三話
――――カツンカツン
前を行く教師の後にレティーシアが続く、今はホームルームの時間の為、聞こえるのは教師の足音のみだ。
レティーシアは自身が掲げる淑女の嗜みとして、足音の一切、それどころか無駄な音の一切を嫌う。
必要外の音は優美さを損なう、という考えである。事実、その動きは滑らかで背筋は伸び視線は近くを見ず、遠い一点を見つめる姿はえも言えぬ気品が薫り立っている。
もう間もなく目的の教室に到着するだろうことは、全地図を頭に叩き込んであるレティーシアには手に取るように理解できていた。
(妾が編入するのは確か……魔法学部一年、Sクラスであったか? 生徒数は確か二十名程だと言っておったな。まぁ、妾が最高位組みに編入するのは当たり前であるのだが、どの様な輩が居(お)るのか、楽しみにしようではないか)
――――カツカツカツッ……
目の前から響く足音が途絶えたのを耳で捉えたレティーシアは、思考から脱却し前を向く。
すると、どうやら目的の教室に到着したらしく。
教師だという男がドアの前でこちらを振り返っていた。
「それではレティーシア君、私が先に入って生徒にあらかたの説明をしよう。終わったら合図として片手を上げるから、そのタイミングで教室に入ってくれ」
「ふむ。まぁよいであろう。妾に異存はない」
「そうか、それじゃあよろしく頼むよ」
そう言って見た目二十歳後半程の、爽やか風の男性教師は教室に入っていく。
硝子越しにその姿を眺めればにこやかな笑いながら対応する姿が見える。
合図が出されるまでおよそ十分程であろうと目星をつけ、それならと、暇つぶしとして試験が終わった後の記憶を回想することにし、記憶の海へと埋没していった――――
――――第三魔法鍛錬場の二重式結界を完膚なきまでに破壊したレティーシアは、その試験官の声を無視し、自身に宛がわれる予定の寮の部屋の前に来ていた。
寮長を名乗る年齢不詳の精霊族(エルフ)の女性に、困惑されながらも部屋のキーをもぎ取り、第一女性寮の三階、その最奥にあったキーに記された三千二百番の部屋に到着。
レティーシアとしての思考が、初めて見る鍵の様式に知的好奇心が刺激されるも、彼としての思考がそれでは拉致があかないとさっさと部屋に入ってしまう。
部屋の中の様式は如何なものかと期待して。
「――――なっ!?」
洩れたのは有り得ざる風景による驚愕の声。いや、ある意味当然の風景であった。
それはレティーシアと彼の両思考が統一した見解であっただろう。
二人が入った先、そこに展開されていたのは、埃こそ掃われているものの、簡素なベッドがあるだけの質素というにはあんまりにもあんまりな部屋であった。
そこで何故寮長を名乗る女性がなぜ困惑していたのかを思い知る。
当然と言えば当然であろう。
いくら侯爵のお達しとはいえ、この学園は各国の影響外にある言わば治外法権地帯であり、そこでは独自の法則(ルール)が築かれている。
合格するかも不明であったレティーシアの部屋を、掃除はしたとして家具を揃える義務など、その時点では存在していなかったのだ。
むしろ、きちんと掃除されているだけでも十分と言えよう。
まぁ、合格後に来たとしても最低限の物しか置かれてはいなかっただろうが。
それでも生活する分には問題なかったのであろうが、これは“彼”としても“レティーシア”としても許容できるものではなかった。
レティーシアにして見ても、自身の身の回りは全て彼女に傅く侍女が行っていた。
侯爵家でも彼としては羞恥の極まりであったが、基本身の回りは全て侍女が行っていたし、宛がわれた部屋もかなり豪奢なものであったのだ。
それはさながら王侯貴族に等しい扱いであった為、この現状は余計に目に痛かった。
贅沢に慣れた身に対して、いきなり清貧せよとはなんの厳罰かとすら思う程である。
因みにメリルに関しては、屋敷から既に侍女を一人寮室に派遣しており、家具一式に模様替えを済ませてしまっている。
何故その事を教えなかったのか? と、問われれば。
質素な部屋に耐え切れず、義姉(あね)である己の部屋に自らやってくる、もしくは……
「メリル姉さま、あのような部屋では寝れません! ご一緒に寝ても……よろしいでしょうか?」
とレティーシアが言い。
「ふふ、そう。そうよね、さぁおいで可愛いEine《私の》 Schwester《妹よ》!!」
「お姉さま!!」
という展開を期待してのことである。
勿論そんなことは、現在絶望に打ちひしがれている二人の知るところではない。
例え知っていたとしても、自らライオンの前に進み出る獲物はいないだろうが。
無論二人にメリルを頼るという選択肢が存在しなければ、現状に甘んじるという思いもない。
無いのなら、他所(よそ)から奪えばいいし。
それが無理なら、ある所から持ってくればいいのである。
ならばどうするか? レティーシアとしての思考が現状を打破する為の知識を提供し、彼が実行する。
なんとも簡単なことである。
望む結果を手繰り寄せるため、とあるアイテムを両手に実体化させるべく魔力を込め始めた。
と――
「ふむ、その前に結界を張るべきであったな」
――しようとして一時中断する。
これから行う事を考えれば、察知されるのが不味いのは明白であり、それは即ち非常に厄介なことを招きかねない。
それは基本、あらゆる想定外を楽しむ懐の広さを自認する、レティーシアとて看過できる問題ではなかった。
ゆえに、親指と中指を合わせ、パチンッと数回鳴らす。
すると、その音を媒体に鳴った数と同数の、円形の幾何学模様がびっしりと書き込まれた魔術陣が空中に出現する。
それぞれが出現と同時に消え去り、その度に様々な効力を持った結界が部屋を覆うように広がっていく。
遮音や魔力感知に妨害、覗き防止や転移防止などの効果の結界まで含まれている。
およそ外的要因を排除するにしても過剰な程、強固な結界の数々であった。
目に見えるようなモノではないが、確実にこの部屋は現在隔絶されたのだ。
「これで先ず察知されることはあるまい」
満足そうにレティーシアは頷くと、再度両手を数センチあけ、手前に置き、魔力を込めていく。
光子が煌き、吸い寄せられるように手の内に集まっていく。質量を持たない二次元から、三次元へと昇華するように確かな形と質量を備えていく。
数秒でそれは像を結び、やがて一冊の分厚い本となった。
これこそが魔道を習ってこれより、その知る知識の全てを記した集大成にして結晶。
名を“原罪=peccatum originale”と呼ぶ。
一万年近い歳月、その一日毎に彼女の血を与えられ、知識が綴られた究極の魔道具(マジックアイテム)。
彼女専用であり、その他が扱えば瞬く間にその命を吸い取られ枯らすか、魔道の深淵に狂わされ発狂するかの二択である。
そもそも、他者が内容を理解できるかすら怪しい。
その効果はあらゆる術式のサポート及び増幅である。ようはそれ単体が超高性能な演算器具であり、増幅器なのだ。
製作時には“神”の生皮に、字には異界より飛来した悪魔と呼ばれる生物の血で生成したものを使われている。
魔神と呼ばれる超越種から生成されたパピルス(紙)は、それ自体が力と意思を持つ。
その他材料を含めて過去類を見ない程の一品。
レティーシアは人類の到達せしえぬ計算を可能とするが、魔道においてその果ては遠ざかるばかり。
近未来すら計算できる頭脳と処理能力を持ってすら、その道程はなおほの暗い。
何れ自身だけでは制御しきれない領域に到達するやもしれぬと、その可能性を見越しての道具。
それはつまり、ここで行おうとしている魔術とは、彼女ですら御することの出来ない術式であるか、失敗を一切許されない類か、はたまた解析不能の未知の術式かのいずれかであるに相違なかった。
この場合後者二択が混ざったものだろうか。
これから行おうとしている魔術とは、ヴェルクマイスターにある自室と、この到底居続ける気のおきない寮室との、空間の入れ替えなのだから。
空間操作だけなら楽々行えるだろう。
しかし、今回はその空間と空間に未知の距離及び世界の壁が阻んでいるばかりか、同宇宙なのかすら定かでないときている。
物理的距離は勿論、超えねばならない要点は多い。
それは限定的にとは言え、“世界間転移”に他ならない大魔術も大魔術。
前代未聞、誰もが到達し得ぬ領域であるばかりか、前提に別の異世界を観測していないといけないという馬鹿らしさ。
しかもそれすら大魔術ですら霞む領域である。
基本物質の改変を趣旨とする魔術では、そういった分野は苦手と言えた。
そも、異世界が本当に存在すると仮定しての研究など、どこか狂っていると言わざるをえない。
しかし、幸か不幸か、都合三つの世界を観測することに成功している。
レティーシアの世界に、彼の世界、そしてこの世界。
前提条件を奇しくも身をもってクリアしたのだ。
ゆえに、必要なのは世界を越える為の術式であり知識に他ならない。
そして、その知識も彼のお陰で以前より更に深淵の先を垣間見れた。
――――ならば、後はその成果を試すのみ。
「流石の妾(わらわ)も緊張するな……では、始めるぞ! “原罪”の封印を第一から第五までの全てを解除」
その声に反応し、原罪に巻かれていた鎖が解け、その全貌を完全に現す。
それは真っ赤な本であった。
一万年という歳月とおのが鮮血で染め上げた真紅の魔道具。
まるで意思があるかのように浮かび、濃密な魔力を周囲に撒き散らす。
一般人であれば、魔力酔いと呼ばれる特殊な酩酊状態に陥るどこか、発狂は逃れられないだろう。
「空間及び、転移。それに準じる全ての頁を参照」
原罪が一人でに高速で捲られ、所々の記述が赤く発光していく。
「準備はこれでよい。ここからが本番であろうが……」
深く深呼吸をすると、構築した手順を今度は実際に行っていく。
パチンッと音が鳴るたびに、次々と部屋を魔術陣が満たしていく。
それらは互いが互いを干渉するように溶けあい、融合し、更に別の魔術陣を作り出す。
それでも止まらない、幾度も鳴り響く。
パチンパチンッと何度でも鳴り響く。
魔力の暴風が吹き荒れ、レティーシアの髪をばさり、ばさりと背後に何度も揺らし続ける。
誰が思おうか? この魔術が失敗すればどこぞとも知れぬ異次元がこの世界に漏れ出すかもしれないと、あるいはどこぞとも知れぬ世界の法則が漏れ出すかもしれないのだと。
そうなれば、世界は瞬く間に破滅へと向かっていくに違いない。
ただ暴走するだけでも、あるいは魔力にちょっとした刺激を与えるだけでも周囲数百キロは一瞬で更地と化すだろう。
これはそれだけの危険性を孕んだ魔術なのである。
というのに、口元に浮かぶのは笑みであり、絶対の自信であった。
自身が本来なら触れることのできなかった領域、そこに己(おの)が今立っているという、凡人には到底理解し得ぬ高揚感。
充足感に優越感!
魔道に浸かり、身を捧げ、その知識の虜となった者だけが味わう事の出来る至高の快楽!!
そのあらゆる激動の感情の全てが、音が鳴るたびに増していく負荷に悲鳴を上げる体(ソーマ)、魂(プシュケー)、霊(プネウマ)に遍く染み渡っていく。
レティーシアは思う。これぞ何と甘露であろうかと。
魔道の道を突き進んで早一万年近く、是ほどの高揚感は未だ数少ないだろうと。
既に部屋は赤色の光で満たされつくし、目を開けることすら厳しい程の光を放っていた。
そして、その指が都合七百七十七回鳴り響いた時、その大魔術陣が完成した。
全ての小さく圧縮された魔術陣が一つの魔術陣を形成し、今では部屋を覆いつくさんばかりの巨大さである。
それはミリ単位の模様が所狭しと書き込まれ、その文字一片にすら、扱いによっては寮を吹き飛ばす程の、膨大な魔力が練りこまれていた。
人では到底なしえない最大級の大魔術陣である。
その大きさでも多分に圧縮してあるのだ。本来なら全形は百メートルにも及ぶことであろう。
この大魔術陣を形成している容量の大部分が世界越えに使われており、それは物理的な超越は勿論、一部は概念的な要素にすら及ぶ。
残りは位置の把握や移送後の空間の、世界への誤認などの補助的な要素が占めている。
残った容量はその他に対処できるようにと、万が一の備えであった。
本番ぶっつけである為か、非常に粗く、燃費も無駄も多いがそれでも望みの形となっている。
「ふぅ……山は越えたな。後は起動するだけで完成であるな、流石に疲れたぞ……もう殆ど魔力など残っておらんわ」
それでも後は発動だけであると、軋む体を座り込んだベッドから無理やり立ち上げ。
残った魔力で自身に位相定着の結界を張る。
空間の転移に巻き込まれた場合、一体何がこの身に起こるか分からないが故の対策である。
転移に巻き込まれ、どことも知れぬ異次元に飛ばされたりしては笑えない。
「ふぅ……術式オープン。術式名“世界転移”を発動」
瞬間、体がふわりと浮かぶ。身体が伸び、縮み、再び元に戻されるような奇妙な感覚が襲う。
結界が無ければ巻き込まれていたのは容易に想像ができた。
そして、僅か一瞬で浮いた足は地に付き、部屋は見事にヴェルクマイスターにあるレティーシアの私室に摩り替わっていた。
無論、彼女の部屋は寮の一室等におさまりはしないのだが、そこは空間を歪曲してあるので問題はない。
「ふむ。どうやら成功したようだな。しかし、これは一体どう言う事だ?」
確かに世界転移は成功したのだが、部屋の家具や装飾、その他諸々が固定の魔術が掛けられている筈なのに幾千の年月を経たように老朽化しているのだ。
一部の物に至っては腐食し、使い物にならなくなっているばかりか、砂化しているものまで見られた。
分子結合を保存する固定化の術式も、その残滓が残るだけで、一体転移の間にどれだけの時間を経過させられたのか想像すらできない。
これでは空間と共に人を転移させるのは無理だな、とレティーシアは歯噛みする。
しかし、取り敢えず転移は成功したのだと己を慰める、後は改良あるのみであるのだから。
――――その後、魔力を回復するポーションを異空間(ゲーム内で所持していたアイテムボックス)から取り出し、総魔力量からすれば僅かな魔力を回復すると。
物に宿る記憶、それを利用したその最盛期の状態に戻す魔術を使い、部屋を元の状態に戻した。
この際、近くに誰かが来るとそれを察知する魔術と、レティーシア以外が部屋に入ると、使用されていない寮室と空間が入れ替わる結界が張られる。
勿論察知対策も万全だ。
なお、一向に部屋に来ないレティーシアにメリルが業を煮やして、その後やって来たりとか。
部屋の内部を見られてしまうという事件が発生したが、レティーシアに都合の良い解釈がなされるよう思考の改竄がなれているメリルは、普通ならおかしいだろ! と気にするところを。
「そんな!? これじゃあ、レティが私(わたくし)の所に来てくれないじゃないッ!!」
と絶望の涙を流し、嫌よ! 嫌よ! と縋り付いて来たのは余談である。
その後、合格の通達を受け明日、クラスに編入させるとの通達も受けとり、その日は終了した。
――――そこで思考の海から帰還し、教室のドアの窓から内部を見ると、丁度こちらに手を上げるところであった教師の姿が目に付いた。
それを確認し、ドアに手を掛ける。
これからの生活が、久遠の時における僅かな無聊となることを祈りながら………
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