――獣の王――

 私は王だ、王であった。気高き王者と、そう思っていた――

 広大な大地。豊かな草葉が生い茂る草原。その一帯全てが私の支配下だった。

 それが井の中の蛙であったと知ったのは、遠い、遠い時の昔。

 それこそ幾星霜も昔の事だ。思い出すのは遥か昔、王だと思っていた自尊心が酷く無意味だと知った頃……




 ワタシハ……ダレダ?

 嗚呼……ナニモカンガエラレナイ……ナニモワカラナイ……




 そうだ、コノ咽の痛みには覚えがある。

 やらなければいいけない事がある。

 どれだけの月日の間、苦痛に苛まれたのか、私はとうとう頭までやられてしまったのか。

 だが大丈夫。まだ、私は己がすべきことを忘れてはいない――


 

 

 

 どうすればいいのか、私達はここで果てるしかないと言うのか。

 足の短い草が覆うここら一帯。雨が降らなくなり、忌々しい太陽が日照り続けるようになったのは何時からだ?

 見ろ! 草は枯れ、木々は弱り、生き物は屍を晒し始めて既に幾日。

 このままでは私達がこの大地にむくろを晒す日も遠くはないだろう。

 罅割れた大地は崩れ、砂となって空に舞う。砂は喉に絡み、なんとも言えない痛みを訴える。

 咳き込む咽にたんは絡まず、口内には唾液の一滴さえ沸くことがない。



 見よ! 忌々しいくらいに晴れ渡った青空を!!

 雨が消えて一体どれだけの時間が過ぎた? 私は昼と夜を数えるのを何時から止めた?

 このままでは子が、妻が、仲間が倒れてしまうと言うのに。天よ、お前は恵みを降らせないと言うのかッ!

 これ程の無力、私にはただ祈るしか出来ないと、そう嘲笑うと言うのか?

 だから私は一心不乱に唄うのだ。声を高らかに、罅割れた唇から祝福と怨嗟を糧に、恵みの雨が降るその日まで……



 見よ! 大地を制覇せしめた私の足腰を。今ではまるで萎びた木切れのようではないか。

 泉は既に枯れ果てた。それはもう一体どれ程昔であったのか。

 仕留めた獲物と、息絶えた生き物の血だけが私達の乾きを癒す。それも途絶えて久しい。

 天よ神よ、草原の王者と驕った私への天罰だと言うのか!

 住処であった周囲の木々も今では枯れる直前であり、花々は既に萎れて枯れ果てた。

 だから私は唄うのだ、高らかに声を張り、天に届けと唄い続ける――



 ――太陽よ、恵みの光よ、お前の姿はもう要らない。

 ――雨雲よ、癒しの雨を呼び大地へ降り注げ。

 ――太陽よ、恵みの光よ、お前の姿はもう見たくない。

 ――雨雲よ、癒しの雨を呼び我が命を癒しておくれ……



 死の大地と化した草原で、一際大きな岩に登り私は唄う。

 既に息子と娘は弱ってしまっている。寝床でぐったりした姿を眺めるしか出来ない無力。

 それが天罰だと神は言うのか? 王と気取っていた私の無様を、お前は笑うのか?

 無力と悲しみで溢れる涙と少ない獲物の血では、皆を救えない。

 妻と子の、愛する者すら私は救うことが出来ない。

 私の力では、あまりに水が足りない――

 


 乾いて罅割れた唇、砂の味がした。

 焼けついてひりつく咽の痛みなど、既に慣れてしまった。

 それでも私は一人声を高らかに張り上げる。


 ――何度でも、幾度でも唄おう。

 ――何度でも、幾度でも祈ろう。

 ――何度でも、幾度でも踊ってみせよう。

 ――例え幾度もの絶望が私を打ちのめしたとしても……





 一族の者達は既に生気が無い。諦めてしまったのだ。

 それでも誰一人この地を、私の下を去る事は無い。

 濁った瞳に、萎れかけた心だとしても、生まれ育った地を捨てる事もなく、私を信頼してくれている。

 神よ天よ! お前達はそれを見て、無力に嘆く私を笑うのか!?

 私と若者だけでは一族を救えない。他の生物すら見捨てた大地で、私達は緩やかな死を待つ。

 私の唄と祈りだけでは、力が足りない――

 それでも私は己の無力を噛み締めながらも、ただひたすらに唄うのだ……



 ――夜よ、帳よ、星月達よ、お前の姿はもう見飽きた。

 ――天の炎よ、咆哮と共に豪雨を呼び、大地を癒してくれ。

 ――夜よ、帳よ、星月達よ、夜明けが来る前に立ち去るがいい。

 ――天の炎よ、咆哮と共に豪雨を呼び、咽の痛みを消しておくれ……





 幾度唄ったのか、何度祈りを捧げたのか。

 駄目なのか、私の唄では、祈り程度では天は見向きもしてくれないのか?

 こんなに唄い、こんなにも祈り。無様に踊り続けたというのに、何時しか声すら掠れ果てた唄と祈りと踊りでは、天よ神よ、お前達には届かないと言うのか。

 身体が重い……もう声が出ているのか、祈りの言葉を口にしているのか、足が動いているのかも分からない。

 ここまでなのだろうか。結局、私には救えなかったのか……

 神よ天よ、私は死したとしてもお前達を決して許しはしない――――





 ――――これ、はなんだ?

 閉じた目蓋に冷たい“何か”が当たる。

 力を失った肉体に冷ややかな液体がぶつかる感触。

 知っている。私はこれを知っているぞ! もう遠い昔、忘れ果てた時には当たり前だった現象。

 そう、これこそ恵みの“雨”!!

 


 瞳を開ける。見ろ! 空は暗澹たる黒き雲に覆われ、ぽつりぽつりと私が望んでやまなかったモノを降らせている。

 ああ……あ゛あ゛……誰に感謝すればいい? 神を恨むと、天を引き摺り降ろすと決意した私は、この奇跡を誰に感謝すればいい?

 必死に探す。奇跡を起こしてくれた存在を、どこに隠れていたのか、活力漲る全身で周囲を探る!



 ――居た。そうか、貴女が降らせてくれたのか。



 遠い、一キロ程も先。崖の上に立ち、両手を天に向けて一心不乱に何か祝詞を唱える人物。

 さぁ足よ動け。走るんだ。彼女がこの地を去る前に!

 私は走り出す、しかし、自慢の四足も月日で萎え、満足な速度が出ない。

 それでも走り続ける。無様に転び、膝を擦り、自慢の毛皮が砂に塗れたとしても。

 走る、走る、走る! 肺が湿った空気に歓喜の痛みを訴える。

 その痛みが愛しい。雨に塗れた毛皮が重い、それすら愛しい。



 懸命に走り続ける。私の視界は常に彼女に固定され、それ以外を映す事は無い。

 少しずつ近づく姿。遂に祝詞が耳にまで届く。その声すら私には愛しい。

 銀色の長い頭髪、白い肌、真っ赤な瞳、幼くも端整な顔。

 人と呼ばれる人種。高貴とも言える容姿に反して、纏うは粗末なドレス。

 やがて、彼女と私の距離はたったの数メートルとなった――



「すまない……今の私では雨を降らせるのが限界なのだ……」



 悲しげな顔をしてそう告げる彼女。

 ああ、この時程人の言語を紡げない我が口が恨めしかった事は無い。

 一匹の獣に過ぎない私は、彼女に感謝の言葉一つすら伝えられないのか。



「旅の途中、噂を聞いた。雨を忘れた死の大地で、ただ一頭、狼が不思議な踊りに遠吠えを天に捧げていると。そしてその声は、私に確かに届いた」 

 


 だからやってきたと彼女は言う。雨を降らせるくらいなら私にでも可能だと。

 有り難う、有り難う……例え気紛れだとしても、それで私の一族は救われたのだ。

 神は居なかった。代わりに貴女が居てくれた、その奇跡。私は獣の言葉で何度でも祈ろう。

 有り難う、有り難う……無様な王の願いを聞き届けてくれて。



「泣くな。それでも誇り高き獣の眷族か? 痩せ細り、死ぬ間際まで祈り続けたお前の思いは、確かに私に届いたのだ……食料など私も殆ど持っていないが……これくらいなら私でもやれる、持って行け」



 ――ビチャリ……

 何かが私の顔にぶつかった。ソレが理解出来なかった、出来る筈がなかった。

 ――ビチャリ……ゴロリ……

 再度何かが私の顔にぶつかり、同時に地面にソレは転がる。

 何度も、何度も。彼女は苦痛に唇を噛み締めて、何度も何度も何度も何度も何度も――

 まるで同じ時を繰り返しているかのようだと、その時の私は逃避した思考の端で思った。



 顔に付着した液体の正体は新鮮で真っ赤な血液で。

 転がった物体は白く、細い少女の右肩から先の腕と、左肩から先の腕だった。

 それがゴキュリッと、堪えようも無い音と共に、“再生”した片腕によって何度も引き千切られ、私の目の前に投げ捨てられる。

 正気の沙汰ではなかった。証拠に彼女の顔は血の気を失い、今にも倒れ伏してしまいそうではないか。

 が、私もまたきっと正気ではなかったのだ。



 芳醇で香り高い、嗅いだ事の無い血液の匂い。

 まるで誘われるかのように、私は彼女の“腕”を貪り食っていた。

 肉付きの薄い腕だったが、私にはその流れ出る血潮も、二の腕に集まった少しの柔らかな肉も、味わった事もない味で、長い時に飢えた体は天上の食事の如き満足感を与えてくれた。

 気付けば口元は真っ赤に染まり、辺りには“無数”の腕より流れ出た血と雨で、小さな泉と成り果てている。

 不思議と満たされた肉体は活力を取り戻し、まるで万能感のようなものが私の肉体を満たしていた。



 礼を言おうと見渡すが、既に少女の姿は無く、私は我を忘れて彼女の肉体を貪っていた事実に酷く恥じた。

 王は恩を忘れない。私は恩を忘れない。彼女との出会いは奇跡として私の心で今でも燃えている。

 残っている無数の腕を咥え、私は住処へと走り出した――



 その後、一族の活気は戻り、私はとある決意を胸に支配域を広げるべく奔走していく。

 何時しか一族の皆も寿命で倒れたと言うのに、私の肉体は全盛期のままだった。

 悲しみは一瞬。目標が私にはあった。百年でも千年でも、私は目的の為に走り続ける決意をしたのだから。

 瞬く間に辺りの領土は私の傘下となった。不思議と戦えば戦う程、私の肉体は物理を超越し、信じられない進化を遂げていく。

 人間が支配するその裏で、私は遍く獣を支配下に治めていった。愚かで矮小な人族は、獣が統率された存在だと欠片も疑わないだろう。

 


 やがて、大陸全ての獣が己が配下となった時、私は遂に時が来たのだと知った。

 ――未知の大陸で魔の国が建国されるらしい。

 部下の情報だ。あの時の少女、私は恩を忘れていない。

 密かに獣は彼女を助けていた。過去千年程前からずっとだ。私の名“グレンデル”の下に、全ての獣は彼女の味方である。

 そして遂に、私は億の配下と共に、彼女の国へと渡った……



 思い出すのは、煩わしい七名の真祖を名乗る彼女の劣化品ども。

 私が進むのを邪魔してきたのだ。笑いたくなる程愚かな者達だった。

 実力の差を知らないと見える。蹴散らし、蹴散らし、食い散らかしてやった。

 私が恭順すべきは遂に辿り着いた、玉座で優雅に座す“彼女”であって、その血族等ではない。

 私は一人、彼女の軍を傷つけた詫びに腹を見せ、殺される覚悟で告げる。



『誓おう。在りし日の恩に従って、今度は私が永久の忠誠と剣を捧げんことを』


 そして彼女、レティーシア・ヴェルクマイスターは私に告げた。

 それはまるで、約束された未来。確定された時がやってきた如く。


「やっと妾の下にきおったか。そなたの暗躍、妾が知らぬと思うてか? 誓おう、そなたの剣は妾だけが振るおう、そなたの道は、これより妾の道であると――」



 


 獣の王と、夜の女王が血塗れの謁見の間で。

 誰にも知られない赤色の言葉を借りて、二人だけで交わした密やかな盟約であった……




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