第1章


               ①


 深夜の十一時。ガス灯のか細くも淡い明りの元で、英国紳士であるホープは珈琲を啜っていた。熱々の湯気に息を吹きかけ、音も無く胃へと落とす。香りが薄く、苦味が舌に砂のようにざらつくのは、砕いた豆を袋に入れて大量に〝煮出している〟せいだろう。珈琲ストールという職業は、何十杯も売ってようやく利益になる。いちいち、サイフォンなど使っていられないのだ。彼の舌が確かなら、チコリの根も混ぜられているはずだ。根っ子は大量の糖分を含んでいるので、ローストするとカラメル化して良い具合の深みを黒い液体へ与えてくれる。半分ほど飲んでほっと息を吐くと、白く細い煙となって上へ上へと広がって大気へ溶けていった。

 ホープは最近ではすっかり数を減らしてしまった珈琲ストールの〝店〟とぼんやりと眺めた。バネ付きの二輪手押し車である。油を染み込ませた布製の屋根付きで、ブリキの大きな缶が三つ、ぎゅうぎゅうに詰み込まれている。缶の下を固定するように鉄製の火壺が置かれ、中で胡桃の殻が足された炭火がパチパチと赤熱しながら周りを暖めていた。八月のロンドン。暦では夏だが、季節がはっきりした日本と違い、イギリスの夜は時に冬のように冷える。今日も例外ではなく、熱々の珈琲が美味いと感じる程度には寒かった。手押し車には案山子の頭だけが刺さったようにオイルランプがぶら下がっている。ガス灯と一緒に、客の姿を照らしていた。数はホープも含めて七名。こんな時間だ。外に出歩いている理由など碌なものではない。逢引の待ち合わせか、賭場の帰りか、それとも単に帰る家がないのか。詮索無用が暗黙の了解であり、口数が少ない者ばかりだった。ホープとしては都合が良い。彼も、人には言えない理由でこんな時間まで出歩いていたのだから。

 さて、珈琲だけでも腹には溜まるものだが、何か形がある物が食べたくなってきた。珈琲ストールの定番と言えばバターパンかハムサンドだが、周りで食べている者はいない。

「何か軽食があると嬉しいんだけどな。なにか無いかい?」

 ホープが話しかけると、珈琲ストールの店主であるアイルランド人の歳老いた男は、大袈裟に額を叩いて残念がったのだった。すると、客の中で唯一の女性であり、娼婦だろう派手な服を着ている若く綺麗な女が珈琲を啜りつつ『まーた始まった』と呟き、嘲るように鼻で笑ったのだ。すると店主が謳うように語りだしたのだ。

「ああ、なんて頃合いが悪い。バターパンは皆、呼売商人連中に売り切れちまった。あるのと言ったら珈琲と俺が夜食にとっておいたミートパイだけしかない。よもや、お客さんは私の食事に御金を払うような御仁じゃないでしょう? いやいや残念。実に残念っ!」

 一ペニー劇場でも始まったかのように芝居がかっている。本当に売り切れたかどうかはさておき、〝変わったこと〟をして客を楽しませるのが目的なのかもしれない。と、ホープが判断した時だ。どこからともなく、擦り減った薄っぺらい靴に薄汚れた服を着た、十歳にも満たないような少女が石畳みの地面を走り、こちらへ寄ってきた。両手で木製のざるを持っていて、こんもりと焼き栗が乗っていた。今まさに焼いてきたばかりなのだろうか、朦々と上気を発しているせいで、近くに寄られると女の子の顔がぼんやりとしか見えない。このタイミングで店主がやはり大袈裟な身振り手振りで語りだす。

「おお、こいつは助かった。〝焼き栗の天使〟が現れおった。さあさあ、御仁殿。十五個でたったの一ペニーだ。どうだい? 待ちに待った食いもんさ。こいつを食べないと家に帰るまでの体力がもたないぜ?」

 歳老いた男が言い終わり、まるで計ったかのように女の子が『美味しいですよ!』とにこりと白い歯を見せるように笑うのだ。ホープと娼婦の目が会うと、女は同情的な呆れ笑いを顔に浮かべていた。おそらく、この男と少女は親子であり、こうやって寸劇しながら珈琲のついでに焼き栗を売っているのだろう。それも、一度や二度ではなく、頻繁に。幼い子供の笑顔と泣き顔には殊更弱い男は、財布の革袋から一ペニー銅貨と半ペニー銅貨を一枚ずつ取り出し、歳老いた男に渡す。

「じゃあ、十五個貰おうかな。こっちの半ペニーは〝天使の取り分〟にしてくれ」

 紅茶が価格を降下させている中、珈琲の価格は変わっておらず、むしろ高騰している傾向にある。だからこそ、チコリの混ぜ物が売られているわけで、アイルランド人ともなればけっして生活は楽でないだろう。同情したわけではない。単純に、財布が安い硬貨でかさばっていたから軽くしたかっただけだ。だから、女の子がぽかんと首を傾げた後にぱあっと笑顔を輝かせたことはホープに一切に関係の無いことだった。 


                ②


 焼き栗をその場で綺麗に平らげたホープは帰路に着いたのだった。珈琲ストールがあった場所がコヴェンド・ガーデン(ウェストエンドに位置する野菜や果実の最大卸売市場)の末端にある広場で、このまま南西に歩かなければいけない。そうなると、どうしてもストランド街を通らないといけない。シティを中心としたロンドン。地図で見れば右半分のイーストエンドが貧困層、左半分のウェストエンドが富裕層と判断するのは概ね正解だ。しかし、一部の例外で、深緑の葉に生まれた虫食いの穴のようにウェストエンドにも貧困区があるのだ。それが、ストランド街である。

 ガス灯の明りは乏しく、ろくに整備されていないようだ。地面の石畳みも傷んでいて、ひび割れや砕けている物が多い。辺りは土地を有効活用するために、背の高い最低でも三階以上の住宅が密集している。夜中というせいもあるだろうが、たとえ昼間に見たとしても、住宅の屋根は灰で煤けて色が判別し難い状態だろう。

 ロンドンは霧の街。とくに、工場や家庭から排出される石炭を燃やしたガスとデムズ河の霧が混ざってスモッグとなって周囲に濃密な曇りをもたらす。ただし、今の時間帯だと景色は程良く澄んでいた。まるで、陽気に羽ばたいていた鳥が翼を休めているかのように。

 ただし、臭いだけ鼻に重く逃げがたい不快感を与えている。垂れ流しにされた生活汚水や猫の死骸、馬糞(もっとも、夜中は糞掃除が済まされているのは昼間と比べれば格段に少ない)腐った肉や魚、質の悪い煙草、またコヴェンド・ガーデンが近いせいか、プラムが腐ったような酸っぱい臭いがたまに鼻孔を棘のように刺すのだ。大方、痛んで売り物にならなくなったのが大量に捨てられたのだろう。氷でも使わなければ、この時期、腐るのは早い。もしかしたら、さっき食べた焼き栗も捨てられた栗をせっせと集めて焼いたのかもしれない。妙に焦げているのが多いと思ったら、商品の質を誤魔化していたのだろうか。ホープは黒いコートの胸元を両手で直し、帽子も被り直し、一人で納得して小さい息を吐いた。

 叫ぶように会話しないとろくに聞こえないロンドンも、深夜になれば石畳を叩く革靴の薄ら寂しい音が反響するのみだ。いや、遠くで喧嘩でもしているような怒声やら、娼婦だろう女の嬌声が聞こえてくる。伴奏でも合わせるかのように野良犬が鳴き、なぜかパイプオルガンの音まで漂ってくる。ストランド街は呼売商人が多く集まる場所でもあり、他の貧困層と違って賑やかなようだ。

 今年で一八九〇年。チューブ型の地下鉄が開通し、ヴィクトリア朝のロンドンはますます発展している。だというのに、貧困層の改善は〝かたつむりの歩み〟だ。こんなことで、いつまでも大英帝国でいられるのだろうかとホープは疑問が沸いた。もっとも、そう考えたところで男には世界を改善するだけの人脈もコネも私財もまるでないのだが。

 二十二歳になり、子供の頃よりも世間というものが見えるようになった。ただし、それは自分が生きる世界という枠組みが意外にも狭いことに気がついてしまったからかもしれない。どうにも感傷的になる夜だと、ホープはコートのポケットからパイプを一本取り出した。ブライヤー(地中海沿岸に育つホワイトヒースと言うツツジ科の植物の根瘤)で、硬く燃えにくく、木目が美しい何年も使いこんでいるせいか、赤みの強かった茶色が、濃い焦げ茶色となっていた。さっそく、火皿を閉じているコルクを外し、箱入りの黄燐マッチで火をつける。細かく刻まれた葉っぱに火が移り、静かに燃えだす。

 舌の上で煙を転がすように吸うと、濃い林檎にも似た芳醇な香りと甘い味で口が満たされていく。なかなか高い買い物だったが、この煙草は正解のようだ。このままゆっくりと歩いて帰るのも楽しいかもしれない。

 深夜といっても、まだ開いているパブ(大衆酒場)がある。一杯ひっかけるのも悪くはないかもしれない。だが、ホープの想いと反して、真後ろから叫び声が聞こえたのだ。

「あわあわわわわわわわわあえあえあえあわわわわわわ!!! 誰か助けて~~~~!」

 反射的に振り返ると、こちらへと突進でもするかのような勢いで若い女性が走ってきた。あまりにも急な出来事にホープがぎょっとしていると、女は荒野で神にでも巡り合ったかのように顔を輝かせ、こちらの背中にさっと身を隠してしまった。

「おい、急になんだ嬢ちゃん。俺の背中にしがみつくな、あ、ばか、引っ張るんじゃねえ! 物乞いなら他を当たれ。こっちは自分の生活でいっぱいいっぱいなんだよ!」

 女の歳は十代の中頃から後半だろうか。薄い金色の髪を頭の後ろで編み込み、腰の半ばまで一本に伸びている。ちょうど、馬の尻尾のようだ。身長はこちらと比べて頭一つ分も低いだろうか。服装は濃い藍色のハイウェスト・ドレスで、身形でだけで判断すれば、中流階級に家庭で働く雑用女中といったところだろうか。涙目の大慌て、元はなかなかの美人だろうに鼻水で台無しになっている。ディナーの最後を飾るデザートであるトライフルに間違ってパセリをぶっ掛けてしまった下っ端女中だってもう少しは冷静かもしれない。

 よほどの距離を走ってきたのか、息切れが激しく、胸元が大きく上下している。白い息が機関車の汽笛のように吹き上げていた。右足の靴紐が解け、ドレスのところどころが泥や埃で汚れている。そして、左手には小汚い革袋を持っていた。多分、財布だろう。

「そそそそ、そんなこと言わないで助けてくっださい! お願いしますよ!」

「断る。明らかに厄介持ちだろ、お前。こっちは気分良く帰ろうとしてんのに、邪魔だ」

 パイプを吸ったままホープは辛辣な言葉をかける。酷い態度だが、貧困層では珍しくも無い光景だ。喧嘩に、盗みに、その他諸々。こんな女をいちいち助けていては、今晩どころか一週間は家に帰れないだろう。だというのに、藁にもすがる思いなのか少女はこちらのコートを掴んで離さない。強引にでも引っ叩くべきだろうかとパイプを口から外して、盛大に煙を吐き出した時だ。ちょうど、少女が走ってきた方向から数人の男達であろう怒声が聞こえてきた。

「こっちだ、こっちに逃げたはずだ。追え! 追って捕まえろ!」

「畜生あのアマ! 捕まえたら尻の穴に俺の人参をぶっ刺してやる!」

「おい、あれじゃないか? おい、男の後ろに隠れてやがるぞ、おい!」

 三人の男がこちらの正面、十二、三ヤード(一ヤード=九一・四四センチ)手前で止まる。三十代から四十代の男で、身形は汚く、日雇いの労働者だろうと推測する。相当怒っているのか、顔が茹でたロブスターのように真っ赤になっていた。髭も髪もボサボサで、元の色がわからない鼠色のジャケッドを着ている。完全に何かしらのトラブルに巻き込まれていた。ホープが逃げようとすると、女が急に強気になって勝ち誇ったように宣言した。

「残念でしたー。私はこの人に一晩一シリングで買われたんですー。醜い豚は仲良くお互いの尻穴でも突っ込んで連結すればいいんですー。そのまま朝の列車と一緒に轢かれちゃえばいいんですー。さあさあ旦那さん。こんな奴ら放っておいて私と一緒に珈琲でも」

「ふざけんなガキんちょ。ほら、離れやがれ」

 コートを引っ掴んで少女の手を外す。慣性に逆らえずに女が尻もちをついてしまった。まるで陸に上がった魚のように少女は口をぱくぱくと何度も開閉し、叫ぶ。

「ええええええええええええ! ちょ、ちょっと、今の流れどう考えても私を助ける流れだったじゃないですか! ケンブリッジのボートレースだってこんな暴挙しませんよ!?」

「俺、ボートに乗る方じゃなくてエール買って生牡蠣つまみながら観戦している側だから」

 つまりは、傍観に徹しているということだ。ホープは嘆息一つ零し、少女が逃げないように首根っこを掴んでから、困惑している男達に問い掛ける。

「こいつ、なにかしたのか?」

「あ、ああ。ドルアリーレインのパブで賭け事してたんだ。それで、こいつが裏切りやがったんだ!」

 大方、この女がイカサマをしたのだろうと考えたホープだったが、どうやら違うらしい。イカサマをしていたのは女と、目の前の男三人。つまりは、四人で他の客を騙して金を稼いでいたらしい。そして、取り分を決めている時に、女が全部を持ち逃げしたらしい。まあ、よくある話だとホープはパイプを曇らせていく。

「お前が悪いだろ、それ。全部返せば見逃してくれるんじゃないのか?」

「いーやーでーすー! これだけあれば下宿屋で一部屋借りて二ヶ月は暮らせるんだから絶対に渡しません! 私が客を上手く〝鴨らせた〟お陰なんだからこれが当然でーすっ!」

「なんて神経図太い雌餓鬼だ。おい、構うことねえ、やっちまうぞ!」

 一歩前に踏み出した下男が、ズボンを絞めているベルトに手をかけた。まさか、こんなところで強姦に洒落こむのだろうかと身構えると、単純に尻側に隠れていたホルスターから〝それ〟を引き抜いただけだった。黒く鈍い輝きを秘めたパーカッション式の回転式拳銃を。今から二十年ほど前に集結したアメリカの南北戦争で余ってしまった銃器がイギリスの闇市場で流されている。男が握っているのもそれの類だろう。金属薬莢が開発されて久しい現代。弾倉にわざわざ弾丸と雷管を別々に詰める古臭い銃器など見向きもされないものだが、撃てば人は傷付く。そして、こんな貧困街では立派な暴力になっていた。この距離なら、よほど腕が悪くなければ当たるだろう。少女の顔が蒼白に変わり、嫌だ嫌だと首を横に振った。

「動くなよ~。バタシーのレッドハウスで飛んでる鳩みてえに穴こさえてやるからよ~!」

 一方でホープは目を細め、口を閉じていた。怖気ついたと勘違いされたのか、下男が下卑た笑みを浮かべて下衆な口調で言う。見せつけるように撃鉄を、銃把を握っていない方の手でゆっくりと起こす。カチン、と、運命を決定づけてしまった音が鳴った。

 このまま逃げる選択肢もあった。だが、生粋のロンドン生まれは短気なうえに理屈っぽい面がある。そして、ホープも例外ではなかったのだ。頭に被っていた帽子を女に預け、三人の男へ鋭い眼光を向けたのだ。

「……残念だ。ひどく残念だ。手前等にもうちょいと理性が残ってたんなら、こんなことにはならなかったろうに。だが、仕方ねえ。そこまでして俺と〝遊びてえ〟なら遊んでやるよ。ただし、あいにくとポーカーは苦手でね。コインゲームも好きじゃない。だから」

 言葉を区切り、ホープはコートの内側に右手を突っ込んだ。そして、縫い付けていた革製のホルスターから、それを引き抜いた。下卑た男と同じパーカッション式の拳銃を。ただし、彼の銃器は前時代でありながら〝あまりにも洗練されていた〟。

 コルト社、スミス&ウェッソン社に並ぶ、アメリカが誇る三大銃器メーカーの一つ、レミントン社製の〝レミントン・ニューモデルアーミー〟。つまりは、パーカッション時代最高の名を冠した名器が、ホープの手に握られていた。芸術品とも評されるほどの流麗なフォルムは酸化被膜に覆われ、光を一切合切吸い込む闇の具現か。真鍮のトリガーガードが金色に輝き、木製の銃把は彼の手に吸いつくよう。ソリッドフレームに包まれた肉厚の八角形銃身(オクタゴン・バレル)から続く十四インチの暴力が六発の弾丸を秘めて外気に晒される。

 あまりにも名前が長いため、ホープは彼女を『RNA』と呼んでいる。

 男三人が見るからに動揺し出した。まさか、こちらが銃器を持っているなどと思いもしなかったのだろう。ホープは不敵に笑い、ゆっくりと撃鉄を起こした。彼は、銃を抜く条件を二つ決めている。それは、相手が悪党だった時、そして、武器を向けられた時だ。今、条件が二つ満たされてしまった。こうなってしまえば、戦うより他ない。

「お前達が負けを認めるのなら、俺も快く引き下がろう。……どうする?」

 銃を持った相手からの返答は、『ち、ちくしょうくたばれ!』と引き金に掛けられた人差し指だった。

 銃声は、一つだけだった。

「……随分と遅いな」

 ホープの身体に傷一つなかった。そして、RNAの銃口から朦々と硝煙が上へ上へと零れていた。あの一瞬、相手が撃つよりも先に彼の腕が動き、発砲したのだ。だが、亜音速の弾丸は敵を傷付けたわけでも、殺したわけでもなかった。下卑た男の手に握られていた拳銃を正確に〝弾き〟、地面に叩き落としたのだ。

 再び撃鉄を起こす。回転式弾倉が六十度だけ回り、新たな弾丸が銃口へと招待される。

 驚異的な反応速度に加え、正確無比な射撃。RNAの高い性能と、ホープの力量が合わさってこその絶技だった。手首を押さえて苦しそうに呻いている男へ、彼は淡々と告げた。

「今のは忠告だ。さて、もう一度言おうか。お前達が負けを認めるのなら、俺も快く引き下がろう。――どうする?」

 返答は一目瞭然だった。男達三人が悲鳴を上げて退散してしまう。

 だが、ホープは、それを良しとはしなかった。

「おい、ちょっと待て」

 ホープが声をかけると、手首を押さえていたせいで逃げ遅れた男が『ひいいいっ!』と悲鳴を上げながらも硬直した。まるで、蛇に睨まれた蛙である。ただし、彼は殺すために呼びかけたのではない。少女が持っている革袋を奪い取り、それを男へと放り投げたのだ。時を止めていた魔法が解けたかのように腕が動き、見事にキャッチする。

「そっちもこっちも、誰も傷付いてねえし、金は返すよ。これで、今回は手打ちにしようぜ。……もしも不服なら一勝負しても構わねえが、明日の朝刊に大きく載ることになるだろうよ。で、どうする?」

 銃口を向けながら聞くと、男は一目散に逃げて行ってしまった。金は返したし、とりあえずは〝こともなし〟だ。ホープは腕を下ろし、ガリガリと頭を掻いた。少女から帽子を返して貰い、頭に乗っける。


               ③


 銃をホルスターにしまい、ホープはやれやれとばかりに嘆息した。パイプの煙をしっかりと味わうように深く吸って、なんとか冷静さを取り戻す。暴力には暴力で解決するのが一番だ。なにせ、これが一番〝効率的〟なのだから。祈っただけで奇跡を起こしてくれる万能性がイエス・キリストや聖母マリアにあるのなら、デムズ河で泥漁りをしている〝泥ひばり〟の子供達だって、臭い泥に腕を突っ込むよりも先に手を組んで祈りを捧げているだろう。ともかく、彼は神よりも己の暴力を信じていた。

 そして、こんな道草を食う破目になった原因である女をホープは横目で睨みつけた。呆然とした顔で、まだ尻もちをついている。パイプの吸い口を苛立ちで噛みつつ、男は唸るように言った。

「とっとと失せろ。今度は真っ当な商売でもするんだな。一人で戦う覚悟も無いんなら、賭け事なんて止めちまえ。……俺はもう帰るからな。ついてくるんじゃねえぞ馬鹿野郎。おい、なんとか言ったらどうだ? 耳に腐ったプラムでも詰まったか?」

 返事がない少女へ怪訝そうな視線を向けると、ぐらりと女の身体が横に傾き、そのまま地面へ倒れ込んでしまった。駆け寄って上半身を起こしてみると、目蓋は閉じられ、口の端から涎を零した見っとも無い顔が視認出来た。どうやら、気絶したらしい。なにかの病気か。それともショックか。どちらにせよ、肩を揺すっても一向に起きる気配はなかった。

「おいおい。冗談じゃねえぞ。起きろ、おい! ……こいつ、どうすんだよ」

 助けたって一ペニーの価値も無いだろう。ならば、ここら辺に置いて帰るべきだ。しかし、さっきの男達が戻ってきたらどうなる? ホープがいないと分かれば今度こそ、この少女を犯すだろう。いや、あの三人以外の下男、浮浪児だって、そこそこの美人が寝転がっていれば、安宿の大部屋に詰めこまれた男女のごとく乱交騒ぎになるだろう。

 最初こそ見捨てようとしたホープだが、心の隅っこに残っていた良心が茨の揺り籠に落とされたかのように傷んだ。一分か、十分か。パイプの中身をすっかり吸い切って、がっくりと肩を落としたのだった。

「俺も甘いなあ」

 煙草を吸ったせいではないだろう。少なくとも、純粋にホープの選択だったのだから。


               ④


「ここでいい。止めてくれ」

 ホープが声を張り上げて言うと、屋根の小窓から『あいよっ!』と酒にしわがれた男の声が返ってきた。彼が今〝乗っている〟のは、ハンサム・キャブと呼ばれる一頭立て二輪の辻馬車だった。ロンドンではポピュラーな、距離に総じて代金を貰う乗り物である。客席は前面以外を窓付きの壁で囲まれ、雨風を凌げる造りになっている。また、客の視界を遮らないように、馭者の席は客席の後方、それも外部にある。基本は立ったままで、屋根に備え付けられた窓を開けると、客と会話が可能なのだ。

 馭者が手綱を引っ張ると、黒毛の凛々しい雄馬がゆっくりと行儀良く止まった。車輪が上等なのか、尻への負担が少ない。座る部分も〝ソファ〟のようになっていて、快適だった。ただし、隣で居眠りしている女がいなければの話だが。これで歯軋りしようものなら、蹴飛ばしているところだ。

「就業時間ギリギリに悪かったな。いくらだい?」

「ちょうど一シリングですぜ、旦那。なーに、これぐらい、いつも通りでさー」

 料金は一マイル(一・六〇九キロメートル)で六ペンスだ。ここに、夜間料金が加算される。ホープは財布の革袋の紐を解き、シリング銀貨一枚とペニー銅貨二枚を小窓から馭者に差し出す。馭者は恭しく受け取り、馬へ『明日の朝飯は人参を二本奮発してやるぞ!』と嬉しそうに話しかけた。人の言葉が分かるのか、黒毛の雄馬が大きく鼻息を鳴らした。

 補足すると、ロンドンで使用される主な通貨はポンド金貨(二十シリング分)、シリング銀貨(十二ペンス分)、ペニー銅貨(複数形でペンス)、ファージング銅貨(四枚で一ペニー分)だ。この他には、半ペンス銅貨、三ペンス銀貨、六ペンス銀貨、フロリン銀貨(二シリング分)、クラウン銀貨(五シリング分)、半クラウン銀貨、一ゾウリン金貨(一ポンド分)、半ゾウリン金貨、一ギニー金貨(一ポンド一シリング分)がある。大きな買い物でなければ、それこそ庶民ならペニー銅貨とシリング銀貨だけでも事足りる。

「しっかし、御仁。こんな夜更けに何があったんです? なにか事件にでも巻き込まれましたかい? まさか、女中と一杯やってこっそり帰るってわけでもないでしょう。……おっと、失礼。どうも最近は口が軽くなったようで、へへへへへ」

 誤魔化すように馭者が鼻の頭を描く。夜間のハンサム・キャブとなれば、実に色々な客を乗せるだろう。中には、身持ちの悪い女もいるだろうし、不埒な男もいるだろう。朝刊を読んだら、昨晩に運んだ男が殺人鬼だった。という話も有り得る世の中だ。ただし、金を稼ぐのに苦しい今日この頃、〝臨時収入〟が欲しいと思うのは人の性か。ホープは面倒臭そうに片眉を吊り上げ、絞めかけた財布の紐を解き、ポンド金貨ではなく半ゾウリン金貨を一枚取り出して馭者に渡す。すると、先程は馬と喜びを分かち合っていた顔が、特務を命じられた騎士のように引き締まった。今日は変わった奴らに会う日らしい。

 女を両手で抱きかかえ、馬車を降りる。ハンサム・キャブは音も無く静かにUターンして去っていった。

 ホープの家はロンドンの中心である〝シティ〟から南西に位置するチェルシー地区にある。外れながらも此処はウェストエンド区画であり、住むのは中流から上流の人々だ。歩道は綺麗な白い石が敷かれ、実に快適だ。貧困窟と違って静かであり、誰もが眠っている。

こんな時間に起きている馬鹿は俺だけなのだろうと、なんだか泣きたくなってきた。 

「女ってこんなに重いのか? ああ、胸が成長しすぎて頭に栄養いかなかったのか」

 一人で納得してなんとか家の前まで運ぶ。愛しき家は静かに彼の帰りを待っていた。外壁はしっかりとした石造りで、三階の頭上を飾る三角屋根の赤茶色い煉瓦が実に堂々としていた。鉄製の柵がぐるりと設置され、侵入者を拒んでいる。貴族が社交界時期に使用する町屋敷(タウンハウス)には劣るものの、中流家庭の間では最上位に当たる家である。ただし、庭は少々荒れているようだ。窓には鎧戸が下ろされ、煙突から煙は出ていない。

それは当然だろう。彼は、独身なのだから。女中の一人も雇っておらず、家事は全て自分で済ましている。もっとも、食事は外の屋台や店で済ませ、掃除も外面をましにするだけの御粗末な実体だ。銃器のメンテナンスは処女に初夜を体験させるような丁寧さで行う彼も、自分の命に関わらなければと家事は最低限で〝満足〟してしまうのだ。

 鉄門の鍵を開け、玄関の鍵も開ける。奥の階段へと続く廊下は赤に茶色を混ぜたような色合いのカーペットが敷かれていて、左右の壁にはガスランプが等間隔で掛けられてあった。月とガス灯の明りが遮られたせいか、一気に暗くなる。だが、夜目に慣れた彼の視界ならふらつく心配も無く足を動かせた。

 こんな女を寝室に運ぶつもりなどさらさら無いので、居間のソファに転がしておく。どれだけ鈍感なのか。全くもって起きる気配がなかった。それどころか、いびきが五月蠅いぐらいだった。どうしてこんな女を拾ってきてしまったのだろうかと、今頃になって後悔を覚えた。とにかく一服したいと、パイプの中の燃え滓をストーブの中に捨てて、新しく火を着ける。

「俺も、やきが回ったもんだな……」

 甘い味の煙に苦みを感じるのは、後悔の念か。こんな女を助けて何になるというのだろうか。ホープは立ったままパイプを曇らせ、一人思考の海に沈む。ただし、一分も経たないうちに面倒臭くなって廊下へ出た。階段を上がって寝室に向かう。この煙草を全部吸ったらもう寝よう。

 今日はそれで〝お終い〟だ。


               ◇


 厨房に忍び込んでデザート用の〝さくらんぼ〟を少々失敬する。初めは、その程度の感覚でしかなかった。だが、いつからだろうか。自分にとって、〝彼女〟との時間が掛け替えの無い時間となったのは。音も匂いも色も無い世界でただ、女は迷い、遠くを見詰め――意識が現実世界へと戻ってきた。彼女の名はアンネ・アンゼリカ。貴族のように遅い時間に起床する。上半身を起こし、キョロキョロと辺りを見回して目をこれでもかというほど大きく見開いたのだ。

「目を覚ますとそこは知らない居間のソファの上でした。って、ええええ!? どこですかここは? あれ? 私? なんでこんなところに? 昨晩って確か馬鹿三人から金を巻き上げて逃げている最中に――あわわわわわわわ、そうでしたそうでした。イッツ・ミラクル&デンジャラス! もしかしてここは、あの人の家。『ぐへへへへ。助けた代金は身体で払ってもらうぜ』って展開ですか? 露店商の本みたいに、露店商の本みたいに!」

「……一人で盛り上がっているところ悪いが。俺にそんな趣味は無い」

 後ろからの声にアンネがびくっと肩を震わしてソファから転げ落ちる。したたかに腰を打って悶えていると、男の呆れるような声が返ってきた。

「朝に青虫の真似事をするのがお前の趣味かい? だったら市場のキャベツ相手にやってくれ。そっちの方はなんぼか有益だ」

「いたたたたた。ち、違いますよ。失礼しちゃうな。私はれっきとしたイングランド人です。あーあ。これだからチャキチャキのコックニー(ロンドン鈍りの英語を使う生意気坊やの意)は。そうやって人を馬鹿にしないと自分のアイデンテテーが保てないんですか?」

「アイデンティティーだ馬鹿野郎。…………なら、こんなコックニーが買ってきた熱々の朝食なんていらないよな? せっかく買ってきたんだが仕方ない。俺が全部食べちまおう」

「すいませんでした伯爵殿。私は卑しい貧乏人風情ですので食べ物を恵んでくださいっ!」

 見事な手の平返しである。これ以上意地悪する気にはなれなかったのか、ホープは黙ってテーブルに紙袋を置いた。アンネは恭しくソファに座り直した。まだ彼が了解していないのに先に紙袋へ手を突っ込む。そして、はっとした後に立ち上がったのだ。

「私、アンネ・アンゼリカって言います。あなたは?」

「……ホープ。ホープ・エンフィールドだ。ちなみに、ここは俺の屋敷」

「美味しい朝食には紅茶が基本です。てなわけでお湯を沸かしますね。鍋はどこですか?」

 自己紹介が始まったと思ったら紅茶。その急テンポにホープは面をくらっていた。

「あ、ああ。あっちだ。あっちの厨房に小さい鍋があるから持ってきてストーブに掛けてくれ。ついでにカップとポットも準備しろ。茶葉は白くて背が高い棚の中にある。引き出しは上から二番目だ。間違えるなよ」

 ホープが言うや早く、アンネは厨房へと走って行った。


               ⑤


 数十年前まではデムズ河に直接、工業廃水や生活汚水が流され、そこから全く処理をせずに水を引いただけの水道会社しか存在していなかった。安全に水分を取りたいのなら、新鮮な果物を齧るか、高級な酒を買うしかない。ただし、一八五七年の八月に起きた大悪臭(夏の熱気でデムズ河の排泄物や病原菌が大気中に染み出し、ウェスト・ミンスター宮殿に有毒ガスが充満して国会が機能不全に陥った事件)によって、事態を重く見た政府が本腰を上げた。隠して一八六〇年から本格的な下水道工事が始まり、見違えるように改善された。もっとも、やはり無能な水道会社は完全に消えたわけではなく、庶民の生活はコレラやナチフと隣り合わせだった。

 ホープは有能な水道会社と契約している。よって、彼が家で飲む水は沸騰せずとも腹を壊さない(少なくとも彼の腹は)程度には〝安全〟である。それに気が付いたかどうか定かではないが、テーブルを挟んで対面に座っているアンネはぐびぐびと紅茶を飲んでいた。これで、四杯目だろうか。朝食に買ったハムサンドに、プティング(混ぜ物の意。この場合、小麦粉を水で練った生地で牛肉を包んで似た料理)やフィッシュ&チップスも綺麗に平らげてしまった。同じ歳の男よりも遥かに食欲があるかもしれない。対して、朝に弱いホープは慎ましくアンネの半分程度でお腹が満たされてしまった。

 アンネはよく喋る。こちらが求めてもいないのに、べらべらと身の上話を語りだした。

「いやー。私の家って雑貨店を営んでいたんですけど、二年前に借金で潰れちゃったんです。それで、その日に食べる〝貧者のパン(ジャガイモ)〟をろくに買えない始末でして。……仕方なく私は家を出て一人で生きていくことを決めたのです。ああ、なんて健気な私!」

 今から十七年前、一八七三年に英国を不況が襲った。ドイツの経済恐慌のあおりを受けたのだ。長い時を経た現代でも改善を進んでおらず、職を失った労働者が多い。むしろ、今も不況時代と呼ばれているぐらいだ。こいつも苦労したんだなー、とホープはつい同情してしまう。妙の口調が演技臭いのはこのさい置いておこう。

「わかった。じゃあ、飯食ったし帰れ」

 紅茶を啜り、食後の一服を吸いつつ犬でも追い払うように手を振るホープ。アンネが血相を変え出した。 

「えええええ! なんとる不条理。あなたの血は何色ですか! 辛味が効いたグレービーソースみたいに緑色にでもなっているんじゃないですか?」

 急に文句を言い出すアンネ。ホープは上着のポケットから財布を取り出した。

「まあ、これだけあれば足りるだろ」

 ホープが財布から取り出したのは、銀の輝きが眩しいシリング銀貨だった。それも、三枚。これだけあれば、食事代と宿代込みで一週間は生き延びられるだろう。もしも、両方のランクを人間として生きる最低まで下げるのなら、一ヶ月は食い繋げられるはずだ。

 一晩泊めてくれたうえに銀貨まで渡す〝変わり者〟など滅多にいない。今は不況の時代だ。誰も彼もが自分と家族を養うだけで精一杯である。ホープも、こんなに上等な家に住んでいるものの裕福というわけではない。三シリングもあればパブで飲み放題、食い放題の贅沢が出来る。上等な娼婦だって抱けるだろう。

「お、おうおうおうおう!? ホープさんってお金持ちなんですか?」

 三シリングに目を釘づけにされながら、アンネが慄いていた。ここまで変な反応をされると逆にこちらが言葉に困る。

「働いている身分だよ。もっとも、この家を維持する分には〝金持ち〟だ」

 すると、アンネがこちらへと深々と頭を下げた。

「ホープさん。どうか、行く当ても無い不幸な私を雑用女中として雇ってください。贅沢は言いません。お給料は週給で十シリングもいただければ嬉しいです! 掃除に料理、なんでもしますから。……けど、住む場所と食事と賄いと飲み物と衣服代その他の雑費は別でお願いします!」

 週に十シリングは年収で約二十四ポンドに相当する。女中にも仕事別にランクがあるのだが、この年収だと、平均よりもやや高いだろうか。また、住み込みで、飲食代や衣服、雑費代込みとなるとかなりの高待遇だ。劣悪な雇い主だと、給料を高めに設定しながらも衣服代やらを自己負担にさせている場合もある。もしも、ホープがアンネの言った通りの条件で求人広告を刷れば、我先にと応募者が殺到するだろう。まさに、破格の条件だ。

「謙虚のフリして厚かましいな、お前。……まあ、いいだろう。ちょうど女中が一人欲しいって考えていたところだ。ちょうど月曜日だし、土曜日までの働きを見て給料を決める。ただし、お前が俺の理想に見合うだけの仕事が出来なかったら、遠慮なく追い出すからな」

 偽善ではない。本当に雇おうか考えていたところだし、こんな馬鹿そうな奴なら御するのはそれほど難しくない。求人広告を出す手間が省けたと思えばちょうどいいだろう。ただし、アンネはソファから立ち上がると小躍りでも始めるかのような勢いで喜びだしたのだ。

「それはつまり、真面目に仕事すれば住み込みオッケーってことですね? ひゃっほう。これで一ペニー宿とはおさらばだ! ざまあみやがれ宿の糞親父。今度は私が手前の額に銅貨を叩きつける番だぜ」

 あれ、もしかしたら早まったか? とホープは頭痛を覚えたのだった。 


               ⑥


 一抹の不安は拭い切れないものの、アンネに家を任せ、ホープは外出した。昨夜のようにコートを羽織っている。もちろん銃器も装備していた。時刻は十時を過ぎた頃で、向かう先はスクランド街である。なにも街全体が危険な貧困窟というわけではなく、むしろ近年は中流階級向けの劇場や、オペラ会場が多数建設され、雑誌を取り扱う出版社も数多い。今頃、雑誌の編集者は企画会議に没頭している頃だろう。

 通勤ラッシュを過ぎた時間帯なので、早朝のような混雑は無い。それでも、街には人が溢れかえり、馬車がひっきりなしに往復している。中には、社会人層を狙った昼飯売りの呼売商人達が陣地争いを始めていた。紐で通された二つの看板で身体を挟んだ〝サンドウィッチマン〟は歩く広告だ。手に職の無い子供が半日、三ペンスで雇われることが多い。ホープが見付けた歩く看板も、十歳にも満たないような男の子や女の子だった。『女性誌なら我が社、ディスペリー&ウオッシュがおススメ!』やら『秋に始まるダービーレースを生き残るための百の方法、近日発売!』と、種類は雑多である。

なにかの事件が起きた情報でも掴まえたのか、ホープの横を、肩を掠めながら一人の若い男が駆け抜けていった。

 さて、ホープは出版社に勤務しているわけでも、劇を観に来たわけでもない。彼がここを訪れた目的は、〝自分へ依頼されている仕事〟の確認をするためだ。

 ホープが足を止めた先にあったのは、お決まりの金色の玉が三つ描かれた看板を掲げた店――質屋だった。この通路には実に十数店の質屋が並んでいる。現在、ロンドンには六百五十店以上の質屋が存在する。庶民にとっては〝週一の貸し金庫〟とまで呼ばれている。というも、月曜日の朝に金を借り、土曜日の夜に貰った週給で質草を返してもらう。日曜日は晴着の一張羅で過ごし、また月曜日には晴着を持って行く。そんなサイクルがごく自然とされていた。また、浮浪児がデムズ河で塵漁りをして指輪の一個でも見付けたものなら、喜び勇んで質草とするだろう。平均して、一日に五千点もの品が質屋と客の間で取引されているらしい。

 もっとも、本来なら質屋を利用するのは金に汚い〝恥ずべき事〟とされ、店の中には裏口と個室を設けて、客同士の顔が見えないように工夫している店まであった。ただし、ホープは正当に質屋を利用するために訪れたのではなく、人目も気にせずに堂々と表口を利用した。どちらにせよ、裏口を利用するのは質屋の〝初心者〟で、三回も行けば表口も頻繁に利用するのが本当の庶民で、貧困者である。

 店構えは古臭いものの、いざドアを開けて中へ入ると、中は思いの外、綺麗に片付いている。というのも、金を渡して物を預かるのだから、盗難にでもあえば信用を失うし、質草本体の弁償までしないといけない。店員しか入れない背の高いカウンターの奥にある棚に質草が綺麗に押し込まれていた。ぱっと見えるだけでも、衣服類に帽子、パイプ、金時計、壁画、よく分からない置物、鍋や靴など様々だった。客の姿はなく、カウンターの向こうに立っている店主が『いらっしゃい』と顔を上げ、こちらの顔を見るなり破顔したのだった。

「おお、ホープ。待ってたぞ。今日の奴は〝とびっきり〟だ。ヤードの連中が息咳切らして早くに来たよ。あんまり遅かったら馬まで出すって言ってたな。まあ、待っとけ。今、持ってくるからよお」

 早口でまくし立てるように言ったのは四十の坂を越えた中太りの男、ジョージ。通り名は『耳長のジョージ』。簡単に説明するならば、彼は表沙汰には出来ない裏の仕事を仲介するのを目的としている。とくに、ホープのような〝無頼者〟へ、ヤード――警察が秘密裏に依頼する場合に、ジョージの店が利用される。すっかり旧知の仲となっており、一緒にパブで痛飲することもある。ちなみに、質屋としても人気がある。客の質草を勝手に他の客へ売るような悪事も働かず、周囲からの信頼は固い。

「ボビーから依頼ねえ。まーた、なにがあったのやら」

「がっはっは。お前さんにとってはいつも通りじゃねえか」

ロンドン警視庁――スコットランドヤードに所属する警官達はボビーという愛称を付けられるまでに成長した。というのも、本格的に発足された数十年前までは無能、無意味、無力の三拍子とまで中傷されていたのだ。また、盗みや恐喝をする貧困階級を数多く取り締まったせいで、その階級から恨みを買っていたという理由もある。現代ではかなり、庶民からの待遇も職場環境も改善された。ヤードを殴れば英雄だと褒め称えられる事案も、随分減っただろう。

ジョージが奥へ引っ込み、一枚の封筒を持ってきた。蝋で閉じられ、表に『ホープへ』と書かれているだけだ。 

「こいつが良家の御嬢様からの恋文なら嬉しいのになー」

「がっはっはっはっは。違いねえ。どうせ書いたのは顎髭の濃い警部だろうさ」

 肥えた腹を震わすようにジョージが歯を剥き出して笑う。ホープはペーパーナイフも使わずに指で封筒を破り、中に入っていた手紙と写真数枚を取り出した。模様の凝った便箋などではなく、一枚の白い紙にインクで文字が走っているだけだった。視線を落とし、読み進め、彼の眉が顔の中央に寄る。だが、険しい表情の中に一抹の自嘲が混じっていた。それは、こんな事件は自分に相応しいと思ってしまったからだ。

「なんだい? やっぱり〝とびっきりか〟?」

「ああ。こいつはフィールド大尉も裸足で逃げ出すだろうな」

「やっぱり殺しか? その写真、現場を撮った写真だろう?」

 射影械(カメラ)も持ち運びが可能になるまでサイズダウンした。そのお陰で、警察は現場を押さえるため、頻繁に写真を撮る。ホープは写真を『昼飯食う気なくすぞ』と断ってからジョージに渡した。『がっはっはっは。切り裂きジャックの作品じゃあるまいし』と大袈裟に笑って、露骨に顔を顰めたのだ。そして、すぐに写真をこちらに押し付ける。

「……おお、びっくらこいた。こいつは駄目だ。なんたってまあ、狂ってるもんだ。吐き気がするぜ」

「同感だ。冷えたレモネードが飲みたいぜ」

 写真に映されていたのは人間。ただし、それはもはや話すことも動くこともなくなった血肉の塊――死体である。それも、明らかに〝殺し〟だった。歳は十歳程度の少女だろうか。手紙に書かれた情報によれば、名はメアリー。とある屋敷で働く女中だったらしい。髪は長く、頭の後ろで編み込んでいる。本来なら、女中用の服を着ているだろうに、裸だった。ただし、劣情を催すようなことは一生無いだろう。白かっただろう肌には無数の痣と、切り傷がある。まるで、こん棒とナイフで数人もの暴漢から襲われたように。斑模様になった死体の両腕と両足は紐で縛られ、首にも巻かれている。身動きを取れないようにして襲ったのだろうか。右の眼球は飛びだし、だらりと舌が垂れている。四肢は有り得ない方向に曲がり、折れていた。

 もう一枚の写真は、どうやら屋敷の主人らしい。名はアンダーソン。銀行の経営者らしい。三十代前後で、身長は高くないものの、がっちりした体格だ。しかし、写真の彼は後頭部から血を大量に零し、絶命している。いや、後頭部の傷など可愛い方だ。男の下半身が〝無くなって〟いたのだ。腹部から下が、斧か鉈で滅多打ちにされていたのだ。内臓が地面に溢れ、とてもではないが直視出来るものではない。

「人間で臓物(キドニー)パイでも作ろうとしてたんじゃねえのか? どうも、最近はこういう輩が多くて困るぜ。メリル・ボーンの屋敷で、殺されたのはこの二人。生き残ったのは妻に息子二人、使用人は十人か。相当な金持ちみてえだし、金銭目的って言いたいところだが、盗まれた物はなしか。鍵をかけたはずの玄関が開いていていたのは、鍵開けでもしたからか。二人の死体は主人の寝室にあった。どうして、このメアリーって女中は寝室にいたんだ?」

 手紙を読みつつ、ぶつぶつと呟きながら推理を始めるホープ。すると、ジョージが大袈裟に身振り手振りで語りだす。

「大方、主のベッドをバン(蓋があるフライパンのような形で、石炭を中に入れる)で温めていたんだろうさ。そこへ切り裂きジャックに憧れた大馬鹿が忍び込んで殺したはいいが怖くなって金は盗まず逃亡した。そんなところだろ。銀行経営者といえば、オーストラリア公債で面倒事起こしたって話も良く聞く。主人を殺したら女中に見られたから口封じって路線もありじゃないか? うーん。確かにえげつねえ殺しだが、ホープへ速達の手紙を出すほどの事件かねえー」

「その切り裂きジャックの真似事っていうのが問題なんだよ。事件から二年近く経って、まだ犯人を掴められてねえ。貧困窟の間では、カルト的なヒーローになってるんだぜ? このままだとヤードのメンツが丸潰れだ。だからこそ、どうしても尻尾を掴みたい。かといって、他の探偵や〝裏稼業屋〟に協力を要請したと分かれば、それこそ恥だ。見ろよ。報酬が前払いで五十ポンドだ。かなり、躍起になっているみたいだぜ?」

 熟練労働者が一年間必死に働いてようやく手に出来る金額である。これは、仕事を受けないわけにはいかない。なにより、犯人の〝生死問わず〟という条件がなおよろしい。ホープは手紙と写真をコートの内側にあるポケットに突っ込んでほくそ笑んだ。

「じゃあ、また来るよ。次は、パブで一杯やろうや」

「がっはっはっはっはっ。おう、またなー、ホープ」

 こうして、ホープは質屋を後にしたのだった。これからしなければいけないことが沢山ある。まずは、情報集めに、事件現場の探索。やらなければいけないことは山積みだった。

「……その前にレモネードでも飲むか」

 どこかに露店は無いかと、ホープは周囲を見回したのだった。


               ◇


「桑畑を周りましょう。周りましょう。周りましょう。桑畑を周りましょう。いつも朝早くから。これが今週のお仕事よ。お仕事よ。お仕事よ。これが今週のお仕事よ。毎日朝早くから。洗濯物はこう洗うのよ。洗うのよ。洗うのよ。洗濯物はこう洗うのよ。月曜日の朝早くから。アイロンはこうかけるのよ。かけるのよ。かけるのよ。アイロンはこうかけるのよ。火曜日の朝早くから。床はこう磨くのよ。磨くのよ。磨くのよ。床はこう磨くのよ。水曜日の朝早くから。綻びはこう繕うのよ。繕うのよ。繕うのよ」

 陽気にマザーグースの歌を口ずさみながら、アンネは買い物に勤しんでいた。服装はユダヤ人が経営する古着屋で揃えた黒いワンピースに白いエプロン、帽子である。一式が纏まって揃っていたのは、どこかの屋敷を辞めた女中が纏めて売ったからかもしれない。

 ともかくこれで完璧な女中ではないか! とほくそ笑みのが止められないアンネであった。

 彼女が買い物籠片手に歩いている場所はスミス・フィールドマーケットだ。ロンドンの中心であるシティからやや北西の外周部に位置する場所で、食肉用専門店が数多く並んでいる。歩道の左手を見れば、豚肉、牛肉、鶏肉、ベーコン、ソーセージ。鶏肉だけでも、鴨に家鴨、鶏、ツグミ、七面鳥と数多い。中には、〝二歳以下の雌豚の肉〟などと、さらにランク別になっている。さすがに血肉の臭いは酷いものの、買って食べる光景を想像すれば自然とお腹は減るものだ。

「綻びはこう繕うのよ。木曜日の朝早くから。床を掃くのはこうするのよ。こうするのよ。こうするのよ。床を掃くのはこうするのよ。金曜日の朝早く。パンを焼くのはこう焼くのよ。こう焼くのよ。こう焼くのよ。パンを焼くのはこう焼くのよ。土曜日の朝早く。みんなでこうして御洒落しましょ。御洒落しましょ。御洒落しましょ。みんなでこうして御洒落しましょ。日曜日の朝早く。桑畑を周りましょう。周りましょう。周りましょう。桑畑を周りましょう。毎日の朝早く――――っ!」 

 掃除も済ませ、夕食の準備をする自分。これはかなり有能な女中なのではないかと自我自賛。ちなみに、アンネの周りには似たような格好の女中がかなり歩いていた。中には、肉屋の主人と喧嘩腰で言い争っている者もいる。

 夕食代にとホープから貰ったのは三シリングだ。その〝多さ〟にアンネはやや呆れてしまう。これだけあれば、手長エビが中くらい樽一杯買えるだろう。たとえば、食パン二枚とベーコンエッグ、牛乳一杯で三ペンスだ。それが十二食分となればどれだけ多いか用意に想像出来るだろう。実際にあんな屋敷に住んでいるぐらいなのだから、金は持っているのだろう。ただ、どちらかといえば無頓着なような気がしないでもない。

「おっちゃん。この店で一番美味い鴨肉頂戴!」

「良しきた! ついでに、余った豚肉のラードもオマケしちゃうよ!」

「いえーい! おっちゃん男真似! まじ、肉屋のコンスタブル!」

 そんなこんなで良い小鴨を手に入れた。胸肉の一番美味しい部分である。これはもう焼いて塩&胡椒で十分なのではないだろうかと涎がでかけた。ホープは男だろうからと大きく切り分けてもらったが、あれの性格なら私も大きいのを食べても文句は言われないだろうと打算。小鴨の胸肉のソテーなど、貧乏人には夢の食べ物だ。なにせ、加工肉であるベーコンを食べられれば上等だと判断されるくらいなのだから。

 にやにやと勝利の笑みを浮かべつつ、他には野菜をいくつか買って終了だ。こっちは、裸足でボロボロの服を着た男の子からオランダガラシ(クレソン)と、歳老いた女性から玉ねぎを、アイルランド人の少女からジャガイモとニンジンを買った。それら全員が六ペンス以下の〝資本金〟で野菜を揃え、ロンドンの彼方此方を売り渡いている者達である。貧困層の間では、こうやって歩き売りをしている人々が多く、一ペニー稼ぐのに半日を費やしているようなものだ。もしも、アンネが買わなければ夕食のジャガイモさえ買えなかったかもしれない。

 皆、苦労しているんだなーと思いつつ、昼飯用に買った燻製ウナギのサンドウィッチをもそもそ食しつつ、帰路に着く。

 ただ、途中でどうも喉が乾いてきた。夏の熱気のせいか、身体が水分を求めている。

「燻製ウナギって味が濃いからすぐに喉が渇くんですよねー。どっかでミント水かジンの一杯でもひっかけようかなー」

 だが、その時に〝それ〟を発見する。

 アンネが足を止めたのは、半世紀は経営しているのではないかと疑ってしまうほど年季の入った〝紅茶店〟の真ん前だった。今まで利用したことのない店だが、新地開拓には丁度良いだろう。深く考えず、感性のおもむくままにドアを開ける。

紅茶の葉は遠い異国の地、インドやセイロンから蒸気船に乗って大量に輸入されるようになり、関税も撤廃され、珈琲と比べて格段に価格が下がった。お陰で庶民にも広く親しまれ、英国で一番人気の飲み物となった紅茶を提供する店である。別名はティーショップで、都市全域には二百から三百を超える店があり、その人気ぶりが留まる処を知らない。

 意気揚々にアンネがドアを開け、店内に足を踏み入れると、大小様々な丸テーブルを囲み、沢山の人々が紅茶を飲んでいた。サボりの街娘や熟練労働者、半日分の商売を終えた呼売商人、いかにも下っ端のような小僧、あるいは夜に仕事を控えた娼婦か。

 中には賭博師に聖職者までいる。見るからに浮浪者のような輩までいた。それだけ紅茶が魅力的なのだ。店員の男性と女性が一人ずつ、厨房を引っ切り無しに往復している。

 皆が陽気に話しの花を咲かせ、思い思いの時間を過ごしている。ここから百ヤード先の珈琲ハウスも似たようなものだろう。ただし、あちらは高い年間費を払う会員制なので、客の毛色は違うだろうが。

 一番奥のテーブルを選んだアンネは椅子に座ると、ゲホゲホと咳き込んだ。煙草を吸っている者が多く見られ、店内は煙たかった。パイプが多く、紙の巻煙草は少数のようだった。ただし、煙が苦手だから少女が咳き込んだわけではない。

(最近吸って無かったからなー。うう、早くマイ・パイプを手に入れないと)

 現代のロンドンの喫煙率は〝全員〟で三割強だ。つまり、子供も大人も男も女も三人に一人は煙草を吸っている計算である。世界一の喫煙都市と言っても過言ではないだろう。

 男性店員が来たので、『紅茶を一杯!』と注文する。

「さーて、さーて。ゆっくり〝読書〟と洒落こみますか~。……なーんて」

 そう小声で言った少女がスカートの裏からこっそりと取り出したのは一冊のゴシップ誌だった。貴族のスキャンダルや、最近起こった事件などを尾鰭、御頭、御刺身付きのなんでもありで記事にしているロンドンでも一、二を争う如何わしい本だ。ただし、一部の客層、とくに若い女性からは〝世界で一番愉快な聖書(ジ・ケミカル・コミカル・バイブル)〟としてカルト的な人気を誇っている。

 紙税やスタンプ税の撤廃で、雑誌の値段は低減し、高性能な輪転機(文字を打つ判子がローラーのように回転して印字する機械)の発明により印刷技術が向上し、雑誌の販売が年々、力を付けている。とくにゴシップ誌は、庶民の娯楽でもあった。惜しむらくは、ゴシップ誌は古い考えの女性からは嫌われている。また、貴族がゴシップ誌を読むのは御法度で家名に泥を塗る行為に等しい。余談になるが、貴族の女性は使用人に金を多めに握らせてゴシップ誌を買わせているとか買わせていないとか。

(なになに~。バートン夫人の女中を巻き込んだドロドロの三角関係に密着取材? ティーンズ向けの御洒落ファッション~今年の流行一・二・三~。モテる女の料理テクニック。ほうほう、ほうほう。これはなんとも私好みな記事ばかりじゃありませんか)

 ちなみに、このゴシップ誌を書いた出版社があるストランド街でホープは情報収集に精を出しているのだった。無論、アンネは知る由もなく雑誌片手に紅茶を啜る。似たような女中が他にもいた。経験を積めば自ずと仕事の効率も上がり、どれだけさぼっても平気か分かってくるものだ。ただし、単純にさぼっている者もいるだろうが。

「ああ。ホープさん家の濃い味も美味いけど、私的にはこっちだよねー」

 この薄さこそが慣れ親しんだ味だった。ゆっくりと啜りつつ、ほっと息を吐く。ぼんやりと天井を眺め、ふとアンネは呟いた。

「上手く、いくもんだねー」

 安宿暮らしを覚悟していた手前、ホープの屋敷で働けることになったのは、まさに奇跡かもしれない。この時ばかりは神を褒めた。今度からちゃんと日曜日のミサに参加しよう。

 もっとも、ホープから断れたとしてもアンネには生きるだけの手段が残されていた。彼女が属する教会のあるメリル・ボーン地区の教会まで行って〝救貧院〟の手続きを済ませればいいのだ。救貧院とは、どうしても生活が難しくなった者達を助けるための簡易宿泊所のような施設であり、食事も提供される。また、教区で給付金の受け付けも可能だ。ただし、どちらの制度も利用するのは〝恥知らず〟と考える者は多く、厚顔無恥やよほど逼迫した者ではないと利用していないのが現実だ。また、救貧院の中にはわざと利用者を劣悪な環境におき、労働要員として工場に〝貸し出す〟こともある。当然、その場合の賃金の何割かは救貧院の懐へ入るだろう。

 その点、ウェストエンド区画のメリル・ボーンには比較的〝優しい〟救貧院が多いのだが、やはり利用するのはアンネのプライドが許さなかった。  

「まっ。婦人団体のスープショップにありつくのも考えたけど、断然こっちだよねー」

 何せ、安定収入なのだから。それも、住み込みなら家賃を払う必要も無い。信用をがっちり掴んで、少なくとも三年は働きたいところだ。そのためにも、今日の夕食は必ず成功させようと、アンネは紅茶をぐいっと飲み干すのだった。


                ⑦


 夜中の七時。まだ世界はガス灯を利用しなくても新聞が読める程度には明るかった。ただし、ホープの胃袋はすっかり空腹を訴えていて、今日の仕事に区切りをつけることにした。吸い切ってしまったパイプにコルクで栓をしてコートのポケットに戻し、大きな欠伸を噛み殺す。そういえば、どうして俺は夕食を買わなかったのだろうかと疑問に思い、アンネが『夕食は私が作るんで期待しててくださいね!』と言ったのを思い出す。

 怪訝そうな顔になったホープだが、元からアンネにあまり期待はしていない。最悪、コヴェンド・ガーデン辺りのパブでも利用しようと家の前まで差しかかって、あんぐりと阿呆のように口を半開きにしたのだった。自宅の煙突から朦々と煙が上っていたのだ。それも、あれは厨房に直結している方の煙突ではないか。周囲から漂ってくる美味そうな匂い。もしかすると、この匂いはあそこから? 自分の家なのに、まるで魔女の家を発見してしまった樵のような面持ちで玄関のドアを開ける。

 すると、すぐに廊下の奥、右手側にある厨房のドアが開き、一人の少女がこちらへ恭しく歩み寄ってきた。ホープは目を瞬かせる。朝の服装と違い、すっかり女中服に変わっていた。本当に女中みたいだな、と考え、まあ女中を雇ったんだしと一人で納得する。

「お帰りなさいませ御主人様。お風呂にしますか? ご飯にしますか? それともー、わ・た・し? ベッドを温めるのはバンじゃなくて、お前の身体ってことですかー!?」

「……うん。お前のそういう馬鹿な台詞を聞いてなんか安心した自分が怖いな。無論、飯だ。腹が減って仕方ない」

「任せてください。すぐに準備するんで先に食堂の方へどうぞ!」

 言葉の端々はまだ雑なものの、こいつが完璧な敬語使ったら違和感で寒気がするんだろうな、とホープはコートを脱ぎつつ居間のすぐ隣にある食堂へ向かったのだ。中へ入り、再び目を瞬かせる。正直に言えば、彼は食堂をこれまでほとんど使用しなかった。飯は外で済ませ、朝食も居間か私室で食べてしまうのが大半だった。当然、食堂は埃を被り、とてもではないが使えるような状態では無かったのだが、今はどうだ。

 壁に掛けてあるオイルランプから、ほのかな明かりが灯り、テーブルには白いリネンのクロスが敷かれている。椅子も丁寧に磨かれていて、窓にも曇りがない。これからどんどん冷え込むだろうロンドンの夜対策に、きちんとストーブには薪がくべられ、炎が燃え上がっていた。どうやら、本当に女中として働いていたらしい。

「はいはーい。料理をお持ちしましたー」

 開けっぱなしだったドアに足を引っ掛けてアンネが現れる。その両腕が持っているのは、ホープがこれまで一度も使ったことのない鍋だった。少女はそれをストーブの上に置いた。

「ほらほら御主人様。今日は鴨肉のシチューですぜ。英気を養いましょうじゃねえですか」

 薪が轟々と燃やされ、温められている鍋から美味そうな匂いが漂ってきたものだから、ホープは目を丸くした。前の屋敷では雑用女中と聞いていたので、露店で買った間に合わせが準備されていても文句などなかったのだが、色々な意味で予想を外されてしまった。

 アンネが次々とテーブルへ料理を準備する。シチューに焼き立てのバターロール、鴨肉ソテーの茹でた人参とジャガイモ沿え。上にかかっている緑色のソースはグレービーソースだろうか。どれも普通に美味そうに見える。

「これ、全部お前が作ったのか?」

「そりゃあ、もう。こう見えても私ってフランス語が少し読めるんですよ。実はフランスの料理本を読んだ経験がありまして。いやー、役に立って助かりました。あ、お酒注ぎますねー」

 グラスに赤ワインを注ぐ仕草も妙に様になっていた。この分だと、女中業は初めてではないだろう。かといって、どこかの貴族に仕えていたわけでもなさそうだ。大方、貴族に憧れている上層中流階級(アッパー・ミドル)(法廷弁護士、銀行経営者、企業家、軍士官など、中流階級の中でもさらに年収の高い者たち)の家で身につけたのかも知れない。詮索するのも無粋なので、言及するような真似はしなかった。

「では、ごゆっくり」

 そういってホープが座った椅子の後ろに待機するアンネに、彼は声をかけた。

「なんだ。お前も食べないのか?」

「いやー。働くって決めて無かった朝飯の時ならともかく、今の私は女中ですので。……あ、もしかして一人の食事だと寂しいってことですか? ホープさんは寂しがり屋ですね」

「な、そんなわけないだろ。お前は厨房にでも戻ってろ」

 食堂から追い出そうとするも、アンネはなかなか戻ろうとはしなかった。

「味の感想を聞かせてくださいよー。多少なら、今からでも調整できますし、ホープさんだって美味しい方がいいですよねー」

 もっともな意見だから、ホープは口を閉じた。スプーンを手に取り、シチューを掬う。白濁した液を鴨肉と一緒に口の中へ入れた。五秒、彼は無言になり、七秒後に顔に微かな驚愕の色が灯り、ゆっくりと味わうように噛んで、飲み込む。感想を短く纏めるなら、三文字。つまりは〝美味い〟。しっかりと煮込まれているのか深い味わいだ。それでいて、牛乳の甘みと鴨肉の淡泊な味わいが見事に調和している。塩胡椒の加減も絶妙で、小麦粉の〝とろみ具合〟も、自分好みだった。シチューだけではない。パンもふんわりと柔らかく焼かれ、ソテーも辛めのソースに鴨肉の脂が舌で合わさって美味い。予想を越えたどころか、こいつ朝とは別人なんじゃないのか? と疑ってしまう。後ろへ首を曲げると、アンネは、どうだ見たかと胸を張っていた。安心した。やっぱり、アンネはアンネだった。

「驚いたよ。お前、料理作れたんだな」

「いっひっひっひっひ。これでも大抵の物は作れるんですよねー。まあ、今日は時間が足りなかったんで色々と簡略的にはなっちまいましたが、いやいや、口に合ったようで何よりです。ほらー、ホープさん。こう言う時はなんて言うのかわかりますよねー」

 何かを期待しているようなアンネの口調。ホープはパンを飲み込み、ワインを一口飲む。はっきりと礼を述べるべきだろう。ただ、こいつに言うのか、とプライドが邪魔するのだ。黙って完食してさっさと私室に戻ろうとするも。あの視線を無視するのは気が引ける。

 そして、小声ながらも言ったのだ。

「美味いな」

 ――多分。裏の仕事抜きで誰かへ素直に感謝の念を述べたのは、これが初めてかもしれない。

 アンネが無表情でぽかんと無言になった。ホープは怪訝そうに眉を潜める。この反応は一体、何を意味するのだろうか。大方、『わー。コックニーもそんなこと言えるんですねー』や『ホープさんには似合わないですねー』とでも馬鹿にされると思っていた。だが、少女は胸の前で両手を組んだ。今日から女中になったアンネは、柔らかく、嬉しそうに微笑んだのだ。

「わあ。すっごく嬉しいですね」

 短い言葉。だからこそ、アンネも気持ちがはっきりと伝わる言葉でもあった。仕事終わり。今日ほど心が落ち着いた日があっただろうか。仕事仲間とパブで酒を飲む時とは違った安らぎがここにある。照れ臭くなったホープは無言で食事に取り掛かる。

ちなみに、今日の夕食で彼はシチューを三杯お代わりしたのだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る