにがどうなのか、さっぱり検討もつかない。

 オボロは口元に笑みを浮かべ、トランクケースの中に指を入れた。


「あなたには、『ルーン占い』が有効でしょう」


 指先がとりだしたのは、コンパクトな白いアクリルケースであった。

 オボロは卓上でケースの蓋を開く。中には親指大のカラフルな小石が二十四個、収められていた。それぞれに、文字が彫られている。ギリシア文字であった。


 ルーン占いは古代北欧の神聖文字とされるルーンを色付けした石に彫り、比較的短期的未来について観る場合に用いられる。


「さあ、はじめましょうか」


 鷲ノ山はゴクリとのどを鳴らした。


~~♡♡~~


 オボロが屋敷の玄関に立っている。

 鑑定には、およそ一時間かかった。

 ハットをかむり、コートをまとう。左手でコロのついたトランクケースを持った。


「先生、誠にありがとうございました。これで安心して、この土地といっしょにあの世に旅だてますわい」


「いや、あくまでもお医者の宣告した余命を、若干引きのばすだけですから。

 その間、心ゆくまでこの大地を耕し、愛してやってくださいな」


「わかりました。鑑定料は、明日一番で農協から振り込ませてもらうよって」


「お願いいたします。

 ああ、見送りは結構ですよ。

 この荷物をクルマに詰めこんだら、勝手に帰ります。ただ、すこしだけこの屋敷内を散策させてもらって、構わないですかね」


 オボロは手を広げて、敷地内を指した。鷲ノ山は笑いながら答える。


「こんな古い田舎の家が、お好きなんですかの?

 どうぞ、どうぞ、ゆるりとみてやってくださいよ」


 それでは、とオボロは頭を下げいとまを告げた。

 土塀のそばに停めた愛車に七つ道具の入ったトランクケースを押し込むと、オボロはゆっくりとした足取りで敷地内を歩き始めた。


 母屋の横には耕耘機やトラクターを入れた小屋、小さな鶏舎、農作物を保管する倉庫、そして蔵が建っている。灯りはそれぞれの軒下に下がった裸電球が、やんわりとした光を投げかけていた。

 少し奥まで足をのばすと、自家用なのだろうか畑にはきゅうりやナスが植えられていた。


 オボロのサングラスに、一本の桜の大きな幹が写る。


「ほう、見事だな。ソメイヨシノかな?」


 畑の横に、黒い影となっていた大きな樹木があったのだ。

 桜はヤマザクラと呼ばれる、古くからある種である。ソメイヨシノは明治時代の前あたりから、交配によって作られた種なのであるが、樹木に素人のオボロには区別がついていなかった。


 ヤマザクラのなかには、樹齢五百年を超えるものもある。

 目の前に立つ大木の葉は、ところどころ紅葉しかけているようだ。

 オボロは手を合わせ、この土地を育んできた万物にむかい頭を下げた。透明になった心に柔らかなぬくもりが広がる。


 一枚の葉が、はらりとオボロの前に舞ってきた。

 葉に気を取られ、ふと顔をあげたオボロの目に、ヤマザクラの根元に人影が写ったのである。


「えーっと、誰かそこにいるのかな」


 オボロは腰に手をあてて、誰何すいかする。

 星の光と、母屋からもれる灯りだけでははっきりと見えない。

 もう一度声を掛けようとしたときに、人影が口をひらいた。


「えーっと、ここにいるのは誰かな?」


 少女の声だ。

 オボロは少しホッとした。占術師の修業では、一部にオカルトチックなものもある。だから一般人よりも免疫はあるとはいえ、幽霊や物の怪もののけたぐいは得意ではない。


「この家には子供はいないはずだけど。

 きみはこの近くの子かい? まさかきゅうりを盗みにきたのじゃないだろうね」


「エエッ、わたし、盗っ人にみえますかあ?」


 大きな声で言いながら、少女が陰から現れた。少女は小柄な中学生のようであった。

 白地に、紺のセーラーカラーがついたセーラー服を着ていたのである。スカートは膝あたりまでの紺色だ。白いソックスがやけにまぶしい。


 いま流行っているのかどうかオボロは知らないが、目の上でパッツンと真っ直ぐに切られた前髪に、肩にかかるくらいのオカッパと呼ばれるショートヘア。背丈はオボロの肩程度のようだ。

 大きな二重の目に小ぶりの鼻で、小さな口元を怒ったように突き出している。


(なんとまあ、かわいらしい顔立ちだ)


 オボロは思わず微笑んだ。


「ごめん、ごめんね。いや、こんな時間に一人でこそこそしていたから、てっきり野菜泥棒かと思ってしまった。謝るよ」


 オボロはオーバーに片手をあげて、そのまま腰を折った。


「わたし、ひとりじゃないもーん」


 少女は手に紐を持っており、それを目の前に上げてみせる。


「ひとりじゃないって、まさか、イヌ? なんて言わないでよ」


 オボロは他の動物はなんともないが、犬だけは絶対的に無理なのであった。幼少の頃に辛い思い出があり、それがトラウマとなって現在に至るまで犬とは無縁の生活を送ってきている。


「あたーりー! どうしてわかったの?

 あっ、そうか、犬が大好きなのね。そんな顔しているものね」


 少女が白い紐を引くと、ヤマザクラの幹の影からちょこんと犬が顔をのぞかせた。

 赤毛の柴犬である。

 柴犬は吠えることなく、ハーッハーッと舌を突出して、少女の横でお座りの姿勢をとった。

 賢そうな真っ黒な丸い瞳が、オボロをみつめている。


「い、犬だね、どこから見ても。

 わかったから、絶対に紐をはなさないでよ。噛みつくといけないから」


 少女はきょとんとした顔つきをする。


「この子は賢いんだよお。悪い人はわかるんだって。良い人には吠えないし、噛みつかないって言ってるよ」


「だ、誰が?」


「この子」


 少女はニコリと微笑んだ。


「わかったから、私は善良な人間だって伝えておくれよ」


 オボロは、ほぼ硬直状態で声を震わす。


「うん。伝えなくても、大丈夫」


「えっ?」


「この子も、わたしも、おじさんが良い人だってわかったからね」


「お、おじさんって。ま、まあいいか。

 うん?  

 わかったって言ったね。どうしてわかったのかな」


 少女は犬を引き連れ、オボロのいる場所に歩きはじめた。柴犬は少女を見上げ、視線をオボロに移す。


「だって、おじさん、さっきここに住むお爺さんに、良いことをしてあげたでしょ」


 オボロはガタガタと震えだした。犬が近づいてくると。


「お爺さんは本当にこの大地を愛し、毎日毎日朝から晩まで一生懸命田んぼや畑を耕してくれているのよ。わたしとこの子は、いつもあのヤマザクラの上から見ていたわ。

 お爺さんのお爺さんとお婆さん、そのまたお爺さんとお婆さん。ここに住む人たちは、ずっと真心をこめてこの土地を育ててくれてるの」


 その言葉に、オボロは気が付いた。


「きみは、まさか? 幽霊なのか。

 いや、そうではないな。

 もしかしたら、この土地にまつられた産土神うぶすながみなの?」


 少女はすでにオボロの手に届きそうなところまで、歩いてきていた。柴犬を連れて。


「なにーそれー? おじさんの言ってること、わかんなーい」


 柴犬がオボロを見上げている。

 それにさえ気づかず、オボロは口を開けたまま少女を見つめていた。


(そんな、ありえない。この子がこの土地を守ってきた神だなんて、誰が信じる?

 仮に神とするのなら、何故セーラー服を着て中学生の姿なのか? しかも犬まで連れて。

 私は幻覚をみているのかしら。いいや、いたって正気だ。それは自覚できる)


 思考をフル回転させながら、現状を分析しようとする。


(でも、もし仮に本当に神とするのなら、あの主人が亡くなってここが売られてしまったら、土地の守り神である産土神は、いやこの子はどうなるというのか?

 土地の死とともに、消滅してしまうかもしれない)


「――先生、まだおいでだったかいね」


 後方からいきなり声をかけられ、オボロの心臓は飛び上がった。


「び、びっくりした!」


「なにやら話し声がするもんだで、ちょっくら覗きにきたんだが。

 先生、ヤマザクラに向かっておひとりでしゃべる趣味でも、おありなんかな?」


「エッ?」


「いや、さいぜんから見ちょったらの。先生がぶつぶつ独り言を言いなさっておったもんでな」


「はあ、えーっと」


 どうやら鷲ノ山には、目の前に立つ少女と柴犬が見えないらしいと気づく。

 少女は小首をかしげながら、楽しそうにオボロを見上げている。


「そ、そうなんです。ご主人の寿命が続く限り、この大地が元気でいられるようにと、ちょっと古代の呪文を」


「なんと、そこまでしていただけておったのですかな。これは、ご無礼つかまつりました。

 ではお邪魔になるといけないので、わしは引き揚げます。

 どうか、よろしくお願いします」


 鷲ノ山は深々と頭を下げ、母屋へもどっていった。

 オボロはふっとため息をつく。

 老人を見送ると、オボロは意を決したように振り返り少女に告げた。


「名前は、あるのかな。わからないかい?

 うーんと。そうだっ、それなら、仮にサクラちゃんって呼ぶよ」


「サクラかぁ。なにか良い名前だね、サクラって。

 じゃあ、おじさん。この子にも名前をつけてあげないとね。

 なにがいいかなあ。

 そうだ! 今のお爺さんから名前をもらっちゃおうっと。甚平さんって言うのだよ、知ってた? 

 うーん、この子は男の子だから、ジンタ、ってどう?」


 サクラはオボロを見上げ、柴犬に視線を向ける。

 柴犬はジンタと呼ばれ、嬉しそうに首を傾けた。


「ジンタ、いいんじゃないかな。ではジンタに言っておいて。吠えたり噛みついたりしないでねって。

 それでね、サクラちゃんは知らないだろうけど、あのお爺さんは、もってあと二、三年でこの世を去る運命なんだ」


「うん、知ってるもーん。だから先ほどおじさんに言ったじゃなーい。良いことをしましたねって。おじさんが寿命を先延ばしにする方法を、教えてあげたのね」


「ああ、そうだったね。でもお爺さんが亡くなったら、もう誰もこの土地を生かしてくれる人は、いなくなってしまうんだ」


「そっかあ。お爺さんに、子供はいなかったもんね」


 少女は、初めて憂いを帯びた表情をみせた。


「この土地は多分売りに出され、全部更地になって住宅やお店に変わってしまうだろうね。

 そうなったら、きみはどうなるのかな?」


「うーん、わかんなーい。だってずっとここにいたし、これからもいるつもりなんだもーん。

 でも今までのように土が見えなくなったり、さわれなくなったり、あのヤマザクラが切り倒されたらどうなるのかなあ。

 わたしもこの子も、いっしょに消えてしまうかも」


 オボロは、下を向いて爪先で地面を蹴る少女が哀れに思えた。

 どうすればいいのか、占術師として何をすべきなのか、何ができるのかを自身に問うた。

 しかし、占術はあくまで人間が生きていくうえでの道しるべであり、神や仏を占うなんて聞いたことも、やったこともない。


「サクラちゃんは今まで、充分にこの土地を守り、お爺さんやそのご先祖さんたちのためにつくしてきたんだ。

 どうだい、これからは自由に生きてみないかい? 神さまに、生きろってのもおかしいけど。

 もっといろいろな場所に、行ってみる気はないかな」


「だけど、わたしとジンタはここにしか住めないし、この土地から出ることはできないんだよ」


「それは多分、産土神としての運命なのかもしれないね。

 私は占術師だけど、修行中時代にバチカンの偉いエクソシストのもとで、手ほどきを受けたことがあるんだ。三年ほど修業させてもらったかな。

 でも私は元々占術修行の一環として学んだだけだから、いってみればイロハを覚えた程度だけどね。それでも、ある程度の技術だけ覚えているんだ」


 オボロの言葉に、サクラは眉間にしわをよせ、首をかしげた。


「えくと? ししとう?」


「悪魔祓いだよ」


 さらりと言われ、サクラは細い眉毛をつり上げる。


「エーッ、わたしは悪魔じゃないもーん!」


 オボロは苦笑まじりに続ける。


「もちろん違うさ。じゃなくてね、サクラちゃんは産土神として、言ってみればこの土地にいているってわけ。

 それを私が祓うことによって、サクラちゃんをここの縛りから解き放てるんじゃないかと考えるのだよ。われながら、名案だと思うけど」


「憑くとか祓うとか、おじさん、やっぱりわたしを騙そうとしていない?」


「とーんでもない! 私はサクラちゃんを、自由にしてあげたいだけだよ。

 神に誓って、ウソは言わない」


「なーんか、わたしも神っていう存在らしいから、わたしにウソついてないってことね」


 少女の真剣な眼差しに、オボロは力強くうなずいた。


「じゃあ、わかった。おじさんにお願いしよっかなあ。

 ねえ、どう思う?」


 しゃがみこんで、かたわらの柴犬ジンタの頭をなでる。

 オボロはいまさらながら、大の苦手とする犬が(たとえ神様の使い犬だとしても)足元にいたことに気づき、身体が再び硬直する。


「じ、じゃあ、用意するから、ここにいてよ。くれぐれも、その紐を放さないように約束だよ」


 オボロはサクラの方を向いたまま、じりじりと後ずさりする。十メートルほど離れた場所できびすを返すと、一目散に愛車に走って行った。

 オボロはトランクケースから聖書ではなく、神道しんとうで使用する祓詞はらいことばを中心とする諸祈願と祝詞のりとをまとめあげた、和紙の束を取りだした。


 悪魔払いの方法で土地に憑く神を祓うということが、果たして正解なのかはわからない。オボロは疑問を抱きながらも、それでもサクラを救いたいと思った。何もしないまま、サクラを消滅させるなんて、絶対にしたくないと心を奮い立たせるのであった。


 サクラとジンタを、ヤマザクラの太い幹の前に立たせる。サクラはまるで初めて記念写真を撮られるかのように、口元を引き締めて眉間をよせた緊張の面持ちであった。

 そんな表情を見ると、オボロは思わず笑みを浮かべてしまう。


「サクラちゃん、大丈夫だから。悪魔じゃないのだから苦痛なんてないだろうし、これでもちゃんとノウハウは受け継いでいるのだから、安心しておくれ」


 サクラは歯を食いしばるようにして、コクリとうなずいた。横でジンタは、変わらずおとなしくお座りの姿勢をとっている。


「じゃあ、はじめるよ」


 オボロは和紙の束を丁寧にめくり、祓詞を唱え始めた。


「掛けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫の日向ひむかの橘の小戸おど阿波岐原あはぎはらに――」


 静かな農家の敷地内で、前代未聞の儀式が執り行われていった。

 オボロは休むことなく、祝詞を読み上げていく。さして暑くない季節であるが、その額には大粒の汗が浮かんでいた。相当な精神力を使っているようだ。

 時間にして一時間ほど経ったころ、オボロのサングラスに白い光が反射し始めた。ヤマザクラの周囲には電灯はなかったはずである。


  オボロは言葉を止めずに、視線だけを向ける。

 光源は、サクラとジンタであった。緊張した表情でまっすぐ前を見ているサクラと、お座りの姿勢のままのジンタの身体が燐光を帯び始めている。柔らかな光である。

 白い光は、ゆっくりと脈打つかのように明滅した。サクラの頭頂部から、徐々に光が下がっていく。顔から首、肩と降りて行き、光のベールはジンタからも同様に下がっていった。

 サクラとジンタの立つ足もとに、丸い蛍光灯を置いたような状態になった。


「サクラちゃん、ジンタもその光の輪をまたいでこちらへおいで」


 オボロは口ずさんでいた祝詞を止め、やや緊張気味の声で言った。


「は、はーい」


 サクラはうなずくと、そっと右足を上げ、大地で丸く光る白い輪をまたいだ。ジンタは言葉を理解するのか、お座りの姿勢から立ちあがり、光の輪をピョンと飛び越えた。

 すると二つの輪は、音もなく縮まりだした。オボロは固唾を飲み込み、その現象を注視する。


「あれーっ、どんどん小さくなっていくよ。不思議だねえ」


 サクラは振り返りしゃがみこむと、ジンタといっしょに見つめた。

 小さくなるにつれ、光度も落ちていく。そして二つは重なるように結合した。

 大地は再び夜の暗さにもどる。完全に光は消えてしまったのであった。


「できたか!」


 オボロは思わず声に出し、光の消えた個所にしゃがんだ。そこにはゴルフボールを一回り小さくした、水晶玉が転がっていた。


「これが、産土神をこの土地に根付かせるための封玉ふうぎょくであったか」


 言いながら水晶玉をつまもうとしたとき、サクラが叫んだ。


「さわったら、ここから離れらなくなるよ!」


 オボロは振り返り、笑みを浮かべた。


「大丈夫さ。これは古来より用いられる、呪法のひとつなんだ。封玉と言って、祈祷師や呪い師が使っていたとされるのだけど。

 この水晶玉の中に神さまをお呼びして、五穀豊穣を祈願するのさ。神さまに入っていただいたあとは、大地に掘った穴を充分清めてから奉納するんだよ。

 遠い遠いご先祖さんたちが執り行ったんだろうね。だから、人間である私には何の実害もないわけさ」


 オボロの革手袋の指先が、小さな水晶玉を持ち上げた。


「このまま置いておくのは、はばかられるからなあ。とりあえず、私が持ち帰ろう」


 オボロはスーツのポケットにしまい込んだ。


「たぶん、これでサクラちゃんはいつでも自由に、この土地から出られるはずだよ」


 サクラはしゃがんだままジンタの頭をなでていたが、いきなり立ち上がるとピューッと駆け出した。ジンタも四肢を懸命に動かしてついていく。


「ええっと」


 オボロはふいをつかれ、かける言葉を失った。

 サクラとジンタは全速力で屋敷の外へ走り去った、と思ったらすぐに同じ速度でもどってきた。前髪が風であおられ、少し広めの額を出しながら駆けてくるサクラ。


「おっじさーん! 出られたよー! わたしもジンタも」


 満面笑みの表情で、サクラはオボロの前で急停止した。

 エクソシストから手ほどきを受けた方法で、土地とサクラの縁を断ち切ることに成功したのであった。

 オボロは、星明かりの下で嬉しそうに飛び跳ねるサクラを見て、ほっと胸をなでおろす。


「これで、この土地は守り神を手放したことになるけど、それも運命さ。最期までご主人が、丹精こめて愛してくれるだろうしね。なにより、こんなかわいい神さまを消滅させてしまうのは忍びないし」


「おじさん、ありがとう!」


 サクラは産土神としての役割を終え、ジンタとともに手をふりながら老人の屋敷から外へ駆けだしていく。

 スキップしながらセーラー服のスカートの裾をひるがえし、走る少女。かたわらで、小さな柴犬も嬉しそうについていく。

 オボロは心の中で「より良き道を!」と声をかけた。


 ただ、帰りの車中でいつまでたっても足の震えがおさまらず、アクセルとブレーキを何度も踏み間違えて往生しながら帰途についた。犬はやはり苦手であった。


つづく

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