ヴィクトリア朝のロンドンで銃使いはどのように生きれば正解か?
砂夜
序章
貴族と庶民の違いなど椅子に座って〝お上品〟に海亀のスープを飲むか、裸足のまま外の屋台で熱いウナギのスープを飲むかの差であろう。ならば、罪人と〝そうでない〟者の違いは、逃げる必要があるのかないかの差だ。女は目の前の光景に愕然とし、何かを叫びながら部屋を出た。自分が昼間に掃除したばかりの廊下を走り、走り、外へ飛び出す。
夜もすっかりと更け、辺りは寝静まっている時間帯だ。最大の不幸を掴んでしまった女にとって残された幸運があったとしたら、誰にも見付からずに外へ出られたことだろう。荒い息を宥める時間も惜しく、再び走り出す。それはきっと、逃げるために。ガス灯の明りを頼りに、無我夢中になって歩道を風の速さで駆け抜けていく。行き先など無い。ただ屋敷から離れるためだけに足を動かし、腕を振った。
口から零れる息が白くなり、まるで機関車のようだった。そういえば、あの機械はどうやって動いているのだろうかとふと疑問が浮かぶ。焦燥と不安、恐怖が心臓を押し潰そうとしているのに、妙に冷静な思考が保たれていた。心が強制的に冷静さを取り戻させようとしているのかもしれない。
(石炭が一杯積まれているけど、あれって暖炉とかストーブ用だよね。どうやって動いているのかな? そういえば電信ってどんな原理なんだろう。マルクスって誰? ナポレオンって何をした人なんだろう? ――――――私は、これからどうするべきなのかな?)
誰も教えてくれる人はいない。当然だ。女は逃げてきたのだから。そして、罪人になってしまったのだから。どれだけ走っただろう。今まで買い物では使ったことのない道のせいか、まるで周りが異界へと変貌してしまったかのような奇妙さを感じ、恐怖が際立った。
暴れる胸郭を宥め、ふと震える唇から言葉が零れた。それは、歌だった。
「ハンプティ・ダンプティ塀の上。ハンプティ・ダンプティ落っこちた。みんながどんなに騒いでも、もうもとへは戻らない。……そうね、とどのつまり、こんな私は落っこちた卵野郎と同じで、もう〝戻れない〟。デムズ河に落とした金貨みたいにね。平穏は、すでに過ぎ去っている」
だが、戻れないのなら、走るしかなかった。女は短い休憩を終えるとすぐに走りだした。
明日は分からない。
(なら、運命だって変えられる!)
とりあえず、朝になったら熱いウナギのスープを飲もう。と、女は考えた。
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