翡翠の月
高尾つばき
第1話 惨劇、そして始まり
地上の星と例えられる、街の光。
昼間とは異なるきらびやかな色彩を、まるでカンバスに塗り重ねていくように人工の光を灯していく。
喜怒哀楽の胸の内を、アルコールやカラオケによって発散する人々のざわめき。
行きかう自動車の排気音、クラクション。
不協和音と化したBGM。
あふれかえり、渦巻く音、音、音。
華やかな歓楽街に、人々は一時の快楽を求めてさまよい集まる。その姿は常夜灯に魅かれる虫のようであった。
あでやかな表舞台の裏側には、消化された享楽の残骸が汚物となり、蓄積されていた。不浄のかたまりは夜の闇に隠され、人の目に留まることはない。
秩序なく、隙間をうめるように建てられたビル群。その入り組んだ路地裏。
街の喧噪やきらめく灯りが、カーテンで遮断されたように白から黒へ変わる空間。都会の死角であった。
ぺしゃ、ぺしゃ、
湿気をおびたなにかをすする音。
ずるり、
引き裂く。
ごぎんっ、
硬質のものを力任せに折る、妙に生々しい音が暗闇に聞こえる。
まさか野良犬がゴミをあさる時代ではあるまい。
かんっ!
ふいに暗闇から表通りに向かって、なにかが投げられた。
アスファルトの歩道に転がった。
それは女性用の腕時計であった。スイスの有名ブランドの物だ。ビルの照明をうけ、きらりと光る。
漆黒の空間から忽然と現れた腕時計。その表面のガラス部分やステンレスのベルトには、べっとりと赤い色がこびりついていた。
まぎれもなく、人間の血肉であった。
今しがたついたばかりなのか、からまった真紅の体液がアスファルトに染みを作る。
投げ捨てられた腕時計の、真横に建つビル。十階の屋上には七色に輝くネオン管広告が取り付けられており、周囲を金網のフェンスで取り囲んでいる。
それを乗り越え、異様な風体の人間が見降ろしていた。フードのついた濃緑色の
その姿は広告塔の光の洪水に埋もれ、地上からは見えない。
コンクリートに挟まれた闇の一角で行われている惨劇を、ただじっと観察するように視線を投げかけていた。
はるか上空には、満月が浮かび上がっている。誰もが当たり前に見上げる夜空に浮かぶその衛星は、今宵、毒々しい
~~♡♡~~
チューリップの花冠を逆さまにデザインしたすりガラスのシェードから、淡いオレンジ色の光が机上を浮かび上がらせている。
細い
静寂の包む空間は室内であるが、光源が浮かび上がらせているのはライトの置かれたブラウンの机上だけだ。
木目の天板には、重ねられたカードが一組置かれている。青地にちりばめられた星のプリントが、オレンジの光を反射していた。
裏向きに積まれたカードはトランプではなく、タロットカードであった。
本来は七十八枚一組であり、いま置かれている枚数は二十二枚、つまり大アルカナと呼ばれる占いに用いられるのである。
タロットカードはさまざまな
灯りのなかに、人の手が差しのばされた。黒い革手袋が細く長い指を包んでいる。黒いスーツの肘部分と、黒いシャツの袖が見える。
指がカードを一枚取り、裏向きのまま手前に置かれた。
ゆっくりとカードをめくり、表側を灯りの下にさらす。
ごくりと喉を鳴らす音が、水面に波紋を起こすように室内の空気をふるわせた。
カードは「運命の輪」と名付けられた絵柄であった。しかも天地が逆さになっている。これの意味するところは、運命の変化を読み取ることである。
逆位置に現れたということは、むろん良くないことを指し示している。
打開策なし、反逆、運気が悪くなる、そして苦しくなることを予言しているのだ。
「エーッと。ま、まあ、こういうこともあるさ」
オレンジ色の光の陰でつぶやく声。若そうではあるが、男女の区別が難しい中性的な声色である。
左右の腕が伸ばされ、そそくさとタロットカードは机上から片付けられた。
ごそごそと動く音が聞こえる。次にライトに照らされたのは、茶筒であった。正確には茶筒ではなく、
手袋をはめたまま筮竹を筒から取り出そうとしたとき、静寂を破るけたたましい音が鳴り響いた。
ジリリリーン、ジリリリーン。
今では見かけることのなくなった旧式ダイヤル電話の呼び出しベルであった。
ガシャリ、重い受話器を持ち上げる音。
「もしもし」
黒い影はささやくように応える。
「
影は名乗ると、筮竹をそのままにし、椅子に背中をもたせかけるスプリングの音がした。
「先日はどうも。鑑定料もきっちり私の銀行口座に、入金されていましたよ。いえいえ。
で、どうですか?」
オボロと名乗った黒い影は続けた。
「心配されるのは当然です。最初は皆さん、半信半疑で私の鑑定を受けられますから。
まあ、私の占術から導き出された答の通りに、交渉相手と会う日時を決めていただければ問題なく好条件を手にできます。その点は保証いたしますよ。
ああ、ただし必ず赤いハンカチを胸ポケットに入れることと、竹本さんが座る席は南東に近い方角を見るようにということはお守りください。
大丈夫です。私の占術は、そう、ご存じのように百パーセントの的中率。
そこいらのエセ占い師とは、格が違いますよ。
だからこそ高額の鑑定料をいただくし、お客さまはそれ以上の運命を手にすることができる」
オボロは受話器を肩にはさんで、筮竹をさわりはじめる。
「竹本さん、あなたは
占いは当たるも
オボロは面白そうに含み笑いをした。
「ただし、本物の占い師はテレビやメディアでの売名行為なんてやらない。有名どころがすべてエセだとはいわないが、九十九.九パーセントは本物じゃないですね、私から見れば。
真の占術師は表に名前をださなくても、こうやってお客さまが自ら来てくださる。
法外な鑑定料だって、きっちりお支払いいただける。
そう、百パーセント当てるから、なんですよ」
「だから私は店もかまえないし、看板も出しません。
まあ、千の言葉よりも一の真実です。結果をごろうじろ、ってところですか。
はい、もちろんです。なにかまた相談事があれば、いつでもどうぞ。
では、より良き道を」
オボロは受話器を置くと、立ちあがる気配をみせた。
うーん、と背伸びをする。
「
しかし、どうしてあんな予言がでてくるのかな。やはり自分自身を占うってのは、よくないな。後味が悪い」
独りつぶやく。
窓にかかる、分厚い遮光カーテンを開けた。
地上三十階の自宅マンションは、夕暮れの薄紅色に照らされている。
十畳ほどの室内は、ベッドルームとして使用されているようだ。シングルベッドに、高級な光沢を持つデスク、革張りの肘掛チェア。後ろの壁には備え付けの書架があり、すべての段に本がぎっしりと並べられている。
背表紙から察すると、英語、フランス語、中国語等で書かれた原書のようだ。
この部屋の主、オボロと名乗る占術師は夕陽を浴びて景色を眺めた。
染めているのか、銀色に近い白い髪は無造作に肩辺りまで伸ばしている。丸く黒いレンズのサングラスをかけた細面の顔は白く、それだけをみれば若い女性のようだ。
そして黒いスーツに黒いシャツを着込み、革の黒手袋をはめた手を胸元で組んでいる。体型からすると、男性にも見える。年齢は判断が難しいが、二十~三十歳代であろうと思われる。
オボロはしばらくの間、ただ夕陽を見つめていた。
~~♡♡~~
古今東西、占いと呼ばれる儀式はつねに人々を魅了する。英知を持った人間は、未来を知るという誘惑にさまざまな手法を編み出していた。
いったいどれくらいの種類が占いとして存在しているのであろう。
新聞、雑誌はもちろん書店の専門書籍コーナー、現在ではインターネットを通じて占いを見ない日はないくらい蔓延している。
街中でも雑居ビルの一角や、大型ショッピングモールには占いコーナー、ブースが当然のように店を開き、お客が真剣な表情で占い師の言葉にうなずいている。
大国の大統領は、自身専属の占星術師を雇っているという。
一寸先、または将来の羅針盤として、占いは重宝されてきたのである。
ただし、おのれの未来だけは絶対に観ない占い師も多いと言われている。なぜなのだろう?
オボロも大勢の顧客を鑑定してきているが、自身の未来は観たことはなかった。それがどういう心境の変化か、ついつい占ってしまったのである。
今夜も依頼人のもとへ出張し、鑑定をする予定だ。その前の肩慣らし程度という、軽い気持ちでやってしまったのである。
それが、これから起こる摩訶不思議な出来事を招き寄せたのか、それとも運命としてすでに決まっていたのか、百発百中の占術師オボロでさえ知る由もなかった。
つづく
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